マーメイドの憂鬱
すぅーっと水に溶け込む姿。まるでそこにいるのがあたりまえのように水と同化し、尾びれのように足が一度動いただけで、その姿はあっという間にコースの向こうに消えていった。
高い天井から照らす蛍光灯。室内にこもるプール独特の塩素の匂い。
プールの水面はほんの少し揺れるだけで波は立たない。それが意味することを、水泳部の東雲 瑠花は分かっている。
蛍光灯の明かりを反射して水面がきらめいて、瑠花は手に持っていたモップの柄を無意識に胸の前で握りしめ、眩しそうに目を細めた。
それは反射した光が眩しかったからではなくて、あまりに綺麗なフォームだったから見とれてしまったのだった――
今日から三年になる瑠花だが、早朝練習には必ず一番乗りして、プールサイドを掃除するのが習慣となっていた。この日もいつものように誰よりも早くプールに来た瑠花だったが――、先客がいたことに驚きを隠せない。
誰……? あんなに綺麗に泳ぐ人、うちの学校にいた――?
瑠花は記憶をたどるが、そんな人はいないという結論にいたる。
じゃあ、新入生、とか……
訝しげな眼差しを向ける先で、気持ちよさそうに泳ぐ姿はターンしてこちらに戻ってくる。壁に手をつくと、ぱしゃんっという水音を響かせて水面から男子が顔を出した。帽子を忘れたのか、濡れて頬に張りつくのは少し癖のある茶色の髪。切れ長の瞳が印象的な男子だった。
※
「なんでうちの学校は温水プールなんだよ……」
「受験生だってのにプールの授業とかマジだりぃ……」
クロールで五十メートルを泳ぎ終え、水面に顔を出した私の耳に飛び込んできたのは、すぐ隣のコースで泳ぐ男子の愚痴だった。
私が通う県立四季ヶ丘高校は県内最大級のグラウンドを完備し、部活動にかなり力を入れていて、昇降口横の廊下にはずらりと県大会や関東大会のトロフィーやメダルが並べられている。
そんな我が校は、広いのはグラウンドだけじゃない。プールはなんと室内プールが完備されている。なんでも過去に水泳部が県大会で優勝し、改築して室内プールを作ったとか、なんとか。噂は色々されているけど、そのせい、というかおかげというか、体育の授業の三分の一に水泳の時間が使われている。
私としては嬉しいのだけど、まぁ、泳げない人もいるわけで、さっきみたいに愚痴っている生徒が半分くらい。女子なんかは仮病で休んでいる子もいるくらい。
体育の授業は二クラス合同で、うちの四組は隣の三組と一緒。全八コースあるそれを半分に仕切って、右側を男子が、左側を女子が使っている。
最初にプールサイドで体操し、今は五十メートルを泳ぐ時間。形は自由、なんでもいい。
というか、三年生は一学期のほとんどがプールの授業で、最後にやる試験の内容っていうのが百メートル個人メドレー。
つまり、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、自由形とすべて泳げなければいけないんだけど……ほとんどの生徒がバタフライは泳げなくて、この数ヵ月で泳げるようにならなければならないから、半数の生徒がぶーすか文句を言っているというわけ。
で、もう残りの半分は、というと……
「ねぇ~、柳ぃ。うちらにバタフライ教えてよぉ~」
「そうだよ、実際に泳いでみせてよぅ」
媚びるような声を上げる女子が泳ぎもせずにプールサイドに群がっている。そこには、サイドに白ラインのはいった黒いジャージを上下着た体育教師が涼しい顔してプールサイドを巡回している。
柳 総司朗、二十二歳、今年の春体育大学を出たてでうちの高校に赴任してきた新米体育教師。背は高く細身、腕と足がすらりと長くて、少し癖のある茶色の髪、銀縁眼鏡の奥には切れ長の瞳の端正な顔立ち。どんな生徒に対しても平等に優しく接し、笑顔を振りまく。
その気さくな笑顔と温和な口調で喋っている相手には気づかせないが、他人が自分に踏み込んでこないように巧みに一線を引いていることに、女子生徒と話す柳の姿に何度も遭遇する私は気づいてしまった。
若いうえにカッコイイと女子生徒の間で人気があって、どんなに騒がれてもあくまで教師という立場を崩さず生徒との間に一線引いているのは教師として当然なのかもしれない。
でも、だったら始めっからあんな気さくな笑顔を振りまかなければいいのに、と思う。
柳に群がる女子生徒は気さくな笑顔と温和な口調に誤魔化されて、一線引かれていることにも気づいていない。
それがなんだか無性に私をいらいらさせた。
柳が女子生徒に甘やかな笑顔を向けて話すのを見るのが嫌いで、そんな態度の柳のことが苦手だった。
「基本的な泳ぎ方はさっき説明しただろ、それでも分からないなら泳げるやつに教えてもらえよ」
口元をふっと綻ばせて、穏やかな口調で言う。
私はプールサイドに上がり、順番を待つために列に並びながら、ちらりと柳を見た。
ってか、基本的な泳ぎ方云々とか、私にやらせたくせに……
心の中で愚痴る。
普通はさ、先生がお手本に泳いでみせるもんじゃないの? それなのに、「これからメドレーの説明をする」そう言った柳は、座っている生徒を見回して私に視線を向けると、しれっと言い放ったんだよ。「東雲、手本でメドレー見せてやれ」って。
ありえない! 横暴! 水泳部の顧問だからって、職権乱用だよ!
三組と四組の中で水泳部は私しかいないから白羽の矢が立ったんだろうけどさ、別に泳ぐのはいいけどさ……なんか扱き使われてる感じがすごく嫌っ!
普段もそうなんだよ……、廊下とかですれ違うと必ず面倒な用事を言いつけてくる。
そんなこと自分でやってよ、って思うようなこと。
そのたびに、柳を取り巻く女子生徒が刺すような視線を向けてきて生きた心地がしないんだよ。
「えー、ケチっ」
「柳って学生時代水泳部だったんでしょ? 泳いで見せてよぉー」
唇をとがらせてなおもすがりつく女子。その声にはぁーっと重たいため息をついた私に、後ろに並んだ親友の佐々 菫が小声で話しかけてきた。
「ねぇ、柳先生が学生時代に怪我してもう泳げないって噂、本当なのかな?」
「さぁ……」
水泳部なら真相を知ってるんじゃない?
――そんな含みのある質問に私はあいまいに答える。
そういう噂が流れているのは知っているし、実際、柳は今年から水泳部の顧問になったけど指導しているのはもともといる女性のコーチで、部活中に泳いでいる姿は見たことがない。
そう、部活中には。
皮肉交じりに心の中で呟いた私の脳裏には、くっきりと始業式の朝の光景がよみがえる。
水に溶け込むように泳ぐ姿。
それは新入生なんかじゃなくて、柳だった。
眼鏡をしていない顔は幼くて、新入生かなってあの時は思って、体育館の舞台で挨拶する柳を見ても同一人物だなんて気づきもしなかった。
気付いたのは、部活に顧問としてやってきた時で、それ以来、柳が泳いでいる姿は一度も見てない。泳がない柳を見た水泳部員からなのか、他のところから噂が出たのか分からないけど、「柳は学生時代に怪我をして泳げない」そんな噂が流れている。
泳げない人が体育教師になれるとは思えない。噂に信憑性がないことは少し考えれば気づきそうなのに、現に、水泳の授業でさえ柳が泳がないから噂は一向に消えなかった。
柳はあの日、私に会ったことについて何も言わない。それはあの時会ったのが私だって気づいていないからなのか……柳が何を考えているかは私には分からない。
まあ、別に柳の考えなんてわかりたくもないけど。むしろ関わりたくないと思っているくらいなんだよ、実際は無理だけど……
「ねぇ、柳ぃ~」
まだも言い募る女子生徒の声が聞こえて、自分の思考からゆっくりと現実に引き戻される。泳ぐ番がもう次だった。
「わかった、そこまで言うなら――」
そう言った柳と、ちょうど顔を上げた私の視線が重なる。髪と同じく色素の薄い瞳の奥に、一瞬、鋭い光がきらめいたように見えたのは、気のせいだろうか。
気のせいだといいな……
「東雲」
柳に名前を呼ばれて、私は反射的に眉根を寄せ、あからさまに嫌な顔をしてしまった。
それを見た柳はほんの少し苦笑して、すぐにいつもの涼やかな表情で言い放つ。
「お前が、俺の代わりに教えてやれ」
「えぇ――――っ!?」
柳を取り囲む女子生徒のブーイング。
でもさ、私の心境こそが「えぇ――!?」なんですけど……
なんで私が……?
そう思った心の声が聞こえたとでもいうように柳は不敵な笑みを浮かべると、私の方へ歩いてくる。その後ろをぞろぞろと女子生徒が追ってきた。
「東雲はいまさら練習しなくてもメドレーは完璧だろ? 教えてあげなさい」
「完璧なんかじゃありませんよ……、練習時間が必要です……」
小さな声で抵抗した私の頭を柳が軽く撫で、それから振り返る。
「お前たちも、いつまでもプールサイドにいて泳ぐ気がないなら、レポート提出させるからな」
口調は優しいのに、その表情はどこか冷たい。
つまり、これ以上言い募っても聞かないと一線を引く柳に、女子生徒は明らかに不満げに唇を尖らせるが、それ以上言ってももう無駄だとやっと悟ったのか、渋々諦める。
そのついでに、私が教えるっていうのも諦めてくれればいいのに……
どうせ、泳げない云々は柳に教えてほしくて言っていただけなんだろうから。真面目にやる気がない人に教えるとか、私は嫌なんだけどな……
っていうか、私の練習時間を削る価値がない。
「はーい……」
渋々頷いた女子生徒が私を見る。その視線は心なしか嫉妬が混じっていて、私はため息をつきたくなる。
お願いだから、敵意を向けないでよ。お門違いだって気づいて!
私が指名されたのは、ただ単に水泳部だからってだけなんだから。部活の顧問が、自分の部活の生徒をいいように扱き使ってるだけなんだから。
新連載スタートです!
この作品は四季ヶ丘高校が舞台のオムニバスの第一弾です。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
※ 一部加筆修正しました。 2012.11.2