ダビデの星の王子 世界ライト級王者 ベニー・レナード(1896-1947)
ニューヨークのロウアーイーストサイド出身の最初のボクシングヒーローは、”ゲットーの誇り”と謳われたジョー・バーンスタインである。バーンスタインはノンタイトルで新旧の世界チャンピオンに勝利したことがあるほどの強豪だったが、世界タイトルには手が届かず、彼の次に世界へ向かって羽ばたいた十歳年下のリーチ・クロスもあと一歩のところで挫折している。そのリーチより十歳年下のレナードは先人たちの夢を叶え”ユダヤの星”と呼ばれた。
ユダヤ系の世界チャンピオンの歴史は古く、歴史に名を残す名王者も少なくない。
特に注目すべきは技巧派ボクサーが多いことで、このことはヘブライ王国時代から脈々と受け継がれてきたユダヤ民族の優秀な知性とも無関係ではないかもしれない。
十八世紀末の英国ヘビー級チャンピオン、ダニエル・メンドーザは、一七〇センチ七〇数キロという小兵ながら左ジャブとフットワークで大男たちを翻弄したことで、ベアナックル時代の科学的革命児と言われているし、その弟子にあたるダッチ・サム・エリアスはアッパーカットの発案者として著名である(その息子のリトル・ダッチ・サムはハンサムな強打者として人気があった)。
ジョン・エル・サリヴァンが登場した一八八〇年代以降、ボクシングの本場はイギリスからアメリカへと移り、一九〇一年にユダヤ系アメリカ人で最初に世界チャンピオンになったのが、バンタム級のハリー・ハリスである。
ハリスは長身痩躯の名王者だったが、ウェイトの維持が困難だったため、一年後にタイトルを返上して階級を上げたものの、副業だった劇場の支配人の方に熱が入り、若くして引退してしまった。
その後、一九〇四年から一九一二年にかけて“リトル・ヘブライ”ことエイブ・アッテルが、フェザ―級で長期政権を築いたが、狡猾で戦い方が汚く、裏社会の人間たちとつるんでスポーツ賭博にも関わっていたことから、一流王者ではあっても、大衆から尊敬されるようなアスリートとは言い難い存在だった。
そういう意味では、“ゲットーの魔術師”の異名を取ったライト級屈指の技巧派王者ベニー・レナードは、品行方正で青少年の模範とされるほどの好青年だった。まだユダヤ系住民に対する差別意識がはびこった時代に、ユダヤ人の希望の星として崇められたレナードの勇名は、民族の壁を超えて世界中のボクシングファンの間に広まっていった。
一八八〇年から一九二四年にかけて東ヨーロッパで暮らしていたユダヤ系住民のおよそ三分の一が迫害を逃れて新大陸に渡ってきた。そのうちの大半がニューヨークのロウアー・イーストサイドに集中し、ゲットーと呼ばれる貧民街が形成されていったが、レナードはそこで暮らすロシアからの移民労働者の家に生まれた。
ゲットーと隣接したアイルランド系やイタリア系の住民たちとの間には小競り合いが絶えず、レナードもそういう環境の中で喧嘩の腕を磨き、やがてボクシングが生活の糧となった。
ベニー・レナードはリングネームで本名はベンジャミン・レイナーという。一九一一年十月十四日に十五歳でプロデビューした当初は、暴力沙汰を嫌う厳格な両親から咎められないよう偽名を用いていたが、貧しい労働者の父親の週給と息子の一試合のファイトマネーの額が変わらなかったことから、やがて両親ともに支援者となった。
とはいえ、デビューから半年間で三度ものKO負けを味わっているように、非力で打たれ弱く、凡庸なボクサーだった。腕っ節には自信があっただけに、このような結果に納得のゆかないレナードは敗因を徹底的に究明した。
一六五センチとライト級では小柄で非力なレナードがタフな強打者と対峙してゆくためには、まず相手のパンチを貰わないようスピードと防御技術に磨きをかける必要があった。
マネージャーのビリー・ギブスンは、場数を踏むことが技術向上の近道という実践主義に基づいてレナードを試合漬けにした。結果、数多くの修羅場を経験した防御勘が身に付き、天性のスピードにも磨きがかかった。
単発だったジャブも引くスピードを上げることでダブル、トリプルと打てるようになり、フェイントも交えて相手の攻撃を撹乱できるようになったことで被弾率が下がり、一九一三年(十七歳)は九勝四敗(三KO)三分、一九一四年(十八歳)は十四勝三敗(一KO)二分、一九一五年(十九歳)は十四勝二敗(三KO)と勝率も向上した。
まだ成長期の十代でこれだけ頻繁に試合をこなせば、肉体的なダメージが蓄積して選手寿命が短くなってしまっても不思議ではないが、打たれないボクシングに徹していたのだろう、レナードはこの試練に耐え、メキメキと腕を上げていった。
当時のロウアー・イーストサイド出身のスポーツヒーローと言えば、大学に通いながらボクシングを続け、後に歯科医となったことから、“戦う歯科医”と呼ばれたリーチ・クロスだった。レナードも同じライト級の強豪の一人に数えられていたが、パンチが無いためあまり見せ場が作れず、無冠ながら世界チャンピオン経験者を三人も破っているリーチの人気には敵わなかった。
研究熱心なレナードはサンドバッグを使ってパンチ力の向上を図るとともに、フォロースルーの効いたパンチで急所を正確に打ち抜く技術を磨いたが、パンチ力というのはある程度天性のものであって、筋力をつけたからといって急にバタバタと相手を倒せるようになるものではない。
そこでレナードが工夫を凝らしたのが、コンビネーションブローである。
フェイントで注意を逸らせたり、大振りのパンチを誘うことで相手のガードを開かせ、的確に急所に連打を浴びせれば、単発の強打より大きなダメージを与えることができる。そう考えたレナードは上下左右への打ち分けや、ワンツーといった従来のシンプルな連打をさらに複雑な組み合わせにすることで自らの非力を補おうとしたのだ。
さらに驚くべきは人体の急所の場所を的確に把握し、身体機能の仕組みを理解するために人体解剖学まで学んでいたことであろう。この時代に、幾つもある人体の急所をコンビネーションで打ち分けることがもたらす効果に言及するレナードの着眼点は他とは完全に一線を画しているといえよう。
フットワークもハンドスピードも速いレナードのコンビネーションは、当時のボクサーの目には魔法のように見えたはずだ。一九一六年には二十勝二敗(八KO)二分とナックアウトのコツを掴み、世界王座をぐっと引き寄せた。
世界ライト級王座初挑戦は、一九一六年三月三十一日、レナード十九歳の時である。フレディ・ウォルシュとMSGで交えたレナードは善戦したものの、KO以外は無判定というこの試合のルールのおかげでタイトル獲得はならなかった(ニュースペーパージャッジはレナードの勝利)。
四ヶ月後の七月二十八日にはノンタイトルでウォルシュと再戦し、この時は完敗しているが、この敗戦は結果として幸運の呼び水となった。というのも、レナード戦に自信を持ったウォルシュが、表向きはノンタイトル戦として開催されるが、KO決着したときのみ、世界タイトルの防衛戦として認められるという極めて変則的な試合に応じてくれることになったからだ。
一九一七年五月二十八日に行われたこの変則試合、伸張著しいレナードのコンビネーションが冴え、九ラウンドに三度のダウンを奪ったところでレフェリーストップが入ったところで、試合はタイトル戦として承認されることになった。ついにロウアー・イーストサイドのゲットーから初の世界チャンピオンが誕生した瞬間である。
たちまちレナードはリーチ・クロスをしのぐユダヤ人街のヒーローとなった。
ちょうどレナードがライト級王座に就いた時には、彼の他にもウエルター級のテッド・キッド・ルイス、ライトヘビー級のバトリング・レビンスキーの二人のユダヤ系が王座に君臨していた。今日とは違って、全部で八階級しかないうちの三階級をユダヤ系で占めていたのだから、これで各地のユダヤ人コミュニティが盛り上がらないはずがない。
レナード自身も『ザ・パレスティナ』(一九二五年刊)という雑誌の中で、「ユダヤ人はボクシングというスポーツに特に適していると信じている。なぜなら、最終的にはそれが最も基本的な自己防衛の形態だからだ」と述べており、彼の言行がユダヤ系の若者たちの間でのボクシング熱の高揚に大きな影響を与えたことは間違いない。
レナード効果というべきか、一九三〇年代以降、ライトヘビー級のマキシー・ローゼンブルームやヘビー級のマックス・ベアといったユダヤ系の人気王者が続々と誕生するが、当のレナードはボクシング界でユダヤ人が共生することには全く関心がなかったようで、数多くのユダヤ系のボクサーを容赦なく叩きのめしている。
かくして一九一八年九月二十三日、ユダヤ系イギリス人の世界ウエルター級チャンピオン、テッド・キッド・ルイスと雌雄を決することになったが、八ラウンド引き分けで二階級制覇はならなかった。
一九一七年九月二十一日の初防衛戦でレオ・ジョンソンをワンラウンドKOに仕留めてからというもの、三度の防衛戦を全てKOで片付け、ライト級歴代最強といわれるジョー・ガンスとの比較論が話題になるほどの評価を得たレナーだったが、一九二一年一月十四日の四度目の防衛戦で大きな試練に晒されることになる。
試合開始早々ギアを上げ、挑戦者リッチー・ミッチェルから立て続けに三度ものダウンを奪ったレナードの一ラウンドKO勝ちはもはや時間の問題だった。ところが、あまりの手応えのなさに油断したのか、フィニッシュブローのつもりの大振りのパンチが空を切ったと同時に、ミッチェルのカウンターがボディに突き刺さり、一瞬棒立ちになってしまう。そこに返しの右フックをまともに浴びると、無敵王者がダウン。試合会場は悲鳴に包まれた。
よもやの逆転KO負けのピンチである。ところがハードスケジュールで試合をこなし、数々の窮地を切り抜けてきた経験はだてではなかった。すでに足腰はがくがくだが、平気そうな顔をしてむしろ相手を挑発するように手招きして見せたのだ。
片やミッチェルもいまや“ユダヤの星”と謳われる時代の寵児を自分の力量でそう簡単にKOできるとははなから思ってもみなかったので、レナードの誘うような仕草を罠だと勘違いしたのか、追撃を躊躇してい千載一遇のチャンスを逃した。
一世一代のフェイクが功を奏したレナードは、この回のピンチを乗り切ると再び主導権を握り返し、六ラウンドでミッチェルをストップしてしまう。
長期政権を築き上げたレナードは記録の上からは難攻不落の王者のように見えるが、スピーディーなコンビネーションと鉄壁のディフェンスで層の厚いライト級戦線を勝ち抜いてきたとはいえ、打たれ弱さは相変わらずで、ミッチェル戦のような綱渡りの勝利も少なくなかった。
一九二〇年七月五日のチャーリー・ホワイト戦は、当初はタイトルマッチの予定だったものが、レナードがウエイトオーバーしたためノンタイトル扱いになったといういわくつきの試合である。
調整不足だったレナードは五ラウンドにホワイトの左フックでロープの外に弾き飛ばされたが、足を使って回復を待ち、九回に五度のダウンを奪い返してKO勝利を収めている。
一九二二年七月二十七日の六度目の防衛戦でも、八回にルー・テンドラーの左クロスを避け損ねて腰砕けになりながら、このピンチも咄嗟の機転で切り抜け僅差の判定を拾うという悪運の強さを見せている。この時は苦し紛れのクリンチの際に「いいパンチだったよ、ルー」と同じユダヤ系のテンドラーしか理解できないイディッシュ語でつぶやき、呆気に取られたテンドラーが「そんなことはいいから、早く闘え」と言い返してファイトを再開するまでの貴重な数秒間を稼いでいるが、もしテンドラーがレナードのたわ言に耳を貸さずに、そのまま追撃のパンチを浴びせていれば、試合は終わっていた可能性が高かった。
相手がレナードクラスの実力者になると、たまたま手応え十分のパンチが入ったところで、効いてなさそうな顔をされると、それがダメージをごまかす仕草だと勘ぐるボクサーはそうはいないだろう。
たとえ打たれ弱くても、パンチさえ浴びなければ階級が上のボクサー相手でも恐れるに足りないユダヤの星は、一九二二年六月二十六日、再度の二階級制覇に挑んでいる。
世界ウエルター級チャンピオン、ジャック・ブリットンは百戦錬磨のベテランだったが、スピードで優るレナードが着々とポイントを重ね、十三ラウンドにはボディへの左フックで片膝をつかせるダウンを奪った。ところが気が急いたのか、膝をついた状態の王者に加撃したことで反則を取られ、反則負けをコールされてしまう。
テッド・キッド・ルイス戦の分の良い引き分けといい、ポイントでブリットンを明らかにリードしながらの終盤の反則負けといい、二階級制覇に関してはツキのない試合が続いたが、ファンの目にはレナードこそ、ライト、ウエルター最強のボクサーであることは明らかであった。今日の階級区分であれば三階級制覇は堅かったはずだ。
テンドラーとの再戦(一九二三年七月二十三日、七度目の防衛戦)に完勝した後は、ブリットンを破って新王者になったミッキー・ウォーカーとの対戦が予定されていたが、レナードが指を骨折したためこのスペシャルファイトは御破算となっている。
代わりに組まれたパット・モランとのノンタイトル戦(一九二四年八月十一日)を最後にレナードはリングに姿を見せなくなり、一九二五年一月十五日にライト級タイトルの返上と引退を正式に表明した。
強打者相手だといささか心もとないところがあるものの、ライト、ウエルター両階級のいかなるボクサーの動体視力でも捉えきれないスピード感溢れるボクシングはユダヤ系のみならず大衆人気も抜群で、テンドラーとの再戦ではヤンキーススタジアムに六万人の観客を集めたほどである。これはヘビー級の世界タイトルマッチに相当する規模で、今日でもよほどの人気ボクサー同士の対戦でもない限り、プロモーターもこれだけの会場で興行を行うのは躊躇するだろう。
著名スポーツライターのアル・ルーリーが「アメリカで最も有名なユダヤ人」と賞賛を惜しまなかっただけのことはある。
まだ二十八歳という若さで、その王座を脅かしそうなライバルも見当たらない中での突然の引退宣言は驚きをもって迎えられた。
引退の理由は、ボクシングより見入りのいい商売を見つけたからである。
レナードはコーベットやフイッシモンズ、ウィラードらがそうであったように、その知名度を利用して、王座獲得以降はレビューやディナーショーのゲストとして顔を出すようになっていたが、端正なルックスということもあって、一九二〇年に映画『邪眼』に初主演したのを皮切りに、舞台や映画出演が相次いだ。
世界チャンピオンというステイタスがリングの外でも金の成る木であることを悟ったレナードは、商売上手のユダヤ人らしく、レストランを経営したり、株式投資をしたりと稼いだ金は積極的に運用し、雪だるま式に財を成していった。
マザコンのレナードは母がボクシングという格闘技には好感を持っておらず、常々早く引退して欲しいと懇願されていたこともあり、第二の人生を歩んでゆく目算がついたところで、足を洗うことを決心したようだ。ところがボクシングとは違って、商売はレナードの思惑通りにはゆかなかった。何と一九二九年の世界恐慌によって全てを失ってしまったのである。
バブル崩壊で全財産を失い途方に暮れたレナードには拳の世界しか残っていなかった。六年間のブランクがあるとはいえ、無敵王者のまま惜しまれながら引退したレナードの商品価値は高かった。一九三一年十月六日のカムバック戦に一万五千人の観客が集まったのはその証である。
対戦相手のパル・シルバーズは二線級のベテランである。大して見所が期待できるわけでもない無名のボクサー相手のノンタイトル戦にこれだけの観客が集まったのは、レナードの芸術的なナックアウトシーンを鑑賞したいという強い思いからだったが、試合開始後間もなく観客の期待は失望へと変わった。
三十五歳のレナードは腹周りもたるみ、そのもたつきぶりときたら、往年のキレのあるフットワークを知るファンからすると、まさに失笑ものだった。それでいて二ラウンドには力のない“猫パンチ”を浴びたシルバーズが自らの意思でリングに倒れ込んだかのようなダウンでカウントアウトされたのだから、観ている方も白けてしまう。
ちょうどこの頃はヘビー級の新生として連戦連勝中のプリモ・カルネラの試合に八百長疑惑が浮上していたこともあり、非力なレナードの“魔法のパンチ”もブーイングの嵐に晒されることになった。
その後もレナードは格下相手の試合を次々とこなし、復帰からわずか一年で二十連勝という好成績を残したが、すでに実力は見限られていたのか、ビッグファイトの声はなかなかかからなかった。
過去二十年間でニュースペーパージャッジによる敗戦を除けば、反則負けが一度しかない無敵のスピードスターもついにエンジンストールする日がやってきた。
一九三二年十月七日、久々の大観衆が待つMSGのリングに登場したレナードが対戦するのは、人気上昇中の強打者、二十四歳のジミー・マクラーニンだった。
マクラーニンは十七歳で現役フライ級チャンピオンのパンチョ・ヴィラに勝利したのを皮切りに、階級を上げながら新旧五人の世界チャンピオンを下してきた実力者である。世界王座にはまだ手が届いていないとはいえ、現役ライト級チャンピオンのアル・シンガーを三ラウンドでKOするなど、強すぎるがゆえにチャンピオンがタイトルを懸けて試合をすることを拒んでいるというほどの強敵だった。
レナードにとってもこれまで闘った中では最強の相手だったに違いない。二ラウンドにダウンを奪われた後は立っているのがやっとの状態で、六ラウンドにレフェリーストップが入った。
マクラーニンにとってレナードは子供の頃からのアイドルだった。それだけにダウンを奪った後は無意識のうちに詰めが甘くなったのかもしれない。
実力差を思い知らされたレナードは潔くリングを去る決意をしたが、ユダヤ人はリングで転んでもただでは起きかった。このビッグマッチのファイトマネー一万五千ドルをつぎ込んだシーグリル・レストランが評判となり、経済的な窮地を乗り切ることができたのである。
第二次世界大戦中は中尉待遇で軍の体育教官に採用され、戦後はレフェリーとしても活躍したが、一九四七年四月十八日、レフェリング中に心臓麻痺で急死した。
レナードの熱烈なファンだったニューヨークの名物市長フィオレロ・ラガーディアは、同じユダヤ系ということもあって「イーストサイドが生んだ最も偉大なユダヤ人の一人」とその死を悼んだが、それからわずか五ヶ月後に自身も膵臓がんで死去した。
生涯戦績180勝21敗(69KO)6分
レナードはチャンピオン時代にも数多くのノンタイトル戦を消化しているせいか、選手権試合かノンタイトル戦か曖昧なものが幾つかあるため、ライト級チャンピオンとしての在位こそ一九一七年五月から一九二五年一月までであることは明確だが、防衛回数は七回説と八回説がある。これはタイトル獲得直後に一階級下の世界フェザー級チャンピオン、ジョニー・キルベーンを三ラウンドでKOした試合を防衛戦と見るかノンタイトル戦と見るかいまだに決着がついていないことによる。キルベーンは最終的なチャンピオン在位が十年を超える強豪で、キャリアの盛時にレナードに挑戦しながら軽くあしらわれてしまったことで、商品価値が大幅に下がることを恐れた全米ボクシング協会がノンタイトル扱いにした可能性も無視できない。また引き分けたテッド・キッド・ルイスにしても、ユダヤ系であり、イギリスではフェザー級からミドル級まで四階級の国内タイトルを制覇した国民的英雄だったことから、ユダヤ協会あたりから痛み分けになるよう圧力がかかったのかもしれない。




