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夜明けのマーメイド  作者: 滝沢美月
延長戦
27/33

売約済みですか?



 いつもより念入りに髪の毛をとかし鏡の前に立つ。

 三年間着慣れた濃紺のブレーザーと白地に赤チェックのプリーツスカートを着て、いつもどおりポニーテルでまとめた長い髪を揺らした鏡の中の私がこっちを覗き返していた。

 毎日着て馴染んだ制服、可愛くて気に入っていただけに、今日で最後だと思うと寂しくなる気持ちを押し込めて、最後にネクタイをつければ完璧。

 脱衣所を出て、カタコトと暖かな音の聞こえるダイニングへと向かった――



  ※



 ざわざわとにぎやかな教室内。いつもと一緒だけどちょっと違う空気に私はなんともいえない笑みを浮かべる。

 通いなれた通学路。部活帰りに浅葱とよく一緒に寄ったコンビニ。毎朝必ず止める学校の駐輪場。校門から昇降口まで続く桜の並木道。四方を校舎の白い壁に囲われた中庭。部活の行われた屋内プール。よく柳とすれ違った渡り廊下。クラスメイトとたわいもない話で笑い合った教室。

 三年間通った四季ヶ丘高校の思い出が一気に胸に押し寄せてくる。

 どの場所も思い出に溢れて、キラキラ輝いている。

 大切な友達と笑い合った場所、部活に励んだ場所、大事な人に出会いえた場所――

 そう考えて瞼の裏に思い描いたのは、少し癖のある茶色の髪、銀縁眼鏡の奥には切れ長の瞳、いつも温和な笑みを浮かべている端正な顔立ち。

 初めて会った時は、生徒なのかと見間違えたほど、眼鏡をしていない素顔は幼くて。どんな生徒に対しても気さくに話しかけ、温和な笑みを浮かべているのがちょっと苦手だった。

 素っ気ない態度をとって、あまり関わらないようにして。

 でも本当はみんなに優しいのが嫌だっただけ。自分だけを見てほしいって独占欲に気づかなくて、胸にもやもや渦巻く気持ちを柳が嫌いだからと思い込んで。

 きっと、最初にプールで会った時から惹かれていた。



  ※



 すぅーっと水に溶け込む姿。まるでそこにいるのが当り前のような、あまりにも綺麗なフォームで泳ぐ姿に。

 高い天井から照らす蛍光灯を反射してキラキラ揺れる水面、室内にこもるプール独特の塩素の匂いを鼻先に感じながら、その泳ぐ姿にすべてを奪われた。

 こんなに綺麗に泳ぐ人を見るのは初めて、胸の奥からなにかが沸騰するようにせりあがってきた感覚を、今でも覚えている。

 うずうずするような、いてもたってもいられないような、胸の奥がきゅーっと締め付けられるような。

 あの時――

 ぱしゃんっと水音を響かせて水面から顔を出した切れ長の薄茶色の瞳が吸い込まれそうなほど綺麗で思わず見とれていたら、こちらに気づいた柳の瞳が大きく見開かれた。それから、くしゅっと細められた瞳、やわらかな笑みを浮かべて柳がプールサイドに呆然と立ち尽くしていた私に話しかけてきた。


「ここの……生徒ですか?」

「……はい、そうです」


 まさか話しかけられるとは思ってもいなくて、私はどもりながら答えてしまった。


「そう……、そうなんですね」


 そう呟きながら視線をそらした柳の瞳は一瞬、憂いの影があって、なんだか胸が締め付けられた。

 なにかいけないことを言ってしまったのかと思ったけど、それっきり何も言わずにプールから上がり出ていってしまった柳に、どうしてそんな顔をしたのか理由を聞くタイミングを逃してしまった。

 そうして、再び柳の姿を見たのはその日の始業式の壇上の上だったのだけど、その時はプールで会った男子と同一人物だとは思いもしなくて、柳が水泳部の顧問として現れたのはそれから更に一週間後だった。



  ※



 そんなことを思い出しながら、私はクラスメイトの後ろ姿を追って渡り廊下を歩いていた。

 受験の合間に登校してきて練習した卒業式も無事に終わり、高校最後のホームルームで担任から卒業証書を受け取ったのはついさっきの出来事。

 卒業って実感はないけど、もう明日からはいつものように高校に登校してきて、いままで当り前のように顔を会せていたクラスメイトと会うことがなくなるんだと思うと、やっぱりさびしい想いで胸がいっぱいになった。

 ホームルーム後、教室で菫やそのほかの仲のいい女友達と春休みにいっぱい遊ぼうと話していたら、クラスメイトの篠崎君に話しかけられた。


「ちょっと話があるんだけどいいかな?」

「うん、なに?」


 篠崎君とは出席番号が隣同士でよく話す方だし、本とかCDも時々貸してくれたからそのことかなと思って聞いたんだけど、「ここではちょっと……」って言われてこうして後をついてきているというわけ。

 教室ではできない話ってなにかな? 借りていた本とかは全部返したはずだよね。

 最初はそんなことを考えていたんだけど、よく柳とすれ違った渡り廊下を歩いていたら、いつの間にか思考は柳との思い出を振り返ってしまっていた。

 もう、ここで柳に会うことはないのか――

 そう思うと、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 校舎や体育館をつなぐ渡り廊下を通り過ぎ、体育館とテニスコートの間の裏庭のような場所で、それまでずっと前を向いていた篠崎君が立ち止まって振り返った。

 その表情は緊張して強張っていて、ほんのり頬が赤いように見えて、私は首をかしげる。


「あのっ、東雲さん……」


 長い沈黙を破ってかけられた篠崎君の声は緊張で上ずっていて、切羽詰まった時のような勢いこんだ声で名を呼ばれてビックリしたのだけど。

 篠崎君の次の言葉が出る前に、急に私の体を浮遊感が襲う。


「きゃっ?」

「せっ!?」


 直後、誰かが私のおなかに腕を回して抱き上げられていることに気づいて、ビックリしすぎて変な声が出てしまったのだけど、私以上に、目の前にいる篠崎君が驚いた顔をして目があちこちに彷徨っていた。


「悪いが、東雲は売約済みだ」




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