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呼ばれなかった名

 葬送剣舞を舞うときの装束は少しだけ特殊だ。それは戦うための装いではなく、闇の中で舞い、送るためのものだった。


 髪結いは瑞陽が、着付けは絃月と瑞陽がやってくれた。


「なんか……不思議な感じね。髪結いも着付けもできるんだ」

「昔から、我らの役目でもありましたから」

「……昔?」


 瑞陽の言葉に、桜は首をかしげた。裾よけと肌襦袢と足袋だけをまとった姿で彼らの前に立つ。恥ずかしいとか、言ってられなかった。


 彼らの手が次々と補正用の手拭いを桜の身体に巻きつけていく。


「私たちが桔梗姫の従者であることはご存知ですね?」


 手慣れた風で背後から長襦袢を着せながら、絃月が言った。


「うん。それは知ってるけど……」

「実は我々も桔梗姫と同じく、初代から輪廻転生を繰り返す存在なのですよ。桔梗姫にお仕えするためにね」

「……!」


 前で襟を整えてから紐を結ぶ瑞陽が言った。


「それで、昔から桔梗姫の着付けや髪結いは私たちの仕事だったのですよ」

「……そうだったの」


 一度伊達巻を締めて、それから鉄紺のほぼ無地に近い小袖を羽織らせられた。近くからだと織りで入った微細な流れがよくわかる。装飾をしているのに、していないように見える着物だった。


 裾の位置を調整して、それから腰帯で固定する。お端折りを綺麗に出して、腰回りも整えると、襟を正してもう一度伊達巻を使い、胸の下で固定した。


 淡い銀灰の袋帯を絃月が背中で結い上げていく。模様は極薄で、月光を受けたときだけ存在を主張する仕様だ。

 太鼓を作らぬ帯が高い位置で結われ、長い垂れが膝裏まで流れている。


「さぁ、できましたよ」


 瑞陽が鏡の前に桜を立たせてくれた。顔が緊張で強張っている。


「私……上手く舞えるかな……?」

「きっと大丈夫です。信じてください」


 絃月が励まして、背を押してくれた。桜はグッと顔をあげた。


「準備ができました」


 着替えた桜が大叔父たちの前に現れると、どよめきが走った。鉄紺の小袖と銀灰色の帯は、桜の美しい髪と瞳の色によく似合っていた。まるで、彼女のために存在する衣装であるかのように。


「……霊刀『名残月』を、彼女に」

「はい。こちらをお使いください」


 柳の娘が差し出した『名残月』を、桜はわずかに震える手で受け取った。


「ありがとうございます」


 桜の、初めての葬送剣舞が始まろうとしていた。


***


 草履を布紐で足首に固定すると、真神家の庭へ降り立った。奇しくも今宵は満月。月明かりの中で、桜の姿が影だけ浮かび上がる。


 桜は一度だけ、胸に右手を当て、片膝をつき、軽く頭をさげた。


 まずは、しょうの段。魂魄を呼び出す儀式だ。

 左手に、鞘に納めたままの『名残月』を持ち、四方を指しながら、右手の扇子を招くように閃かせる。

 すぐに近くの魂魄たちが応えた。その中には、紗椰と花椰の双子の姿もあった。


 次に、の段。扇子を帯に納め、腕を大きく動かして舞いながら、抜刀の構えを何度も繰り返す。

 魂魄の記憶が形を持ち、幻影として具現化した。


 そして、はくの段。ここへきてようやく『名残月』をスラリと抜き払い、大きく振りかぶる。

 風の太刀で、魂魄についた雑念を剥がす。

 地の太刀で、重く絡みついた執着を断つ。

 水の太刀で、記憶を解く。

 炎の太刀で、魂と魄を引き離した。


 最後に、そうの段。『名残月』を片手に静かに舞えば、魂が無数の蛍火と化して立ち昇った。

 一度、手にした刀を大きく横に払い、それから一気に地へ突き立てる。地に縫い留められた魄が、その瞬間、現世の姿を脱ぎ捨てるように崩れた。


 桜が『名残月』を地から抜き払い、鞘に納める軽い金属音がすると、蛍火も幻影も疾く消え失せていた。


 十三歳の少女が舞ったとは、誰も信じられなかった。

 それほど完成された葬送剣舞だった。



 翌日、桜は手元の霊刀『名残月』を眺めていた。あのあと、柳の娘に返却を辞退されたのだ。


『この『名残月』は貴女のものです。まだ年若い貴女に役目を背負わせることには胸が痛みますが……これも運命かもしれません』


 彼女はそう言った。柳はなにも言わなかった。


「凄ぇ舞だったよな、桜」

「橘。お仕事、終わったの?」

「ちょい休憩」


 そう言って、部屋から橘が出てきた。桜は立ち上がり、『名残月』を長櫃にしまうと、橘に微笑みかけてから台所へと向かった。茶と菓子を用意するためだ。


「どうぞ」

「ありがとう」


 絃月と瑞陽は用事があるとかで実家に戻っていて、今この屋敷には桜と橘しかいなかった。


「静かね」

「だな」


 二人が茶をすする音だけが響く。


「なぁ……『名残月』、見せてくれよ」

「いいよ」


 桜は『名残月』を長櫃から取り出すと、橘に見せた。橘は鞘の拵えや装飾をなぞるように眺め、それからポツリと呟いた。


「母様もこれ、使ってたんだよな」

「うん」

「あれから六年か」

「早いね」


 ようやく自分たちの手元に戻ってきた。それが二人の正直な気持ちだった。


「ねぇ、橘」

「ん?」

「私、頑張るから。当主として立つ橘に負けないように。いつも隣に立てるように」

「……おう」


 それはどちらかといえば橘の台詞だったが、桜の気持ちが嬉しかったので、素直に受け入れたのだった。


***


 その日の夜、桜は夢を見た。右も左も、上も下も真っ暗な空間で、何故か自分の姿だけがよく見える。


(ここは……どこだろう……)


 すぐに答えが返ってきた。


『ここはわたくしたちの意識の中。夢の中と言ったほうがわかりやすいでしょうか。ようやく貴女をここに招待することができました。はじめまして、桜。もう一人の、わたくし』


 声のしたほうを振り向くと、そこにはなんと桜自身がいた。最初は鏡があるのかと思った。しかし、桜が動いても、もう一人の桜は微笑みを浮かべて静かに佇んだまま。


(貴女は……?)

『わたくしは桔梗と申します』


 桔梗。『桔梗姫』。何度も聞いた名前だった。


(貴女が、桔梗……? いったいいつから、私の中に……?)

『逆ですよ、桜。最初に『桔梗』という人格がありました。次に『桜』の人格が生まれたのです。わたくしたちの父・蒼の名づけによって』

(……!)


 それは、桜にとって衝撃的な事実だった。頭では言葉を追えているのに、心がまったくついてこなかった。

 これまで自分の人生を歩んでいると思っていたのに、実はまったくそうではなかったことを思い知らされたのである。


(なんで……今さら……!)

『落ち着いてください。貴女を苦しめるために呼んだわけではありません。ただ、巫女姫の業を引き受けた以上、そろそろ事実を知らせるべきだと思ったのです』

(知りたくなかった……私が貴女の一部でしかないなんて……!)


 到底受け入れられない。桜は泣きながら苦悩した。


(私は……いったいなんのために生まれてきたんだろう……)


 そのとき、ふわりと抱きしめられた。桔梗の温もりにくるまれる。


『泣かないでください、桜……わたくしは貴女の存在を奪いません。これまで通り、内側から貴女を見守るだけです』


 唐突に気がついた。今まで桜が表に出て、桔梗が見守っていたということは。


(ねぇ、もしかして、逆……? ……私が奪ったの……? 貴女の十三年を……)

『違います。わたくしが望んで貴女を外に出しただけですよ、桜。わたくしは貴女を通してずっと見ていました。外の世界を。貴女はわたくしなのです』

(見ているだけ、なんでしょう? 実際に触れたり感じたりできるわけじゃない……)


 彼女は答えない。桜は悟った。彼女にはなにもないのだと。両親や祖父母からの愛情さえも。

 すべての時を桜に与えて、自らは見守るだけ。それはどれほどの痛みなのだろうか。


(……ごめんなさい……私、貴女にひどいことを……)

『大丈夫……また、会いましょう。桜、元気で』

(うん……貴女も……桔梗……)

『……ありがとう……』


 そこで目が覚めて飛び起きた。呼吸が荒い。頬は涙で濡れていた。私は、誰。私は、桜──。己を実感すると同時に涙が溢れて止まらなかった。


「……なに、泣いているんだよ、桜。怖い夢でもみたか?」

「橘……ふぇっ……くっ……」


 気づいてしまった。父も、母も、弟も、そして祖父母も。誰も自分を桔梗とは呼ばなかった。

 桜を桜と呼んでくれる存在がいる。それがどれほど嬉しいことなのか。

 桔梗と名を呼ばれることがないのは、どれほど寂しくて悲しいことなのか。

 桔梗は自分よりずっとつらい思いをしてきている。それがわかってしまったから。


『桜……桜……泣かないでください……貴女はわたくし……貴女が泣けば、わたくしも辛い……』


 桔梗の声が聞こえる。聞こえているのは桜のみ。彼女の言葉は他の誰にも届かない。桜がするべきは、桔梗を恨むことでも拒絶することでもなく、受け入れることだったのだとようやくわかったのだ。


「ごめんなさい……ごめんなさい……桔梗……」


 そう口にした瞬間、橘の顔から表情が消えた。桜にずいっと詰め寄る。


「あいつが桜を泣かせているのか?」

「え……?」

「あいつが桜を悲しませて泣かせているのか? 俺から桜を奪おうとしているのか? どうなんだよ」

「もしかして……橘、桔梗に会ったこと、あるの……?」


 桜の問いに、橘はふいっと顔を逸らした。会ったことがあるのだと桜は確信する。


「……何度か会ったことがあるだけだ」

「お願い……彼女に優しくしてあげて……他の誰も彼女の名前を呼ばないの……」

「確か、お祖母様があいつのことを『桔梗さん』って呼んでた気がする。桜が気にする必要ねぇよ」


 その言葉に確信する。家族は皆、桔梗の存在を知っていた。知っていて、名を呼ばなかったのだと。


 桜だけが、なにも知らなかった。



 あれから、桔梗が表に出てくることもないまま、一年が過ぎ、二年が過ぎた。


 橘は相変わらず当主の仕事で忙しく、桜は桜で毎晩王都のどこかで葬送剣舞を舞う日々だった。


 ときどきは夢で桔梗と話した。夢渡の術というらしい。桔梗は博識で、様々なことに精通していた。優しく、穏やかで、人格者でもある桔梗を、桜はすぐに好きになった。双子の姉ができた気分だった。


 そして三年目の今、真神家に王命がくだった。


なみだいけ神社へ赴きて葬送剣舞を奉納し、炎竜の荒御魂を慰撫せよ』


 その王命を受け取った橘は、大きく嘆息した。


「王都の外じゃねーか。しかも僻地の山ん中」


 桜を行かせたくない。危険すぎる。だが、王命である以上、誰かは行かなくてはならなかった。

 橘は桜に話だけしてみることにした。


「……ってなわけで、涙ヶ池で葬送剣舞を舞うだけの仕事だ。どうしたい? お前が行きたくなかったら前任者を行かせることもできるが……」

「わたくしが参ります」


 ん? と橘は思った。わたくし、ということは。


「お前……桔梗か」

「はい。わたくしが絃月と瑞陽を連れて行って参ります。その炎竜とは縁浅からぬものですから」


 桔梗の言葉に、橘は胡乱げに目を眇めた。


「どういう意味だ?」

「かつて王命により炎竜を倒したのが、初代のわたくしたちだということです」

「!」


 それは確かに浅からぬ縁だ。むしろ当代で十年に一度のその役目が回ってきたのは運命かもしれない。


「……危険はないんだろうな?」

「奇しくも貴方が言ったのです。涙ヶ池で葬送剣舞を奉納するだけの仕事だと。絃月と瑞陽がいれば、めったなことでは危険などありません」


 淡々とした調子が橘の癇に障る。大した信頼だと橘は思った。


「桜に傷ひとつでもつけたら許さねぇからな」

「承知しています」


 こうして、桔梗たち三人が涙ヶ池へ向かうことが決まった。絃月と瑞陽に話すと、二人はとても驚いた顔をしていた。


「なんと言いますか……」

「……凄い因縁ですね」


 驚き呆れる二人に、桔梗は苦笑を向けた。


「でも、一緒に来てくれるのでしょう?」

「当然です」

「お一人で行かせるわけがないでしょう」


 むしろ絃月は心配そうに桔梗を見遣った。


「桔梗姫は……大丈夫なのですか?」

「絃月、貴方こそ」


 彼は首を静かに横に振った。


「私は大丈夫です。ですが、姫は……」

「……大丈夫。あれから何度、人生を繰り返したと思っているのですか?」


 現在は七回目の人生なのだが、桔梗が言っているのは具体的な回数の話ではない。気にするな、と言っているのだ。


「……そうですね」


 それでも、絃月は切なげに顔を歪めた。

2026/02/12

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