嫌よ嫌よも好きのうち
「リディア・ノーベル。お前との婚約は破棄する」
夜会の中央で、クラウス・アーデルハイト侯爵令息はそう言い放った。
周囲がどよめく。楽団が気まずそうに音を止める。私はドレスの裾をつまんで、きちんと礼をした。
「承知いたしました」
「……は?」
「ですから、承知いたしました、と。書面は明日の朝にでも」
クラウスの顔から、みるみる血の気が引いていった。まるで断罪されているのは自分のほうであるかのような顔で。
きっと、私が慌てふためいて縋る姿でも期待していたんだろう。
けれど、私はそれどころではなかった。むしろ、目の前が明るくなるようだった。
ようやく終わるのだから。ようやく、この蔑まれた二年が。
クラウスの誕生日で贈った手作りのハンカチは、「なんだ、このゴミは」と大勢の前で床に捨てられたこと。私が開いたお茶会には、当日、誰も来ないように、とクラウスが手紙を各家に送っていたこと。先月、私が二年育ててきた薔薇の温室を、「日当たりが悪いから」という理由だけで売却したこと。極めつけには「ノーベルの令嬢は無教養で話が通じない」という噂も、辿ればすべて同じ場所に行き着いたこと。その噂のせいで、十五になる妹の大切な縁談がひとつ流れたこと。
私の家は伯爵家、クラウスは侯爵家。趣味の悪い男を婚約者として持ってしまった運のなさを悔やんだ。
だが、こうして私も、婚約破棄という運に恵まれたのだ。
◇
こうして私は領地に帰り、実家でほのぼのな生活をし始めた。
朝は羊を見る。昼は村のお母さんたちとチーズを漬ける。午後は日当たりのよい窓辺で刺繍をして、飽きたら昼寝をする。夜は本を読んで、十分に美味しい料理を食べて、そして眠る。
婚約破棄された日から、三日で私は幸せを取り戻した。環境は、幸福を左右するというのは本当らしい。
そうして一か月ほどが過ぎた、よく晴れた午後のこと。壊れた羊小屋の柵を直していた私のもとに、村の子どもが駆け込んできた。
「リディア様、街道からすごい速さで馬が来てるよ!」
「馬?」
この村、というより、領地付近では馬を飼っている家はほとんどない。だから、脱走した馬なのではなく、誰かが遠くから馬を走らせて来ているのだと、少ししてから気がついた。
土埃を上げて牧場の前で止まった馬から転げ落ちるように降りてきたのは、王都から馬で片道三日は掛かる道のりを二日で来たような顔をした、クラウス・アーデルハイトその人だった。
「リディア嬢!」
「……クラウス様? 一体どうしたのですか」
「どうしてもこれだけを伝えたくて参った」
「……?」
そう言った途端、クラウスは膝をついた。侯爵令息が、伯爵領の羊臭い庭先で元婚約者の私に、である。
「全て誤解なんだ! 本当はお前のことが——好きなんだ!!」
風が吹いた。同時に、メェ〜と羊が一頭、間抜けた声で鳴いた。
「何をおっしゃいますか、クラウス様」
「ずっとだ。婚約が決まった日から、ずっと。だが君はいつも事務的で、天気の話をしても『そうですね』、贈り物をしても『恐れ入ります』としか言ってくれなかった。仲を深めたかったのに……君に嫌われていると思った。だから——」
クラウスは懐から一冊の本を取り出した。草臥れた、東方の装丁の書物だった。
「これを買った。東方の島国の、恋の指南書だ。ここにこう書いてある。『嫌よ嫌よも好きのうち』、と」
私は受け取り、栞の挟まれた頁を開いた。たしかに、堂々とそう記されていた。
「君が『嫌です』と言ってくれるたび、俺は嬉しかった。君の口から初めて感情のある言葉を聞いた気がした。だからもっと、と思ったんだ。婚約破棄と言えば、きっと君は一番大きな『愛』をくれると思った。……全部、好きだったからなんだ」
「『愛』ですか……」
「あぁ、だから」
「少々、よろしいでしょうか」
私は本を閉じて、彼に返した。丁寧に、両手で。
「この言葉の意味を、あなたは取り違えていらっしゃいます」
「え?」
「これは『嫌と口では言っているけれど、本当は好きなのだ』という意味の言葉です。相手に嫌なことをすれば好かれる、などとはどこにも書いておりません。ためしにもう一度お読みになってください」
クラウスが本の頁に目を落とし、固まった。
「つまりあなたがなさったのは、恋でも、駆け引きでもございません。ただの嫌なことです。嫌なことを、二年間。それだけです」
「いや、だが俺は本当に君が——」
「本当に好きなら、そんなことしませんでしょう?」
声は思ったよりも低く出た。
「クラウス様。好きな相手の贈り物を人前で恥をさらせますか? 好きな相手の茶会の招待客を来させないようにしますか? 好きな相手が二年育てた薔薇を、買い取って潰せますか? 好きな相手の妹の縁談を、噂ひとつで流せますか?」
「それは、お前が好きだったからで——」
「書物に何が書いてあろうと……普通、できないのです。本当に恋をしている人は手が止まるはずです。ですが、あなたは二年もの間、一度も止まらなかった。本のせいではありません。あなたがそういう方だというだけのことでは?」
羊が、静かに草を食んでいた。
「その慌て具合から察するに、この恋の書物を私に見せれば、許してもらえるとでも思っていたんでしょうけど」
「そ、それは」
「本に書いてあったから。悪気はなかったから。あなたは不器用で、天然で、恋を知らないだけだから。 ——そう言って許して差し上げる女が、この世にはいるのかもしれません。甘やかされて育ったあなたの周りには、そういう方ばかりだったのでしょう。けれど、あいにく、私はそこにはおりません」
「リディア嬢、俺は噂も全部訂正して回った。温室も建て直させている。薔薇も買い戻した。ここ、一ヶ月、俺は自分の行動を振り返った。申し訳なかった、と今では思ってるんだ」
「そうですか。それはご立派です。ですがそれらは、あなたが楽になるためになさったことでしょう。私が失った二年もすべて買い戻せるのであれば、情状酌量の余地もあるかもしれませんが」
「……っ」
「そのうえ、今になって好き、って。人を二年痛めつけておいて、最後に好きと言えば全部が恋の物語になると、本気で思っていらっしゃる。正気の沙汰とは到底思えませんわ」
私は、膝をついたままの男を見下ろした。侯爵令息を見下ろす日が来るとは思わなかった。だが、案外、悪くない眺めだった。
「そもそも限度というものがあるのでは? 六歳の子どもが好きな子の髪を引っ張るのとは違うのです。あなたは二十二で、侯爵家の跡取りで、私の家より上の立場から、二年かけて、ひとりの人間の居場所を削ったのです。それを恋? 甚だくだらない」
「なっ、くだらないとはなんだ」
私は彼の口に指を置いた。
「それにですよ、クラウス様。あなたは先ほど、私と『仲を深めたかったのに』と申しましたね」
「あ、あぁ。俺は本当にそのつもりで」
「随分と世間知らずでいらっしゃること」
「せ、世間知らず……!?」
「政略で嫁ぐことが決まり、実家を離れ、頼る者もない土地へ送り出される娘が、家格の上のあなたに気安く笑いかけられるとでも? 少々、都合が良すぎやしませんか?」
「俺は家格など気にしていなかった!」
「あなたが気にせずとも、私は気にせざるを得ないのです。格上の家に一人で嫁ぐ娘にとって、言葉ひとつが家の名に関わりますもの。それを『冷たい』と受け取って嫌がらせで返すのが、あなたの『愛』ですか」
言い終えて、息を吸った。まだ足りなかった。
「最後に、ひとつだけ申し上げますね」
「……なんだ」
「わざわざ三日の道を二日でおいでくださって、膝までついていただいて。まあご立派な誠意でいらっしゃること。侯爵家の跡取りともなると、謝罪までこうも見応えがあるのですね。ええ、とっても感服いたしました!」
クラウスが、はっと顔を上げた。何かを期待した目だった。私はその顔を見て軽蔑せざるを得なかった。
「言っておきますが——これは、純度百パーセントの嫌味です。勘違いなさらないでください。この期に及んで『嫌よ嫌よも好きのうち』などと思ったら、そのときは本当にただではおきませんから」
「リディア嬢、俺は」
「お帰りください。あなたの馬、水も飲んでおりません。自分のことばかり気にしていると、足元を掬われてしまいますわよ」
私は振り返って、羊小屋の柵に向かい合った。背中で、何か言いかけた気配がしたけれど、羊が一頭鳴いて、それきりだった。
◇
翌朝、村の子どもがまた駆けてきた。
「リディア様、昨日のあの人、誰だったの?」
「あれは…………権力を振り撒くただの勘違い野郎、とでも言っておきましょうかね」
私は窓を開けて、大きく伸びをした。
後ろで、子どもが「かんちがいやろう?」と首を傾げている。
今日もよく晴れている。気温も上がり、今日は羊の毛を刈る日だ。
「ふふっ」
気づけば、昨日の馬鹿を思い浮かべて、微笑んでいた。
嫌よ嫌よも好きのうち、とどこかでは言うらしい。
けれども、あいにく、この土地ではそんな言い習わしは存在しないのだ。
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