第11話:引き算の審美眼
帝都の北端、緑豊かな丘の上に構えられたカシム卿の邸宅は、邸宅というよりは「美の墓場」のようだった。
豪奢な門を潜れば、そこかしこに歴史的な石像や、他国から奪い取ったであろう異形の魔導具が並んでいる。どれもが「私は高価だ」と叫んでいるようで、スラムから来たヴァーンは、その威圧感に気圧されて何度も足を止めた。
「……おい、レン。やっぱり帰らないか。俺たちの持ってきた『黒い箱』が、こんな煌びやかな部屋に馴染むとは思えねえ」
「逆だよ、爺さん。これだけ飾りに溢れた場所だからこそ、俺たちの商品が際立つんだ」
俺は煤けた服のまま、背筋を伸ばして廊下を歩いた。
前世で、実績のない若者が大企業の役員室へ乗り込んだ時と同じだ。必要なのは謙虚さではない。対等な、あるいはそれ以上の「価値」を提供できるという冷徹な自信だ。
案内された最奥の書斎。
そこには、暖炉の火に照らされながら、古びた魔導書をめくる初老の男がいた。カシム卿。帝都の経済を動かす怪物は、意外なほど質素なガウンを纏い、退屈そうに目を細めていた。
「……マルクスが、面白いガキがいると言っていたが。それがお前か」
カシム卿は本から目を離さず、低く冷たい声で言った。
部屋には、いくつもの魔導時計の針の音と、既存の魔導ヒーターが放つ「ブーン」という低い稼働音が混ざり合っていた。
「面白いかどうかは、卿が判断することです。俺はただ、貴方の部屋から『ノイズ』を消しに来ただけだ」
カシム卿が初めて顔を上げ、俺を射貫くような視線を向けた。
「ノイズだと? この部屋にあるものは、すべて私が選び抜いた至宝だ。不快な音を立てるものなど一つもない」
「いいえ。貴方は慣れすぎてしまっている。……その、喉に刺さった小骨のような微かな音に。貴方の思索を、一秒に数回ずつ、無意識のうちに遮っている雑音に」
俺はヴァーンに合図を送り、漆黒の布を剥ぎ取った。
姿を現した『静寂の炉』。ベースはありふれた三型だが、その外観に面影はない。カシム卿の眉が、怪訝そうに動く。
「……それが、20金ソルドのヒーターか。随分と愛想のない箱だな。宝石の一つも埋まっていない」
「宝石は外ではなく、中に入っています。……爺さん、頼む」
ヴァーンが震える手で、カシム卿の部屋に置かれていた旧式の高級ヒーターを停止させた。
瞬間、部屋を支配していた重苦しい風の音が消える。
そして、俺は『静寂の炉』のスイッチを入れた。
――沈黙。
数秒後、カシム卿の表情が変わった。
火は灯っていない。風も吹いていない。しかし、彼の周囲の空気は、陽だまりのような密度の高い暖かさに包まれ始めていた。
「……音が、しない。動いているのか?」
「音も、振動も、煤の匂いもありません。既存の技術を極限まで磨き上げ、不純物をすべて取り除きました。あるのは、ただ『暖かい』という事実だけです」
俺は一歩近づき、静かに語りかけた。
「卿、富とは『持つこと』ではありません。『選ぶこと』です。そして、究極の贅沢とは、自分を邪魔するすべてのものを取り払い、ただ一つのことに没頭できる時間を手にすることだ」
カシム卿は椅子から立ち上がり、ゆっくりと漆黒の筐体に近づいた。
彼はその表面に刻まれた不死鳥の翼に指を触れ、目を閉じた。
「……引き算か」
彼がポツリと呟いた。
「職人たちは、いつも私を喜ばせようと飾りを増やす。だが、お前は私の部屋から『音』を奪った。……それが、これほどまでに心地よいとはな」
カシム卿は、机の上に置かれていた鐘を鳴らした。
現れた執事に、彼は短く命じた。
「この箱をここに置け。……そして、ここの少年たちに、20金ソルドと、私の『名刺』を渡せ」
ヴァーンの膝がガクガクと震え、彼はその場に崩れ落ちそうになった。
20金ソルド。
三型の改良品が、一人の少年の言葉によって、帝国の最高権力者の書斎を支配する「芸術」へと化けた瞬間だった。
「レンと言ったか。……お前は、ただの商人ではないな。人の『飢え』をデザインしている」
「光栄です、カシム卿。……ですが、これはまだ始まりに過ぎません」
俺は深く一礼し、震えが止まらないヴァーンの肩を抱いて書斎を後にした。
手の中には、ずっしりと重い金貨の袋。
不死鳥は、ついに貴族の庭園へとその翼を休めた。
だが、俺の視線の先には、すでに次なる「市場」への航路が描かれていた。




