鬼とはなにか
蒼が真神家から失踪して、み月が経った。
──父は、まだ見つからない
両親のいない生活は、寂しかったが桜と橘の絆を強くした。少なくとも橘はそう信じていた。
そんなある日のこと。祖父の藤は分家から二人の少年を真神家に呼び寄せた。
一人は近衛絃月、もう一人は遠矢瑞陽と名乗った。二人とも十歳だという。
「絃月じゃん!」
顔見知りの橘が親しげに話しかける。だが、絃月は曖昧に笑って誤魔化した。
「彼らは『桔梗姫』専属の従者たちだ。そのうち桜と橘も世話になることもあるだろう。今のうちに仲良くなっておきなさい」
祖父の言葉に、桜は小首をかしげ、橘はギクリと身体を強張らせた。桜だけが桔梗の存在を知らない。桜はチラリと自分の左手首にある花形の痣を見た。
「桔梗、姫……?」
「いずれわかる」
藤は短く、そうとしか答えなかった。橘は慌てて桜に言った。
「さっそく遊ぼうぜ、桜! 絃月と瑞陽も一緒に」
「うん!」
絃月はもう慣れたもので、橘の遊び相手をしながら瑞陽に視線を向けた。瑞陽はその視線をにっこりと受け止めて、桜に声をかけた。
「桜様は外で遊ぶのと家の中で遊ぶの、どちらが好きですか?」
「えっと、どっちも好きだけど、外で遊ぶと橘が喜ぶから、外かなぁ」
その答えを瑞陽は少し考えるようにして、それからまた、にこっと笑った。
「では、今日は外で遊んで、明日はみんなで家の中で遊びましょう。橘様もそれでいいですね?」
「お……おう」
笑顔の圧に押し切られてしまった橘は、瑞陽に少し苦手意識を持った。にこにこしているのに、なんだか油断がならないような気がするのだ。
その勘は当たった。実は瑞陽は怒らせると誰よりも怖かった。怒った顔をしないし怒鳴らない。でも笑顔で静かにキレる。
「橘様。私は散々言いましたよね? 桜様は女性なのですから、顔は狙わないようにと」
「あ……あんなの、避けられないほうが鈍臭いんだろ」
避球をして遊んでいた橘が、つい興奮しすぎてしまったときのことだった。
「橘様? ご当主様に報告して、ずっとおやつ抜きにしていただきましょうか? それとも課題を倍に増やして、遊ぶ時間をなくしていただきましょうか? 私はどちらでも構いませんが」
「……ごめんなさい」
瑞陽なら絶対にやる。ずっとおやつ抜きも遊ぶ時間がないのも御免だ。橘はあっさり折れた。
「よろしい。次からは気をつけてください」
終始笑顔の瑞陽に、桜は感心していた。
「なるほど、そうすればよかったのね」
「桜様、あれは見習わないほうがいいと思いますよ」
思わず桜にツッコミを入れたのは絃月だった。
「どうして?」
「友達をなくします」
絃月の返答は短く容赦がない。それもそうか、と桜は思った。もっとも絃月と瑞陽以外に友達などいないが。
「意外ね」
「……?」
「絃月って私のこと、嫌いなのかと思ってた」
「!」
これまで顔を合わせたことは何度もあるが、話しかけられたことなど一度もなかった。だから、てっきり桜のことが嫌いなのだとこれまでは思っていたのだが。
絃月は気まずそうに桜から視線を逸らすと頬を掻いた。
「……誤解です。どう接してよいのか、わからなかっただけですから」
「そうなんだ。今はもう平気なの?」
「はい」
その返事に迷いはなかった。だからだろうか。何故接し方がわからなかったのか、桜は理由を聞きそびれた。
*
絃月と瑞陽は、すぐに桜と橘に馴染んだ。絃月が天性の剣の才なら、瑞陽には天性の弓の才があり、午前中、二人はそれぞれ剣と弓の稽古をして過ごしていた。
一方で桜と橘は、午前中は勉強の時間だった。
前半の座学では藤の講義を受け、真神家の歴史について学んだり、さまざまな術を身に着けたりしていく。
「さて、真神の歴史についてはひと通り学んだとは思うが、血を絶やさぬ理由は? 橘」
「……真神家が、巫女姫・桔梗を生み出す母体であるためです」
橘は一瞬答えに詰まった。答えながら、橘は桜を見なかった。だが、藤はまったく意に介さなかった。
「そうだ。ではそれ以外の代理の巫女姫としての責務は? 桜」
「桔梗姫の代わりに葬送剣舞を身に着けて、王都・嘉京と、引いては久世国の安寧を後世につなぐことです」
チラリと視線を桜に向けた橘だったが、どうやら桜は自分を代理の巫女姫候補だと捉えたようだった。微塵も動揺した様子がない。その事実に安堵を覚える。
祖父の藤はさすがに厳格だったが、教え方はとても丁寧でわかりやすかった。
後半は実践で、二人が見鬼の術を身に着けた時点で、魂魄の巫女姫・紗椰が講義を引き受けた。藤の説明で紗椰の存在は知っていたつもりの橘だったが、最初に彼女を視たときはかなり驚いた。桜にはもともと紗椰が視えていたと知ったときはさらに驚いた。
『通常、魂魄に物理攻撃は通じぬ。鬼もまた同様だ。では何故、近衛家や遠矢家は鬼退治ができると思う?』
紗椰の問いに、橘は手にした木刀を見つめた。
「霊刀や霊弓のおかげ?」
『それもある。他には?』
「刀や弓に術を組み合わせる、とか?」
『桜、ほぼ正解だ。正確には、武器に霊力を込める。そうすることで、一般人でも霊力を持つ人間なら鬼を倒すことが可能となるのだ』
術者の家系でもない一般人が鬼の腕を斬り落としたとかいう逸話はこうやって生まれる。
橘が手を挙げた。
「先生、どうやって武器に霊力を込めるんですか?」
『実践だ。その木刀でやってみるがいい、橘』
まずは自分の霊力を視ることから始まる。
『自分の身体を覆う霊力が視えたら、武器を自分の身体の一部と見なすんだ。手で握っている部分から霊力が伝わり、武器を覆う様子を頭の中にありありと思い描け。最初は視ながらやってもいいが、可能なら霊力を視なくても武器に込められるようになれ。それがすべての戦い方の基本だ』
今度は桜が手を挙げた。
「飛び道具とかはどうするんですか?」
『いい質問だ、桜。込めた霊力を身体から離れた物体に留めるには、集中力がものをいう。最初はとにかく武器から意識を逸らすな。慣れたら他のことをやりながらでも維持できるようになる』
それはかなりの上級者だろうと桜は思った。今でも簡単にはできる気がしない。
『練習あるのみだ。舞でも最初は扇子の開き方と閉じ方からやっただろう? それと一緒だ。まずは目の前の木刀に霊力を込められるようになればいい』
結局、木刀に霊力を込めるのは、橘が視ながらできるようになったのがやっとで、桜は視ても、ほんの少し木刀にまで霊力が延長されたかな? くらいの出来だった。
『まぁ、一日でやれるようになるとは思わん。できるまで続ける。各自で復習しておくように』
午後からは、橘は剣術の稽古、桜は剣舞の稽古だった。
絃月と橘が稽古している横で、桜は紗椰から舞の手ほどきを受ける。その動きは、七歳とは思えないほどに整っていて、絃月と瑞陽が思わず一瞬目を奪われるほどだった。
「さすがは、桔……」
「やめないか、瑞陽」
桔梗姫の片割れと言いかけた瑞陽を、絃月が肘で小突いて止めた。その視線の先には、不安げに桜を見守る橘の姿がある。瑞陽はさすがに失言に気づいた。
「絃月……止めてくれて、ありがとう」
「いい。俺も最初は似たようなものだったから」
瑞陽はチラリと絃月に視線を向けると、遠慮がちに言葉を紡いだ。
「ねぇ、君はどこまで覚えているの? 絃月」
「俺は……彼女が大切な主だということと、瑞陽が相棒だったことくらいしか覚えてない。あと転生回数くらいだ」
大切な主に──相棒。相も変わらずこの絃月という男の本質は変わっていないらしい。
「まったく君ってヤツは……まぁ、七回も生まれ変わっておいて、僕も似たようなものだけど……充分だね」
「あぁ。充分だ」
絃月と瑞陽は確かに、桜の中に主の面影を見出していた。
*
そして、ある夜のこと。分家である緋守家から緊急の知らせが届いた。
「大変だ、花椰、紗椰殿。巫女姫が襲撃され、『名残月』が持ち去られたそうだ」
知らせを受けた藤は動揺を隠せなかった。花椰は絶句し、紗椰は目を剥いた。
「なんてこと……」
『なんだと!? まさか……犯人は……?』
藤も花椰も、そして紗椰も口を閉ざした。口に出せば、もう後戻りできなくなりそうで怖かったからだ。
それなのに。
「お祖父様、お祖母様、少しよろしいでしょうか?」
静かな声が障子戸の外から聞こえてくる。声の正体を、三人はもう知っていた。
「お入りなさい、桔梗さん」
「失礼します」
障子戸が開いて、桔梗が入室してくる。空気が一気に変わった。
「どうやら『名残月』が人鬼の手に渡ったようです」
「人鬼だと!?」
藤は思わぬ知らせに驚愕した。
鬼には四つの位階がある。最下位にして最弱の影鬼。次が想鬼。続いて執鬼。そして──。
『最上位にして最強の鬼が、何故『名残月』を?』
困惑する紗椰に、とどめを刺したのは桔梗の次の言葉だった。
「巨門童子……生前の名は蒼……お父様です」
それは屋敷に居ながらにして、世界を見通す目を得る透視の術であった。本来は七歳の子供に使えるものではない。
誰もが言葉もなく桔梗を見つめる中で、桔梗は小さなため息をついた。
「わたくしは……本当に彼から憎まれていたのですね。鬼に身を堕とすほどに……哀しいことですが、こうなった以上は浄化が必要です。お祖父様、動ける巫女姫を待機させておいてくださいませ」
「……姫はどうなさるのか?」
桔梗はそれには答えず、なにかを諦めたような微笑を浮かべた。
「彼は、わたくしに送られたいとは思わないでしょうから……それでも、きちんと送って差し上げたいのです」
では、失礼いたします。そう呟いて、桔梗は退室した。部屋の外には、それぞれの武器を携えた絃月と瑞陽の姿があった。
「絃月、瑞陽……わたくしの決断に付き合ってくださいますか?」
「もちろんです」
「必ずお護りいたします」
絃月と瑞陽、それぞれの答えに、桔梗はあるかなきかの笑みを口の端に浮かべた。
「では、参りましょう」
三人の子供の姿が夜の闇に消えた。
***
桔梗の透視の術で、巨門童子の居場所を特定する。その結果、艮の方角、約一里の距離にいることがわかった。徒歩で片道半刻ほどだ。
「体力を無駄に消耗する必要もありません。走らず歩いて行きましょう」
絃月と瑞陽に暗視と身体強化、体力強化の術をかけた桔梗は、自身にも同じ術を行使し、一里の距離を楽に踏破した。
王都の郊外。朽ちかけた荒屋に、彼はいた。
両手で霊刀『名残月』を抱きしめるようにして、彼は座っていた。刀に触れている部分の身体は、黒ずんで今にも朽ちようとしている。それでも彼は『名残月』を離さない。
「お父様」
静かに呼びかけると、巨門童子が反応した。
『……やめろ。貴様、僕を送りに来たのか?』
しかし、桔梗は静かに首を横に振った。
「いいえ、送りに来たのではありません。お父様はわたくしなどには送られたくないようですので」
『やめろ』
だが、桔梗は止まらなかった。
「わたくしは見届けに参ったのです。お父様の娘の一人として、お父様の最期を」
巨門童子──かつて蒼だった者は絶叫した。
『やめろ! 貴様が僕を父と呼ぶな──!』
明確な拒絶を受けて、ようやく桔梗は口を噤んだ。だが、己の覚悟を伝えたことは後悔していない。
大きく跳躍して桔梗に襲いかかる巨門童子を、瑞陽の弓矢が狙う。
「隙だらけですよ」
だが、巨門童子はすべての矢を右手だけで払い除けた。黒ずんだ右手が砕け散る。
一歩さがった桔梗に、絃月が彼女の前に出た。
「姫には指一本触れさせない」
鞘ごと振り下ろされた『名残月』を、絃月の刀が受け止める。その衝撃だけで、巨門童子の左手が砕け散った。
『名残月』が音を立てて地面に転がり落ちる。桔梗の視線がそれを追ったが、位置を確認するだけで、再び巨門童子へと視線を戻した。
人の形をしていながらも、両手を失った鬼が涙を流しながら咆哮する。それは、なんとも哀しい光景だった。
『許せない……! 貴様の存在が! この世界の在り様が! 愛する妻を奪い、娘を縛る、貴様と世界が憎い!』
桔梗にはわかっていた。父の憎しみも否定も、全部。それでも、受け止めると決めた。
──鬼とはなにか
その問いに、父はきっと答えを出してしまったのだ。今の在り様を正しいと言い張る世界こそが、鬼ではないのか、と。
本音を言えば、まっすぐに愛されて可愛がられる桜と橘が羨ましかった。自分もあんな風に愛してもらえたら。心のどこかで、そう願っていた。
結局、愛される日は来なかった。その代わり、底なしの憎しみを向けられている。これはこれで悪くはなかった。
愛の反対は無関心で、憎しみは、きっと愛の裏返しだから。
桔梗の胸は哀しみで張り裂けそうだった。それでも、終わりにしなければならない。
霊刀『名残月』を抱いていたせいで、巨門童子の身体には袈裟がけに大きな黒ずみがある。そこが狙い目だった。
『貴様が憎い──!』
再び跳躍して肉薄してくる巨門童子を、どこか冷めた目で見つめる。胸の奥が痛んだが、それでも呼吸は乱れなかった。
桔梗は静かに告げた。
「よく狙いなさい、絃月」
「はっ!」
絃月は桔梗の意図を正しく理解していた。絃月の手にした刃が、巨門童子の身体に残された黒ずみをなぞるように斬る。
世界が一瞬、静寂に包まれた。
2026/02/09
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