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夜明けのマーメイド  作者: 滝沢美月
前半戦
10/33

魔法のことば



 全身に鉛でもつけられたみたいに重くてだるい感じに、だんだんと思考が起きてくる。

 目を開けると真っ白な天井、窓から差し込む光がまぶしくて、思わず目を細める。

 部屋みたいなところで、布団の中に寝ているのは分かるけど、ここ、どこだろう……

 分からないことだらけで、状況を理解しようと首を横に動かすと、そこにいた柳ともろに視線が合ってしまって瞬いた。


「柳……? なんで……?」


 ここがどこなのかもわからないのに、突然柳が目の前に現れてドギマギして、余計に頭が混乱する。


「覚えていないのか?」


 一瞬眉根を寄せて、訝しげに私を見つめた柳が淡々とした口調で言うからなんだかムッとする。頭は朦朧としていて、まだ上手く回らない。


「何がですか?」

「お前、海で溺れたんだぞ」

「あっ……」


 柳の言葉に、直前までのことを思い出す。

 そうだ、レクリエーションの最中に溺れた柚木さんを助けて……


「柚木さんは? 大丈夫なんですか?」


 頭に浮かんだ質問をそのまま問いかけると、柳は目を丸くして呆れたようなため息をついた。


「溺れた人間助けて、自分が溺れるとか最悪だからな。しかも、自分の心配より他人の心配をするとか……」


 バカなのか、お前――そんな幻聴と視線を感じて、私はぷいっと柳から顔をそらす。


「どうせ、馬鹿ですよ……」


 自分でも馬鹿だって思うから、すねた口調でぼそっともらす。


「なんだ、聞こえていたのか?」


 横からくすくすと笑い声が聞こえて、私はちらっと視線だけを柳に向ける。

 片目を眇めて笑う柳のその表情は無邪気で、なんだか口調もいつもより砕けてて、知らない男の人みたいでドキドキする。


「私が溺れたの……見てたんですか?」


 どこで見ていたのだろうか。ただそんな愚問が浮かぶ。柳はどこにいたのだろうか。


「俺もチェックポイントの浮島にいたからな」


 ああ、そんなにそばにいたんだ。

 柳の返事に、トクンっと胸が跳ねる。


「もしかして……、先生が助けてくれたんですか……?」


 まさかそんなわけないっていう思いと、そうなんじゃないかって思いが押し寄せて、後者の考えがどんどん胸に広がっていく。

 海岸にいた時は見ているこっちが暑苦しくなるような黒のジャージを上下着ていたのに、今は着替えていてダメージジーンズにクリーム色のVネックのTシャツを着ている。髪の毛も心なしか濡れているし。

 そういえば、眼鏡してないな――なんて思う。



「……ああ」


 柳は視線を巡らして、私の瞳をとらえると、まっすぐに見つめながら言った。


「ここは保健の荒井先生の部屋で、救護室代わりにもなってる」

「そう、なんですか……」


 小さな声で呟いた私に、柳が荒井先生は部屋まで付き添ってくれたがいまは海岸に戻っていると言った。

 しばらく沈黙が続いて、ふいに柳が私の額にかかる髪を指ですくから、ビクっと肩が震え、柳の手がすっと引っ込んだ。


「…………っ」


 声にならない声が出て、動揺する私。ふいに強い視線を感じて視線を上げると、柳が言い知れぬ熱を宿した瞳で見つめてくるから、目がそらせない。

 ずっと聞きたくて聞けなかったこと。いまなら聞けるかもしれないと思った。


「どうして助けたんですか?」


 そう言った私の声は、なんて可愛くないんだろう。ツンツンと棘だった声音に自分でも内心ビックリする、

 って、そんなことが聞きたかったわけじゃないのに。ひねくれた自分が嫌になる。

 柳は私の思いもよらない質問に目を大きく見開いて、本当に驚いた顔をして固まっているからおかしくなってしまう。


「教師の役目だからでしょ?」


 皮肉気に言った私に柳は何も言わない。視線だけがずっと交わっている。


「ねえ、柳は学生時代に怪我して泳げないって噂が流れてるの知ってる?」


 強張って固まっている柳の表情がおかしくて、くすっと笑って問うと、柳がわずかに眉根を寄せる。


「ああ」


 その返答に、くすくすと笑いがあふれてくる。

 さっきからその答え方ばかりだ。


「噂はやっぱり嘘だったんだ、ってこの言い方は変か……」


 自分の言葉に、自分で突っ込んでしまう。

 私は初めから柳が泳げることを知っている。噂を知っていて柳が否定しないことが疑問だっただけ。


「なんであんな噂が流れたんだろうね? 体育教師が泳げないわけないじゃん? ってか柳が絶対に生徒の前で泳がないから噂がどんどん広がったんじゃないかな~?」


 柳に問いかけるように自分の思っていることを言うと、柳はかなり微妙な顔をして首をさすって視線を斜めに向けた。それから居心地悪そうに座りなおすと、小さな声でぽつりと漏らす。


「火のないところに煙は立たないというか……」


 歯切れの悪い口調が、いつもの涼しげな顔した柳には似合わなくて可笑しかったけど、私は言葉を挟まずに柳の言葉を待った。


「噂は本当だよ……」


 諦めたように吐き出した柳の言葉に、私は反射的に口を挟んでしまう。


「うそっ、だって……」


 言おうとした私の口元に、柳のしなやかな指がそっと触れて、言葉が掻き消える。


「本当だけど、全部じゃないんだ。こんなこと、恰好悪いから言いたくなかったけど――」


 そう言って語ったのは柳の学生時代の話。

 高校から水泳を始めた柳は、大学でも水泳部に所属していたこと。かなりいい記録を出して県大会までいったこと、だけど怪我をして泳げない時期があったこと。


「……怪我は泳いでる時じゃなくて、休みの日に友人とバスケしてる時に転倒して肩を痛めたんだ。治すまでに結構時間がかかって、泳いでいなくて体が訛った上に、関節の付き方が微妙に変わって思うように泳げなくなった。以来、自己ベストが出ないどころかタイムは伸びないし、昔のように泳げないことが辛くて、泳ぐことが怖くて――

 普通に運動することも泳ぐこともできるんだ、教師としては十分なくらい。でも水泳選手としてはもう駄目だって、自分の限界を思い知らされた。

 教師になる夢が諦められなくてこの学校に赴任してきたけど、未来がある、先がある生徒が生き生きと泳いでいる姿を見るのが辛かった。だから、泳げなかった。他の先生方も、実際にプールに入って指導する先生はいないから問題はなかったし……」


 俯きがちに話す柳を見ていたら、胸の中にぐるぐると黒い靄が広まってきて気持ち悪くて、苦しくて――

 私は床に手をついて上半身を支えて斜めに起き上がり、思わず叫んでいた。


「…………っ、泳げるなら泳ぎなさいよ、泳げばいいじゃない!? 怖いって言って逃げてていいの? 昔みたいに泳げない現実を思い知らされるのは辛いかもしれないけど、私だったら泳がないことの方がもっと辛いよ……。泳がないなんて我慢できない。柳だって泳ぐことが好きだから、あの日、プールにいたんじゃないの? 泳がずにいられなかったんじゃないの――?」


 感情に任せて大きな声で叫んではぁはぁ喉を鳴らし、目じりにじわっと涙が浮かぶ。

 私自身、過去にスランプになったことがあるから分かる。どんなに練習しても練習してもぜんぜん伸びないタイム。何が悪いのか分からなくて、コーチに言われてもうまくできなくて……

 泳ぎたくても泳げない、その苦しさ――

 柳は怪我をしたのだから、その辛さは私の非ではないのだろう。その辛さがどれほどのものなのか、想像することしかできないけど。でも。

 つまずいたら、地面に手をついて立ち上がればいいんだよ――


「そこから抜け出すのは自分自身でしかないんだよ? ずーっとそこにいるつもり? 私はもっと先を目指すよ――」


 まっすぐに柳の瞳を見つめて、私ははっきりとした口調で言い切った。

 もっと先を目指すよ。つまずいたら立ち上がって、落ち込んだら立ち直って、弱気になったら顔を上にあげて――そう自分自身に言い聞かせて、私はスランプを乗り越えた。

 がむしゃらに泳ぎ続ける私に、浅葱は一度水泳から離れてみたらどうかって言ってくれた。少し距離を置いたら、新しく見えてくるものがあるかもしれないって。

 でも、一度逃げたらもう戻ってこれない気がした。逃げ道を知ってしまったら、前みたいに一生懸命泳げなくなりそうで、私は気づかってくれた浅葱の言葉をはねのけて、泳ぎ続けた。辛かったけど、今思えば、あの頃があったから、一回り成長できたと思う。

 視線を柳に向けると、俯いていた顔を上げてこっちを見ていた。その表情は、さっきまでの思いつめた辛そうな表情じゃなくて、なんだか懐かしそうな表情で目を細めて私を見ている。


「ああ、やっぱり東雲だ……」


 愛おしそうに呟いたその声に、私は首をかしげた。




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