葬送剣舞
王都・嘉京から北の地へは思った以上に距離があった。途中で町や村をいくつか経由しながら、桔梗、絃月、瑞陽の三人は慎重に進んだ。
「鬼が、まったく出ない、か」
「全部喰われたんだろうね、おそらく」
馬上での絃月と瑞陽の会話が、桔梗の耳に届く。皮肉なことに北の地の鬼害は、貪狼童子が生まれたことで、一時的な小康状態を保っているようだった。その静けさが、かえって桔梗の胸をざわつかせる。
「油断は禁物です。それほどの数の鬼を喰らい、人鬼と化した貪狼童子です。わたくしたちの到着が遅れれば遅れるほど、力を増すでしょう」
「承知しました」
「少し、急ぎましょう」
最後の村で、桔梗は鉄紺の小袖姿に着替え、荷物から霊刀『名残月』を取り出した。絃月と瑞陽もそれぞれ刀と弓の点検を怠らない。
桜と桔梗が『名残月』を継承したあと、絃月と瑞陽はそれぞれの実家に戻り、絃月は剣術の師である近衛家の父親を、瑞陽は弓の師である遠矢家の祖父を、それぞれ実力で上回ったことを一族に証明し、本来代々の当主にのみ許される刀『月詠』と弓『日輪』を継承していた。それらは元より、絃月と瑞陽のために用意された武器だった。
辿り着いた北の果ての村には、もはや生きて動いている人間は一人もいなかった。
『そなたらか? 先日、余を覗いておったのは』
貪狼童子は、どこか楽しげに桔梗を見つめた。血染めの衣服は、どこからか調達してきたのか、小綺麗な衣装に変わっていた。
「またずいぶんと……若返りましたね」
人鬼と化した者の見た目は、生前そのものの姿であることがほとんどだが、稀に若返るほど力を得る者もいる。目の前の貪狼童子はどうやら後者のようだ。
『そなた、どこかで見た顔だと思ったが……真神の巫女姫ではないか。余を送りに来たのか?』
その声音には、かつて王弟だったころの、柔らかな響きがかすかに残っていた。
「その通りです。宗景王弟殿下──否、貪狼童子。王命により、貴方を討伐します」
するとなにがおかしいのか、貪狼童子はケラケラと笑い出した。
『王命とは、誰の言葉を指すのやら。まさか天景とかいう、無慈悲な人間のことではあるまいな』
桔梗は静かに一歩さがった。『日輪』を構えた瑞陽の斜め後方に。
「……少なくとも、貴方の言葉ではありませんね。お喋りはここまでです」
『!』
連続して引き絞られた矢が貪狼童子を襲う。次々と矢を躱す貪狼童子の行動を読むかのように、『月詠』を振りかざした絃月が肉薄した。
激しい音を立てて、貪狼童子の長く伸びた爪が絃月の刀を阻む。動きが止まったその瞬間を待っていたかのように、瑞陽が放つ矢が貪狼童子に迫った。
『チィッ──!』
その正確すぎる狙いに、貪狼童子は避けようとしたが、その行動も絃月に読まれていた。
──ザンッ!
肉を断つ音がして、絃月の刀は貪狼童子の左腕を断ち斬っていた。絃月の刀を持つ反対の手が動いて、落ちた腕を拾いあげる。
絃月は貪狼童子の腕を、そのまま桔梗に投げ渡した。
『いったいなにを……!?』
桔梗は貪狼童子の腕と血を媒介にした結界術を展開する。貪狼童子の動きが、目に見えて鈍った。
『貴様……余の腕を返せ──!』
「返せと言われましても……返す相手がおりませんので」
『は……?』
呆気に取られた様子の貪狼童子を、瑞陽の矢が狙い撃つ。先ほどまでと違い、躱そうとする貪狼童子の動きは精彩を欠いており、一本の矢が脚に突き立った。
その瞬間、絃月の刀が貪狼童子の首を撥ねていた。宙を飛んだ首はクワリと耳まで口を裂いて桔梗に喰らいつこうとしたが、その遥か手前で瑞陽の矢に射落とされた。
「ご苦労でした、二人とも。仕上げはわたくしの仕事です」
桔梗は右手を胸に当て、片膝をついて軽く頭をさげた。ゆっくりと立ち上がると、左手に霊刀『名残月』を、右手に扇子を持って、ゆるゆると舞い始めた。
招の段。桔梗が扇子を閃かせると、それに合わせて桜の花びらが宙を舞った。
視の段。扇子を帯に納め、抜刀の構えを取るたびに、青葉が地に舞い落ちた。
剥の段。『名残月』をスラリと抜き払い、四つの太刀で魂魄を純化していく。怨みも、痛みも、生への執着さえも、削ぎ落とすための軌跡。刀が煌めくたびに、紅葉が流れた。
送の段。いつの間にか深々と降り出した雪景色の中に、無数の蛍火が浮かび上がる。
最後に『名残月』を地に突き立てる。これで、葬送剣舞は完成した。
蛍火も幻影も、まるで夢幻のように疾く消え失せていた。
「お見事でした」
絃月の声かけで、桔梗の張り詰めた気配がようやく緩んだ。
「四季の幻影は久方ぶりでしたので……上手くできるか心配でしたが」
「杞憂でしたね」
瑞陽が苦笑する。桜も上手いとは思うが、桔梗の舞の技量はずば抜けている。下手すると精神を惹き込まれて一生戻ってこられないかもしれないほどに。
桔梗は、それを現世に引き戻すまでが舞だと主張するのだが、悪用しようと思えばいくらでも廃人が量産できそうだった。
「せめて……この国の美しい四季で、王弟殿下を送って差し上げたかったのです」
絃月と瑞陽は、桔梗につられて空を見上げた。桜も、青葉も、紅葉も、今は時期外れだ。それでも、彼らは舞の最中、確かに目撃したのだ。穏やかな表情で幻影を見上げていた宗景の姿を。
「桔梗姫のお気持ち、きっと伝わっていると思います」
「……だといいのですが」
これである。彼らの主は自己評価が低すぎるのが欠点だった。
*
王都の真神家本邸に帰還した桔梗たち三人は、橘に報告した。
「……ご苦労だった」
三人をそれぞれの部屋へ帰したあとで、橘はいつものごとく、絃月と瑞陽の書いた報告書に目を通した。
(貪狼童子の討伐及び葬送剣舞による送還完了、か……)
特になんの問題もない。ただ、桔梗が舞で四季を表現したことだけが気になった。桜にも、そんな能力はないというのに、やはり桔梗という存在は別格ということだろうか。
(いかんな……桜に肩入れするあまり、つい桔梗に対するものの見方が厳しくなる……)
自覚はあった。桜が絡むと、自分は昔から冷静ではいられない。桜を奪われるかもしれないという恐怖が、桔梗という存在を、無意識に敵にしていた。桔梗個人はなにも悪くないのに。
(絃月と瑞陽があからさまに桔梗寄りなのも、彼らの縁と絆を考えれば当然なのだが……まるで居場所を奪われたような感覚で苛立ちが募る……)
橘の脳裏に亡き祖母・花椰の声が甦る。
『今すぐ結論を出す必要はありませんよ。ただね、貴方にも知っていてほしかったの。桔梗さんは、悪ではないということを』
今ならわかる。祖母の言葉は正しい。彼女はなにひとつ悪くなかった。悪いのは、彼女という存在に悪を押しつけて、自分の世界と心の均衡を保とうとする、この矮小な心なのだと。
(俺も……そろそろ覚悟を決めないと……)
橘は白夜城を訪問する準備を調えた。
***
白夜城の謁見の間にて、国王・天景に会った橘は驚いた。このしばらくの間で、見る影もなくげっそりとやつれていたからだ。
「陛下。貪狼童子の討伐及び葬送剣舞、滞りなく完了いたしました」
「……そうか。ご苦労であった」
声まで精彩を欠いている。橘はなんだか無性に心配になった。
「……陛下、もし雑談をお許しいただけるのでしたら、少しだけ興味深い話をお聞かせできるかと思います」
「許す。話すがよい」
天景の言葉を受け、橘は桔梗に悪いとは思いながらも、彼女の舞について、報告書にあった内容を口にした。
「すでにご存じのことと思いますが、我が姉・桜の中には、もうひとつの人格である『桔梗姫』が宿っております」
「うむ」
「その桔梗姫の舞ですが、どうやら幻影が見えるそうです」
「なんと……」
貪狼童子の葬送剣舞の際、彼女が意図して四季の幻影をもたらしたことを話せば、天景の双眸に確かな光が灯った。
「そうか……余もぜひその光景を見てみたい」
「お望みでしたら、近いうちに連れて参ります」
橘の言葉に、天景は頷いた。
*
「……というわけで、お前を王城へ連れて行くことになった」
白夜城から戻った橘に、突然呼び出された桜は、桔梗を出してくれるか、と頼まれて桔梗と交代した。
その桔梗に、橘は王城での天景とのやりとりを聞かせ、天景が桔梗の舞を所望している、と告げた。
「……なるほど。事情はわかりました。ですが、葬送剣舞は死した者の魂魄を送り地に還すもの。今上陛下に振る舞うためのものではありません」
桔梗の正論に、橘は珍しく食いさがった。
「お前の霊力なら王都を丸ごと賄えると聞いた。それだけでも王都全体の死者は慰撫され、桜はとても助かるだろう」
桜のことを言われると、桔梗は弱い。しばらく逡巡したが、結局は折れた。
「……わかりました。今上陛下のお気持ちがわからないわけでもありませんし……今回限りですよ」
「助かる」
これに桔梗は面食らった。橘の口から桔梗への礼が出てくるとは。
戸惑う桔梗に気づいたように、橘はフンとそっぽを向いた。
「おかしいか? 俺だって礼くらい言う」
「……おかしくはありませんが……変わりましたね、橘」
考えてみれば、双子の姉だというのに橘の名を呼んだことすらなかった。桔梗に名を呼ばれるのは嫌だろうと、ずっと思っていたのだ。
だが橘は今回、嫌がらなかった。顔をしかめはしたものの。
「これでも物事の道理はわかっているつもりだ。今回は俺からの頼みでもあることだしな」
「……そうですか」
桔梗は、一瞬言葉に詰まった。胸に広がる安堵のような柔らかな気配に、戸惑いを隠せなかった。
後日、白夜城へと出向いた橘と桔梗は、国王・天景の前で跪いていた。
桔梗はいつもの鉄紺の小袖をまとい、特別な許可を得て、霊刀『名残月』を帯刀していた。
「久しいな、桜。否、今は桔梗姫なのか。伝承の存在に余の代で会えて嬉しい限りだ」
「光栄にございます、陛下」
実際に天景の姿を目の当たりにして、桔梗は橘の判断が間違っていなかったことを悟った。
──鬼堕ちと悲しみの境界に立っておられる
それが桔梗の見立てだった。
「此度は、陛下の御為、この久世国の民のために、葬送剣舞を舞わせていただきます」
「うむ」
「では、まず御前での抜刀許可をいただきとうございます」
「許す」
桔梗は最初に死者への礼を尽くすと、謁見の間で軽やかに舞い始めた。最初は扇子でヒラヒラと招くように。すぐに桜の花びらが現れた。
「……!」
天景は思わず、その美しくも儚い光景に釘づけになった。
扇子をしまい、舞い続けながら抜刀の所作のみを何度も繰り返す。そのたびに青葉が散った。
刀を抜いて、斬り払う所作を始めれば、刀の動きに合わせて紅葉が舞う。
いつの間にか、室内なのに雪が降り始めた。そして天景は幻視した。雪景色の中で佇む、穏やかな顔をした宗景の姿を。
「宗景……」
思わず呟いて、天景は舞の行方を見守る。宗景の幻影は天景を振り向くと、どこか申し訳なさと感謝が同居したような、そんな淡い微苦笑を浮かべた。
床に軽く刀が突き立てられる。その瞬間、宗景の幻影が掻き消えた。無数に浮かんだ蛍火も、桔梗が刀を鞘に納めると、疾く消え失せてしまった。
誰もなにも言わなかった。天景も、橘も、言葉を忘れたかのように、無言で静謐な空気を留めている桔梗を見つめていた。
「……見事なり」
沈黙を破ったのは、天景だった。桔梗はその場に跪いた。
「光栄にございます」
「聞くが……そなたは意図して相手に幻影を見せることができるのか?」
その問いに、桔梗はできるだけ事実のみを誠実に答えた。
「幻視の術は会得してございますが、此度は使用しておりません。わたくしの舞が見せる幻影は、術とは似て非なるものでございます」
「どういうことだ?」
天景の問いに、桔梗は説明を重ねた。
「舞とは、演者の想いと見る者の想いを重ね合わせるもの……確かに、わたくしは先ほど、四季の風景を意図して舞いましたが、見る者がそれを受け取らねば幻影は現れません」
「……では、余が先ほど目にした宗景の幻影は……?」
桔梗はそっと目を伏せて答えた。
「おそらく、ですが……わたくしは此度、宗景王弟殿下を送らせていただいた葬送剣舞を忠実に再現いたしました。その想いを、陛下が受け取られたのでしょう」
もしそれが本当なら、自分以外は誰も宗景の幻影を見ていないことになる。
「橘、そなたは……?」
「……お言葉ですが、私には四季の風景以外は見えませんでした」
橘の言葉は嘘ではない。立場上、天景は人の嘘に敏感だった。だからこそ、素直に信じられた。一瞬絶句して、それから言葉を紡ぐ。
「桔梗姫よ……そなたは、本当に宗景を穏やかに眠らせてくれたのだな……」
「畏れ入ります」
天景の声が震え、その瞳に涙が浮かぶ。揺れていた気配が安定した。天景は鬼と人との境界から戻ってきたのだ。人側に。それを察した桔梗は、ようやく安堵して、小さく息を吐いた。
なにか褒美を、という天景の言葉を固辞して、橘と桔梗は謁見の間を辞した。
桔梗の舞で、また一人、救われた存在がいた。その事実だけで充分だった。
2026/02/15
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