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生まれなかった鬼

 巨門童子の、袈裟がけに斬られた箇所が、ホロホロと砕けていく。その涙に濡れた顔は、どこか結末を予想していたかのように穏やかだった。


(これでいい……)


 桔梗はそう思った。これできっと、父も母も安らかに眠れるだろう。あの日、母を殺した鬼は、巨門童子が復讐のために喰ってしまったから。


 鬼は群れない。それどころか、鬼同士でさえ喰らい合う。それが、欠けたものを取り戻すための唯一の道だと、彼らは本能で知っているのだ。


 そうやって下位の鬼を喰らった鬼の格はあがり、最終的に辿り着くのが人鬼だ。鬼になったときの霊力量が、その鬼の最初の位階を決めるとも言われている。


 人鬼になると、姿形は限りなく人に近くなる。それでも、決して救われているわけではない。喰らった分の哀しみさえも、ただ引き受けるだけ。


(本当に……報われない……)


 その現世に囚われた哀しみに終止符を打つのが、永遠に続いてゆく桔梗の役目だった。


 霊刀『名残月』を拾いあげ、一度だけ跪いて頭を垂れる。死者への哀悼の意だった。


 すぐに踵を返した桔梗に、瑞陽が尋ねる。


「本当に、送らなくてよろしいのですか?」


 桔梗は足を止めて、瑞陽を振り返った。


「……言ったでしょう? わたくしに送られるのを、彼は嫌がるでしょう。だからこそ、彼の最期を見届けたのですから」


 そう言い切らねば、彼女自身が立ち止まってしまいそうだった。

 そして再び前を向いて歩き出す。今度こそ桔梗は立ち止まらなかった。


 途中でこちらへ向かっていた緋守家の巫女姫と遭遇したので、『名残月』を渡し、場所を教えた。巫女姫は礼を言って駆けて行った。


「今夜は寝不足ですね、桔梗姫」


 おそらく気を遣ったのだろう。瑞陽の軽口に、桔梗はかすかに笑った。


「そうですね。この寝不足を桜に背負わせるにはいささか申し訳ないところですが……」

「あ……桔梗姫、あれを……」


 絃月が示したほうを振り向いて、桔梗は夜空に舞う無数の蛍火を見た。


「これで……ようやく眠れそうですね」


 誰が、とは言わない。絃月と瑞陽も聞かない。それで充分だった。


***


 翌日の朝、桜と橘は父・蒼の死を知らされた。そんな予感がしていたせいか、桜も橘も、驚きはしたが、母のときほどひどく衝撃を受けることはなかった。


「お祖父様と、お祖母様と……俺たち二人だけになっちゃったな」

「……そうだね」


 六人家族で、あんなに幸せだったのに、一瞬で壊れてしまった。幼い二人の胸の中を、冷たい隙間風が吹き抜けていく。


「父様……母様……」

「……こんなの、嘘だよ」


 涙はとめどもなく流れ落ちる。桜と橘は二人で抱き合って、声を殺して泣いた。優しい祖父母を心配させぬように。


 その事実を、紗椰と──桜の内に在る桔梗だけが、静かに抱えていた。



 それから間もなくして、桜と橘の祖父・藤は病を得た。桔梗の病平癒の術さえも効き目の薄い、内腑の病だった。


 それを境に、桜と橘の日々の稽古と教育は目に見えて詰められていった。

 桜には、巫女姫として本来なら段階を踏むはずの術を、続けて授けた。

 橘には、次代の真神家当主としての名目だけでなく実際の裁可と決断を任せる場を増やした。

 それは急き立てるというよりも、残された時間を無駄にしないための采配だった。


「なーんか……最近、急に忙しくなってねぇ?」


 橘がそう呟くと、桜は小首をかしげた。


「そうかな? きっと期待されてるんだよ」

「……だといいんだけどな」


 素直かつお気楽な桜とは逆に、橘には真神家の次期当主としての自覚が芽生えつつあった。だからこそ、祖父がなにを考えているのか、わからないのがもどかしかった。


 そして、桜と橘が九歳の年。


「そろそろ王城にも顔を出さねばな」


 藤は双子を王城へ連れていき、国王に目通りをさせる決心をしていた。


「私たち、王様に会いに行くの?」

「げぇっ……俺、ちゃんとできるかな……」


 不安と好奇心を交互に滲ませる桜と橘に、藤は彼らを安心させるかのように微笑んだ。


「そう不安がらずともよい。今上であらせられる天景てんけい陛下は厳しくもお優しい方だ」


 それでは、まるで藤みたいだ。桜と橘はそう感じたが、今上陛下は藤よりもずっと若いらしい。


「父様と母様たちくらい?」

「……そうだな。それより少し上のご年齢だ」


 椿よりも年上ではあるのだが、比較対象が他にない双子のため、藤はそう答えた。


(父母の話題が出ても、この子らは泣かなくなった……)


 それは双子が強くなったからというよりも、幼くして両親を立て続けに失い、強くならざるを得なかったからというほうが正しい。頼れる大人といえば老い先短い自分たちだけ。それだけに、藤たちは双子を不憫に思っていた。


 久世の王城は、城壁が闇を拒むかのように白く輝くことから、白夜びゃくや城と呼ばれている。桜と橘はもちろん初訪問だ。


「凄い、近くで見ても雪みたいに真っ白!」

「こんなん、すぐに汚れるじゃねーかよ」


 双子の性格の差が如実に表れた発言に、藤は苦笑を隠せなかった。


 久世国の王・天景は謁見の間にて、柔和な表情をたたえたまま双子たちを迎えた。


「よく来た。真神家当主・藤よ」

「ご無沙汰しております。本日は陛下に孫をお引き合わせいたしたく、連れて参りました」


 桜の事情はすでに奏上してある。藤はまず桜を紹介した。


「桜は現在、巫女姫の修行を進めております」

「そなたが桜か。うむ……珍しき色彩であるな」


 桜の長い髪は、黒というより濃い青紫がかっていた。その瞳の色も黒ではなく濃い青紫色である。光の加減で黒にも青紫にも見えるその色合いは、この久世国では珍しかった。

 それは知る人ぞ知る『桔梗姫』の伝承通りの色彩であり、天景は当然それを知っていた。


「何故、桜と名づけたのだ?」

「双子の弟の名は橘と申します」

「……なるほど、城門前の神木由来か」


 白夜城の城門前には二つの御神木がある。城から見て門の左側には桜が、右側には橘が植えられていた。


「橘には、次代の真神家当主として、この藤の持てるすべてを引き継がせるつもりです」

「そうか……椿のことは実に残念であったな」


 天景の示した哀悼の意に、藤は深々と頭をさげた。


「畏れ入ります。あれから二年とは、月日が経つのは早いものです」


 それから、天景と藤はいくつかのやりとりをしたが、桜と橘にはまだ理解できない領域の話だった。最後に天景はチラリと桜を見た。


「では『桔梗姫』の件は、引き続きそなたたちに任せるとしよう。くれぐれも気をつけるように」

「かしこまりました」


 謁見はこれで終わりだった。謁見の間を退室して、城の中を門に向かって歩いていると、突然背後から呼びとめられた。


「藤、来ていたのか」


 声だけで藤には相手がわかった。


「これは、宗景そうけい殿下」


 王弟の宗景だった。


「今、帰りか? うん、後ろにいるのは……?」


 宗景が双子に気づいた。


「孫の桜と橘です。桜、橘。殿下にご挨拶を」

「桜と申します」

「橘です」


 ペコリと頭をさげた双子に、宗景は微笑んだ。


「なるほど、真神家の秘蔵っ子たちか。まぁ、立ち話もなんだ。私の部屋で話さぬか?」


 王弟の誘いを無下にするわけにもいかず、藤は双子を伴い宗景について行った。


 通された部屋にはよい香りの香木が焚かれ、開放された窓からは新鮮な空気が流れ込んでいた。

 子供たちが寒いだろうから、と窓を閉めると、宗景は双子に向き直って膝を折り、視線を合わせた。


「桜と橘だったな。よく来た。藤の修行は厳しくはないか?」

「厳しいですけど優しいです」


 桜がそう答えると、橘は少し用心しながら言葉を選んだ。


「……尊敬しています。いつか祖父のような立派な当主になれるように」


 これに、宗景は目元を優しく和ませた。


「そうか。その歳で偉いな。藤はよき孫を持った」


 確かこのへんに菓子があったはず。宗景はそんなことを言いながら、部屋の引き出しをゴソゴソと漁った。


「あぁ、ほら、飴玉があった。これをあげよう」


 紙に包まれた飴玉をひとつずつ貰い、桜はにっこりして、橘は頬をわずかに緩めた。


「ありがとうございます、殿下」

「……ありがとうございます」


 それから宗景は藤に向き直った。


「最近、奥方の体調はどうだ?」

「お気遣い痛み入ります。最近は比較的安定しているようで、孫たちとよく過ごしております」

「そうか。守るものがあると人は強くなる。奥方もきっとそうなのだろう」


 それからまた二、三のやりとりがあって、ようやく帰途についたときには昼を過ぎていた。


「宗景様、優しい人だったね」

「まったく、桜は……菓子をもらったからって、気を許すの早すぎ」


 呆れたように橘が鼻を鳴らす。それは藤も同感だった。


「天景様は、優しいけど怖い人だと思うな」

「これ、桜……」


 窘める藤をものともせず、橘も頷いた。


「俺もそれは同感。さすが王様って感じだった」

「だよね」


 不敬ではあるが、その直感は的確だった。孫たちの言葉は事実である。洞察力が高いのを褒めるべきか、不敬を諌めるべきか。藤はもうなにも言えなかった。



 桜と橘が十一歳を迎えた年、祖父の藤は床につくことが増えた。


「……真神の行く末が心配だ。我々は血をつなぐことしかできぬ。だがそれが責務でもある。橘、あとをしっかり頼むぞ」


 病床の藤は、事あるごとに同じ内容を口にするようになった。


「……そんなこと、言うなよな。まだまだ元気でいてもらわないと、困るんだ」


 ポツリと橘が呟くと、藤は首を横に振った。


「お前には私の持てるすべてを伝えてある。大丈夫だと信じてはいるが……未だ幼いお前たちを残して逝くのは、些か不安だ」


 藤は些かと表現したが、最近の藤を見ていると、自分の死後をかなり心配しているのは間違いなかった。

 強すぎる未練は、ときに生きている人間をも鬼と化す。藤はそのちょうど境界にいるのだ。


 そして、ある夜のこと。


「お祖父様……」


 静かな声が藤を呼ぶ。目を開けると、いつの間にか桜が近くに端座していた。


「桜……いや、桔梗姫か」

「よく、おわかりになりましたね」


 小首をかしげる桔梗に、藤はかすかに笑った。


「姫と桜は雰囲気が違う。すぐにわかるよ」


 桔梗がまとう雰囲気は独特だ。それは幼い桜には決してまとえぬ、静謐な死の気配であった。


「このまま禄存ろくそん童子になるおつもりですか?」


 彼女の問いは静かで、まっすぐで、それだけに避けようもなく藤の心に突き刺さった。


「……そうか。私は鬼に堕ちかけていたのか」


 守りたい家、血筋、役目、妻、孫。失うことを恐れていた。ただひたすらに。


「孫たちの未来を信じるべきだと、頭ではわかっている……だが死に直面したとき、人の心とは、かように脆い……」


 藤の独白を、桔梗は黙って聞いていた。藤の心は決して弱くない。ただ、気持ちを整理する時間が必要なだけだった。


「橘は……役目を厭わしく思わないだろうか? あの子は父親に似て、姫をよく思っていないようだから……」

「……そうですね。ですが、父と橘は違います。橘は思慮深い子です。きっと短慮に走ることはないでしょう」


 それはこの十一年間、橘を見守ってきた桔梗の実感だった。


「桜にも、申し訳ないことをした……私たちは、あの子に姫の影を背負わせてしまった。あの子は私たちを恨むだろうか……?」

「桜は……素直でしなやかな子です。初めは衝撃を受けるかもしれませんが……受け入れて前へ進むだけの強さを持っています」


 ずっと内側から桜の成長を見守ってきた。彼女はきっと大丈夫なのだと、桔梗自身が一番信じたかった。


「そうか……これで、安心して手放せる……」


 藤の眦からひと筋の涙がこぼれた。未来は信じるに値するものだと、桔梗が背中を押してくれたから。


「桔梗姫……」

「……?」

「……すまなかった……ありがとう……」


 それは、祖父から孫へ贈られる、最初で最後の言葉だった。目の奥がじわりと熱を帯びる。桔梗の瞳にも涙が浮かんだ。


「さようなら、お祖父様……どうかゆるりとお休みください」


 桔梗の声は、もう藤には届かない。藤は静かに息を引き取っていた。


(結局、禄存童子は、生まれなかった……)


 生まれる一歩手前まで来ていた。だが、それよりも藤の強さと、優しさと、決して鬼には堕ちないという意志が勝ったのだ。


「……見事です、藤。さすがは葵兄様の血を引く真神の当主ですね……」


 強く優しかった兄を思い出し、桔梗は目を細めた。今日くらいは、自分が泣いても許されるだろうか。桜ではない、桔梗として。


 溢れる涙が頬を伝う。鬼を生み出すことなく、安らかに眠ることを選んだ祖父を誇りに思う。

 それでも、何度生を繰り返しても別れの悲しみは胸に迫るのだ。


 誰にも見られず、誰にも悟られることなく、桔梗は失った家族を想って泣いた。

2026/02/10

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