第26話:不死鳥の羽ばたき
狂乱の中央広場を後にし、俺たちが戻ってきたのは、北地区の豪華なサロンではなく、スラムの隅にあるあの煤けた工房だった。
隙間風が鳴り、壁にはまだ数ヶ月前に直したばかりのヒーターの煤がこびりついている。だが、今のこの場所には、帝都のどの貴族の屋敷よりも濃厚な「勝利の余韻」が漂っていた。
「……はぁー、死ぬかと思ったぜ。あんな大勢の貴族共の前で、殿下に頭を下げられるなんてな。レン、お前、心臓に毛でも生えてんのか?」
ヴァーンが正装のネクタイを乱暴に引きちぎり、安物のエールが入った瓶を二つ、作業台に置いた。栓を抜く音だけが、静かな工房に響く。
「心臓に毛は生えてないよ、爺さん。ただ、計算が合っていただけだ。……あの広場を体験した奴らは、もう元の暗闇には戻れない。これからは、彼らの方が必死になって俺たちに金を積み、この『静寂』を広めてくれる」
俺たちは、乾杯もそこそこにエールを煽った。喉を焼く安酒の刺激が、現実感を呼び戻してくれる。
「ライターに始まり、ヒーター、ランプ、そしてあのペンか。……最初はお前の持ってきた『妙な知恵』を信じて、俺の作ってた売れねえ着火具をいじくり回したのが始まりだったな。気づけば帝都最大のギルドを飲み込んで、街の明かりまで変えちまった。……お前は一体、何者なんだ?」
ヴァーンが、酔いと疲れの混じった目で俺を見つめる。
俺は、窓の外に広がる帝都の夜景を眺めた。遠くに見える中央広場だけが、琥珀色の光に包まれ、まるで漆黒の海に浮かぶ聖域のように輝いている。
「俺はただの商人だよ、爺さん。……ただ、少しだけ『価値の置き所』を知っているだけのね」
俺は、作業台の上に置かれた自分用の『不死鳥の筆跡』を手に取った。滑らかな漆黒の軸が、月光を吸い込んで静かに横たわっている。
「爺さん。俺たちは今、帝都の歴史を書き換える『権利』を売ったんだ」
俺の言葉に、ヴァーンが怪学生のように怪訝そうに眉を上げた。
「権利だと?」
「ああ。あのペンを握った記録官たちが記す言葉、あの光の下で教授たちが導き出す理論、あの静寂の中で皇太子が決断する政策。……それらすべてに、俺たちの作った『秩序』が染み込んでいる。……道具を売るということは、その道具が使われる『時間』そのものを支配するということだ」
俺はペンを置き、ゆっくりと立ち上がった。
「……さあ、次の段階だ。個人の書斎は支配した。次は、この『静寂』を街全体の秩序へと広げる仕掛けを始めるぞ」
ヴァーンは呆れたように笑い、残りのエールを飲み干した。
「……街全体、か。全く、お前の『値札』はどこまで跳ね上がるんだろうな」
窓の外、不死鳥の羽ばたきは、もはや一つの工房の成功に留まらず、帝都の「ライフスタイル」そのものを塗り替える巨大な渦へと変わり始めていた。
第一章 ――完――
これにて1章完結です。
2章は明日以降公開しますので
お待ちください。




