闇の嘶き
★この小説は私がまだ独身で母の実家にいた時に、実際にあった体験に基づいた創作です。夜中にドアを叩かれた部分はほぼ体験どおりで、それを元に話を作り上げました。
☆サイトからの転載です。
家の裏の森には妙な噂があった。闇の嘶きを聞いて、森に入ってしまったものは呪われると。
そこは嘶き森と呼ばれていた。鬱蒼とした雑木の森で、枝々の間に蛇のように絡みつく蔓草や地面を這い回る根が、好奇心で入っていこうとする人々を頑なに拒んでいる。遠くに見える山々まで続く森は、深く、光があまり届くことのない地表は昼間でさえ薄暗く、湿り気を帯びている。
私は子供の頃、この森に入ったことが何度かあった。でも怖かったので少し入っただけですぐに出てきてしまった。
呪いがどんなものなのか、聞いたものは実際にどうなるのか。他の多くの噂と同じようにこの噂も曖昧であまり信憑性がないような気がしていたものだ。
あれは、私がまだ二十歳だった頃、その日はたまたま父が出張で、私と母は早々に床についていた。静かな初秋の夜、午前一時頃のこと。微かに虫の声が聞こえてくるのに耳を澄ましながら、私は眠れないまま、寝返りを打ち続けていた。布団に押し付けた耳に遠くのほうから、ほとんど走ってくるような軽い響きの足音が近づいてくる。夜中だというのにジョギングでもしているのだろうか。家の前は住宅街の道路なので夜中はほとんど人は通らない。何処の家の人だろう。だんだん大きくなる足音が家の前まで来る。そのまま通り過ぎるのを私は目を瞑ったまま待っていた。だが、足音は家の玄関の前でぴたり、と止まったのだ。そして、階段を上ってくる音が数歩。いきなり、ドアが激しく叩かれた。力任せに叩いているのだろう。大きな音が響いてくる。それは数秒続き、続いてドアノブをガチャガチャと回し、乱暴に引っ張る音がしてきた。私は布団から半身を起こし玄関を窺った。心臓が激しく高鳴っている。隣に寝ていた母も起き上がり、不安げに私を見つめた。怖くて声が出せなかった。ぴたり、と音が止まり、階段を下りて寝室の前の道路を走るように足音は遠ざかっていった。その後数十秒、足音が完全に消えるまで私達はずっと息を潜めていた。
「なんだろうね?」
ようやく、小さな声で私が呟くと、母は震える声でこう答えた。
「たぶん、どこかの家と間違えたんだよ」
「……とにかく、鍵が掛けてあってよかったね」
警察に電話するべきだろうか。でも、何か実害があったわけではない。
でも、もし鍵が掛けてなかったら私達はいったいどうなっていたんだろう。正体の分からない人物はドアを開けて何をしようとしていたんだろう。
「裏の田村さんの夫婦、行方不明なんだって」
母から、そう聞いたのは翌日のことだった。
「行方不明って、いつからなの?」
「夕べからよ」
夜中に突然ご主人の利雄さんが目を覚まし、奥さんの瑞江さんや母親のキヨさんが止めるのも聞かずに包丁を持って家を出て行ったそうだ。瑞江さんが後を追っていったが、それきり二人とも朝になっても帰らず嫌な予感がしたキヨさんは警察に連絡したのだ。
田村利雄さんは、フリーのカメラマンで業界ではちょっと名の知られた存在だった。性格的にはとても穏やかな人で、子供はいなかったが家族三人、とても仲がよかった。
「それじゃあ、夕べ、ドアを開けようとしたのは田村さんの旦那さん?」
「そうかもしれないね」
そうかもしれない。でも、そうではないかもしれない。何か、とても恐ろしいことが起きそうな予感がしていた。
その晩、夜十時頃だったろうか。突然、家の裏のほうから悲鳴が聞こえてきた。しばらくして、けたたましいパトカーのサイレンが近づいてきて、家の裏の道路に止まった。私と母は急いで裏へ向かった。すでに、近所の人たちが大勢集まってきて、田村さんの家のほうを窺っている。赤い回転灯が周囲の闇を異空間に変えていく。何となく夢を見ているような妙な気分だった。
玄関のドアが開いて、警官が二人、利雄さんを両脇から挟むようにして出てきた。街灯の下を通る利雄さんが、私の前を通りすぎながら一瞬こちらに顔を向けた。目は空ろで、口の周りが血に染まったように真っ赤だった。私と目が合った瞬間、彼はこう呟いたのだ。
「闇の嘶きを聞いちゃだめだ」
私は、一瞬その言葉が何を意味するのかまったく分からなかった。森の噂のことを思い出したのはそれから、ずいぶん時を経てからのことだ。
その後、捜査は続けられ、森の中も徹底的に調べられたが、警察は瑞江さんを殺した痕跡さえ見つけることは出来なかったのだ。利雄さんはまったく口をきかなくなり、精神鑑定を受けて病院に入院することになった。瑞江さんの安否はまったく分からなかった。謎は謎のまま解かれることもなく、月日が過ぎていった。
十年後、私は社内結婚をして退職し、都内のささやかな一戸建てで暮らしていた。六歳になる息子の玲人は一人っ子で甘やかさないようにと注意して育ててはいたが、かなりの我儘息子だ。
そのためか、玲人の友達はそれほど多くはなかった。
小学校に入って初めての夏休みということで、玲人は毎日、学校のプールに行ったり、ゲームをしたりと、彼なりに楽しい日々を過ごしているようだった。
八月の後半、主人が長期の出張となったため私と玲人は実家へと帰った。父は数年前に亡くなっていたので、実家に住んでいるのは母一人だった。久しぶりの懐かしい我が家に私もすっかり羽を伸ばしていた。
「お母さん、お母さん!」
夜中に私は息子の悲鳴のような声で目を覚ました。薄暗い部屋の中で私は半身を起こして息子のほうを見た。
「お母さん、怖いよ!」
「どうしたの? 夢でも見たの?」
「押入れ、押入れ」
そう呟いた玲人は私にしがみついてきた。その身体は恐怖のためかがたがたと震えている。
私達ふたりは二階の和室で寝ていた。玲人の布団の少し先に見える押入れはなぜか十五センチほど開いている。その中を私は凝視したが、真っ暗で何も見えない。
「大丈夫。何もいないわよ」
だが、あの押入れは寝る時には確かに閉まっていた。私は気味が悪いので襖を閉めようと部屋の灯りをつけて押入れに近づいた。襖に手を掛けた瞬間、得体の知れない感覚が私を襲ってきた。押入れの中に布団は見えず、ねっとりとした闇が何処までも続いている。私はその奥を見つめたまま、目を逸らせなくなった。
闇の奥で何か、小さな白い影のようなものがいくつも動いている。それらは、くねくねとした奇妙な動き方をしているが、一体何なのかさっぱり分からない。もっとよく見ようと押入れに顔を近づけたとたん、顔に何かが覆い被さってきた。咄嗟に振り払った手に何かが絡みつく。私はそれを見た瞬間、心臓が飛び上がるほど驚いた。それはべったりと濡れそぼった髪の毛の束だった。私の悲鳴に玲人が怯えきった顔を向けた。
「どうしたの!」
私は手を覆い隠した。心臓の音が身体中を駆け巡っていたが、息子にこれ以上の恐怖を与えたくはない。
「ごめんね。ゴキブリがいただけ。ちょっとトイレ行って来るね。すぐ戻るから」と言い残し、洗面所に走っていくと手についた髪の毛をこそぎ落とそうとしたが、手には何も付いてはいなかった。
部屋に帰ろうと廊下を戻ると、玲人が廊下の窓を開けて外を見ていた。
「何をしているの」
玲人はじっと窓の外を見ながら、呟いた。
「ねえ、お母さん。聞こえる? あの声」
私は玲人の隣に立ち、暗く深い森のほうに目を向けた。外の空気は蒸し暑く、空は暗い雲に覆われている。
―――ヒィィィィィィアアアァァ
それを何と喩えたらいいのだろう。馬の嘶きのような、悲鳴のような、笑い声のような、甲高い鳴き声が微かに耳に響いてくる。イイイイィと高くなり、ウウウウゥと低く沈む声が。その声は暗く、不安げに私に纏わり付いてくる。風だろうか。そうじゃない。風なんか少しも吹いてはいない。私はぴしゃりと窓を閉めると息子の手をひき、一階の母の寝室に避難した。母には何も言わなかった。
その晩、私は一睡もすることが出来なかった。今夜起こったことはなんだったのか。あの押入れには何がいたのか。そして、あれは……あの声は、ひょっとしたら闇の嘶きではないのだろうか。
『闇の嘶きを聞いちゃだめだ』
あの日、田村さんが呟いた言葉が、鮮やかに脳裏に蘇った。
呪いって何だろう。背中を冷たい汗が流れる。呪いは息子にもかかるのだろうか。
翌日、私は田村さんの家を訪ねることにした。あの日、帰ってきた利雄さんが漏らした一言がどうしても気にかかる。あの時は聞き違いかとも思ったし、何しろそれを聞きにいけるような状態ではなかった。いつか聞きにいこうと思っているうちに、そのことはすっかり忘れてしまっていた。
田村さんの家は実家の裏の空き家と道路を挟んだ正面にある。家の作りも実家とよく似ている。事件が起こる前、季節ごとに様々な花の鉢がいくつも置かれ道行く人々を楽しませていた玄関には、割れた空の鉢が倒れたままになっていた。チャイムを鳴らすと、キヨさんはインターホンからか細い声で返事をした。
「お久しぶりです。三島の娘の杏子です。今日は息子さんのことでどうしてもお聞きしたいことがあってお伺いしました。あの、お嫌でしたらそうおっしゃってください」
しばらくの沈黙のあと、キヨさんはドアを開けてくれた。久しぶりに見るその顔は見るかげもなくやつれていた。
私は薄暗い居間に通されると、挨拶もそこそこに十年前の晩のこと、そして前の晩のことをお婆さんに打ち明けた。
「闇の嘶き……確かに息子はそう言ったんですね?」
「間違いないと思います」
キヨさんは、しばらく考え込んでいたが、やがて重い口を開き、ゆっくりと話を始めた。
あたしは、このことを警察にしか言ってないんですよ。利雄が出て行った日に起こったこと。なんだか話すのが凄く怖くって。でも、杏子さんには話しておいたほうがよさそうね。あの日の昼間のことなんだけど、利雄がカメラを持って出掛けようとしていたの。それで、あたしは一体何をしにいくのか聞いたんです。利雄の話では前日の夜、出版社から帰ってくるときに、裏の山から奇妙な悲鳴のようなものが聞こえたのだとか。怖かったけれど、すごく興味を惹かれたので森に入って何があるのか確かめてくるって。そりゃあ、止めましたよ。でも、自分は呪いのことなんて少しも信じていないし、昼間だから大丈夫だって。二時間ほどして、戻ってきた利雄は帰ってくるなり自分の部屋に入ってしまって、それっきり夕食になっても出てこなかったんです。あたしは心配になって部屋に行ってみたけど鍵が掛かっていたんです。 夜中に利雄があたしと瑞江さんの寝ている布団の横に立っていた時にはびっくりしました。包丁を持って、空ろな目をして、無表情で瑞江さんを見下ろしていたんですよ。でも、あたしが名前が読んだら凄くびっくりした顔をして。いきなり外へ飛び出していったの。呼び止めたけど無駄でした。瑞江さんがすぐに後を追って出て行ったのだけれど、二人ともとうとう朝になっても帰ってこなかったんです。
警察に届けて、警官が何人も来て裏の森を探してくれたけど二人とも見つかりませんでした。その日の夜、血まみれの包丁を持って利雄が帰ってきたときはびっくりしましたよ。だって、口の周りを血のように赤くして、玄関から入ってきたんですよ。
『やっちまった』ってそう言って、ぼろぼろ涙を流していました。利雄が捕まってから、包丁の血液鑑定をしてもらったんだけど、瑞江さんと同じ血液型でした。でも、森からは何も出てこなかったんです。利雄は今でも入院していて、あたしが行っても、意味不明なことばかり言うだけで……。
そこまで話すと、キヨさんは堪えきれずに涙を流した。私は慰めの言葉さえ見つからなかった。
「あの……利雄さんのカメラには何か写っていたんですか?」
「そうそう。警察が持って行って調べてくれたの。現像した写真には森の中が写っていたけれど、他には何も写っていなくて。それから一度も見ていないんです。ご覧になりますか?」
キヨさんが持ってきた写真の袋には、三十枚ほどの写真が入っていた。私は一枚一枚見ていったが確かに木々のほかには何も写っていない。きちんと焦点のあった写真だったが、最後の三枚は何かに驚いたかのようにぶれて、景色も斜めになっている。そして、最後の一枚にはなにか文字のようなものが微かに浮かび上がっているのに気が付いたのだ。だが、薄くてよく読めないしキヨさんに聞いてみても何も見えないという。私はその写真を戴いて帰ることにした。
それから、私は車で地元の民族資料館に赴いた。嘶き森で昔、何があったのか。それが知りたかったのだ。いくつかの文献を漁っているうちに、私は昭和初期のこの町の村長の日記を見つけた。ノートに綴られた日記の青い文字を必死で追っていくうちについにその記述を見つけたのだ。
昭和二年八月七日
村ノ住人デアル鹿山夫妻ガ午後二時ゴロ、爭フヤウニ怒鳴リナガラ森ノ奥ヘムカフノヲ目撃ス。
慣れないカタカナに少し閉口しながら読み進めていく。鹿山良助という男が奥さんである和子さんと喧嘩をして言い争いになった。和子さんの態度に激怒した良助は和子さんを森の奥に無理やり連れ込み、鉈で滅多切りにして殺したらしい。旦那はその後、血まみれの鉈を持ったままふらふらと村に戻ってきたところを逮捕されたが、和子さんの遺体は見つからなかった。
どうして鹿山夫妻の話は噂として残っていないのか。推測に過ぎないが、そのことは口にすることさえ不吉なことだったのかもしれない。闇の嘶きの噂のことは、それから数年後の日記にあった。その噂は突然村に発生し、あっという間に広まったのだという。
村長の日記はそれから数年後、文字が突然乱れ、インクのまっすぐな線が次のページまではみ出したところで唐突に終わっていた。おそらく、日記を書いていて心筋梗塞か何かを起こしたのだろう。私に分かったのはここまでだった。呪いの正体は和子さんの怨念なのだろうか。
その夜、私は息子と共に一階の和室で一夜を過ごすことにした。ここに居てはよくない。とにかくここを離れよう。翌日の午前中には家に帰るつもりだった。
息苦しい。何かが身体の上に乗って私を押さえつけている。身体を動かそうと思ったが、動かない。開こうとしない瞼を無理やり開いた私の目に映ったのは、パジャマを着て布団の横にぼんやりと立っている玲人の姿だった。手には包丁を握り締め、全身を細かく震わせている。私は息が止まりそうに驚いた。口を開こうとしたがまったく声が出せない。玲人は恐怖に目を見開き、私を見つめて何事か呟いている。突然、玲人が踵を返して部屋を出て行き、しばらくして玄関のドアが閉まる音が聞こえた。私はようやく身体が動かせるようになったので、母を揺すって起こそうとしたがまったく起きない。私は懐中電灯を探して手に持った。灯りをつけて部屋を出るとき、畳の縁に昨日の写真が落ちているのが見え、拾ってみると昨日は見えなかった震えた文字が鮮やかに浮かび上がっていた。
『ツギオマエ』
恐怖で力が抜けていきそうになったが、気力を振り絞り、パジャマのまま玄関を飛び出して玲人の後を追った。
森の中は真の闇が支配していた。足元に這い回る根に何度も躓きそうになり、目の前をふさぐ蔦草や木の枝をどうにか払いのけながら、道なき道を進んでいく。息子がどこにいるのかは何故か感覚的に捕らえることができた。突然、目の前の枝がびっしりと張りめぐされた髪の毛に変化し、私に襲い掛かってきた。私は恐怖よりも怒りが先にたち、叫び声をあげながら髪の毛を引きちぎった。歩を進めるたびに木が歪み、幹が捩れ、根がのたうつように蠢めく。だが、私はただ息子のことだけを考えて進み続けた。一時間も経った頃だろうか。突然、木の生えていない開けた場所に出た。息子はそこに蹲って泣いていた。脇には包丁が転がっている。私は息子を抱きかかえ、背中をさすった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
玲人は涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。
「さっき、急に目が覚めて、お母さんを殺したくなったの。殺さなきゃいけないって誰かが頭を押さえつけてるみたいだった。でも、僕、必死で抵抗したんだ。お母さんを殺すのは嫌だ。替わりを持っていくから助けてって」
やはり、玲人は私を殺そうとしていたのだ。でも……。
「替わりって?」
だが、息子は泣くばかりでいっこうに答えようとしない。その時、私は森のずっと奥のほうで白い影が蠢くのを見た。その影は人間のように見えたがはっきりとは分からなかった。それは白い姿態をくねらせて踊っていた。背後にいくつも同じような影が見える。 そして、それらは突然歌を歌いだした。
―――アアアァァァァァ、ヒイイイィィィィィ
高く、そして低く聞こえてきた歌声はあの闇の嘶きだった。それは森の中でうねるように響きながら私達を襲ってくる。私は叫びだしそうになる衝動をどうにか押さえ込み、玲人を抱きかかえるようにして森の外へと向かい急ぎ足で歩き出した。
次の日、私は実家を後にした。
母は、あの夜、死んだように深く眠り込んでいたらしく、私達の行動にはまったく気が付かなかったようだ。私も無用な心配はさせたくないので、母には何も言わなかった。
息子が持っていった替わりとは何なのか。玲人はそれについて決して語ろうとはしなかった。だが、私は知っている。台所のゴミ箱に捨てられていた顔がひとつ切り取られた写真。昨年、息子が友達数人と撮って気に入っていつも持ち歩いていた写真だ。
切り取られた子は、確か一ヶ月ほど前、玲人が理由もないのに蹴飛ばされたと言っていた男の子だ。それからは何も言わなかったが息子はこの子に苛められていたのかもしれない。
数日後、その子が突然行方不明になり、公開捜査となった。
玲人はニュースを見ながら、唇を噛み締めていた。私も写真のことは一切、息子に問いたださなかった。
それから十数年。玲人は大学に進学し、私は母を引き取って平凡ながら幸せな日々を送っている。あの少年はいまだに行方不明だ。彼は私の替わりとなったのだろうか。それはもう、今となっては確かめようもないことだ。いや、本当は誘拐事件か何かだったと信じたい。息子が少年を死に追いやったなんて思いたくないだけなのだが。今は空き家となった実家には母の引越しのとき以来行っていないし、これからも当分行くことはないだろう。
あの森に棲みついているものが何なのか。それは分からない。ただ、それは和子さんの霊ではないような気がする。あの日、家のドアを叩いたものの正体。それは奥さんを殺す衝動を抑えきれずに彷徨っていた利雄さんだったかもしれない。だが、それはまったく別のものかもしれない。
嘶き森は今も変わらず、そこに存在している。そして、これからも誰かが闇の嘶きを聞き、森に囚われてしまうのかもしれない。深い深い森の闇に。
ひとつだけ気がかりなことがある。玲人が将来、実家に住んでみたいと言うのだ。玲人がなぜそんな気になったのか、私は聞くことが出来ずにいる。
<了>