失われたものの名
紗椰は、桜に最初から葬送剣舞を教えようとはしなかった。それは、幼子に鬼と戦えと言うくらい無茶なことだと理解していたからである。
『まずは扇子の開き方と閉じ方から教える』
最初は、ただ扇子を開いて閉じるだけ。それすらできるようになるまで、桜は何度も指を攣らせた。
『指の先まで神経を使って揃えろ。扇子の動きは繰り返し練習するように』
それから椿に頼んで、桜に木刀を買い与えた。
『重さや形に慣れるように』
そう指導された。桜が木刀を持つようになったのを橘が羨ましがったため、橘にも木刀が買い与えられた。こちらは分家の剣術の指南役がつくようだ。
その指南役は一人の少年を連れてきた。桜や橘より少し年長の六歳の少年は、名を絃月といった。
絃月には天性の剣の才があった。橘の剣の相手をよく務め、ときには兄のように振る舞うこともあったが、基本的には従者として接していた。
扇子を開いたり閉じたり、使い方の稽古をしていた桜は、ふと視線を感じて顔をあげた。絃月と目が合った。
そのままプイッと逸らされてしまったが、彼の視線はたびたび桜に向けられていた。
『どうした? 桜。集中していないな』
紗椰の問いに、桜は唇を尖らせた。
「だって、いつきが……」
『絃月? あぁ、近衛家の子供か。まぁ、そなたのことが気になるのだろう。仕方のないことだ』
「どうして?」
『絃月の本来の主は、そなただからな』
正確には、絃月は桜の中に眠る『桔梗姫』の従者なのだが、そこまで言う必要もなかった。
「そうなの?」
『あぁ。わかったら気にせず稽古を続けるがいい』
「はーい」
足の運び方、重心移動のさせ方。幼いながらも桜のそれは大人顔負けに頭抜けており、紗椰は内心で舌を巻いていた。これは将来化ける。紗椰の指導にはますます熱が入った。
──そして、二年後
五歳になった桜と橘はますますやんちゃ盛りだった。
「まちなさい、たちばな!」
「またない! くやしかったらこっちまでこいよ、さくら」
お姉さん根性を発揮して弟を追いかけ回す桜と、すっかり生意気になった橘は、相変わらず庭を駆け回っていた。
「こらこら、あんまり走り回ると転ぶよ」
穏やかに笑う父・蒼の声がする。その瞬間、橘が派手に転んだ。
「うわーん!」
「たちばな、だいじょうぶ!?」
桜は走り寄って泣き出した弟を助け起こした。血は少し出ているが、幸い掠り傷のようだ。
「傷を見せてごらん」
父は橘の膝を覗き込むと、痛み止めと止血の術を使った。橘の怪我から出血が止まり、痛みが消える。橘の涙が引っ込んだ。
「……いたくない」
「それは良かった。本来は刀傷とか大きな怪我に使うものだから、皆には内緒にしてくれよ?」
「うん」
すっかり泣き止んだ橘に、桜は目を輝かせた。
「すごい、とうさま。わたしもそれできる?」
「ぼくもつかってみたい!」
子供二人に詰め寄られて、蒼は苦笑して頬を掻いた。
「桜と橘もたくさん勉強したら使えるようになるよ。僕が保証する」
「ほんとう? ぼく、べんきょうする!」
「わたしも!」
目をキラキラさせて、キャッキャと喜んでいる子供たちを、蒼はにっこりと笑うと二人まとめて抱きしめた。
「勉強はいつでもできるよ。それこそ大人になってからでもね。でも今は、もう少し遊んでおいで」
「はーい」
「わかった」
椿は、そんな夫と子供たちの様子を屋敷の中から微笑ましく見守っていた。
夫が庭から戻ってきた。
「椿、今のうちに休んでおいて。また夜は出かけるのだろう?」
「えぇ、そうね。そうさせてもらうわ。ありがとう、あなた」
「どういたしまして、奥さん」
蒼は椿に歩み寄り、そのこめかみに小さな口づけを落とした。
最近の椿はなにかと忙しい。巫女姫代理として剣舞を舞うのはいいとしても、鬼騒動にまで駆り出されている。
そう、葬送剣舞を続けているにも関わらず、鬼が出るのだ。
理由は、簡単に言えば霊力の違いである。
本来の巫女姫である桔梗の霊力は王都を丸ごと覆ってなお余りあるほど。
ところが代理の巫女姫では、どれだけ霊力が強くとも、せいぜい都の七分の一程度。日替わりで場所を変えながら、一週間かけてようやく王都ひとつをまかなえる。
それでも取りこぼしは発生した。それが鬼騒動という形になって現れるのだ。
当代の巫女姫代理である椿の霊力は、それよりも更に少なかった。そのため、夜毎鬼の出た場所へ呼び出されては、葬送剣舞を舞うという事態が繰り返されていた。
「僕では君の代わりはしてあげられないからね」
蒼では愛する妻を守れない。その思いが日毎に無力感となって募った。
「……そうね。もし代理がいたらどんなにいいかと思うけど、考えてみたら初代の『桔梗姫』はずっとこの孤独に耐えてきたのよね……可哀想に……」
椿の独白めいた言葉に、蒼は返事できなかった。彼にとって、桔梗姫は愛する妻に重い役目を背負わせ、大切な娘の桜を縛る存在でしかない。
(邪魔だな……)
桔梗姫という存在が、蒼は疎ましくて仕方がなかった。
*
悲劇は桜と橘が七歳の年に起きた。
ある日の夜。寝る準備をしようと、祖母の花椰と双子が布団を敷いていたときだった。
「……どうしたんだ? 桜」
突然、あらぬ方向を向いて桜が動きを止めた。その顔からは完全に表情が抜け落ち、まるで桜が空っぽになってしまったかのようで、橘は背筋がゾワリとした。
「……椿に危険が迫っています」
ポツリとその唇から漏れたのは桜の声であって、そうではなかった。
「お前……誰だ……?」
すぐにわかった。桜ではない、別の誰か。恐れと戸惑いが橘の胸を塗り潰していく。
「貴女は桔梗姫ですね。今、あの子がどこにいるか、わかりますか?」
祖母の花椰だけが冷静だった。桜の白い指が、ある方向を示した。
「ここから坤の方角……約半里の距離に」
常はおっとりしている花椰だったが、すぐに厳しい表情で頷いた。
「わかりました、ありがとうございます。すぐに応援を向かわせましょう」
しかし、桜は大きく目を見開くと、その小さな身体が震えだした。
「……駄目、間に合わない……お母様……!」
そう言うなり、桜は障子戸を開け放ち、裸足で外へ飛び出した。止める間もない出来事だった。
花椰はすぐさま夫の藤と娘婿の蒼に事態を告げ、対策を講じてもらったが、蒼は家を飛び出してしまった。分家にも知らせがいったので、すぐに見つかるはずだった。
しかし──。
「……ごめんなさい……これしか取り戻せませんでした……」
半刻後、一人で戻ってきた桜は、その手に霊刀『名残月』を持っていた。その半身はべっとりと自身の血で濡れていた。
「そんな……椿さんが……!?」
娘が永遠に失われたと知ったあまりの衝撃に、花椰が倒れ、藤が慌てて介抱する。そこへ桜のあとを追って蒼が戻ってきた。その顔は喪失の痛みを抱え、青いを通り越して蝋のように白かった。
蒼は桜を見るなり『名残月』を奪い取り、激昂して掴みかかった。
「桜を……僕と椿の娘を返してください!」
蒼の手が震えていた。
それでも桜──否、彼女の中の桔梗は、静かに蒼を見つめ返した。
「言われずとも……もう、あの子に返すつもりでした……」
「蒼、辞めなさい!」
藤が怒鳴った一拍ののち、桜の顔に人間らしい表情が戻ってきた。
「あ……あれ? 父様? なんで……?」
「桜! 怪我はないかい? この血はどうしたんだ?」
「わからない……でも、痛くないよ」
よく見れば、裸足で飛び出したはずなのに、桜の足には掠り傷ひとつなかった。
「おそらく、桔梗姫が治癒の術で治されたのだ。近衛家と遠矢家からは鬼退治完了の報せが届いた。急ぎ、緋守家から代理の巫女姫を立ててもらわねば……」
感情の整理より役目を優先しようとする藤に、蒼は初めて食ってかかった。
「しかし……! この『名残月』は椿の形見なのですよ!?」
代理の巫女姫を立てれば『名残月』はその巫女姫の所有となる。それでも、藤は毅然とした態度を崩さなかった。
「椿の形見である以前に、護国の霊刀だ。ここで私情を挟むわけにはいかぬ」
藤はぐっと拳を強く握り込んだ。血が滲んで、滴り落ちる。娘を失った父親が平静であるわけがなかった。それを理解して、蒼はようやく口を閉ざす。
「……失礼、しました」
「よい……今宵は、少々疲れた……」
そう答えた藤の目に、初めて涙が見えた。
*
桜と橘が母・椿の死を知らされたのは、翌日の朝のことだった。
「え……? 嘘……」
「なんで、母様が……?」
告げたのは祖父の藤だった。もともと身体の弱かった花椰は寝込んでしまい、蒼は離れの研究室にこもりきりだったからだ。
「もう……会えないの……?」
「……そうだ」
藤の返答は短い。それが余計に、話に真実味を持たせていた。
「嘘だよね、お祖父様……?」
「お願い、違うって言ってよ……」
二人で藤に迫ったが、返ってきたのは無言の涙だった。珍しい祖父の涙。それで否応なく思い知らされる。これが事実であると。
「うわぁ──!」
「嫌だぁ──!」
声も枯れよとばかりに泣き叫んで、どうしても現実を受け入れられずに暴れ回る。そんな双子を、藤はただ無言で両腕に抱きしめていた。双子が泣きつかれて眠りに落ちるまで。
亡骸のない、形だけの椿の通夜と葬儀が終わり、ようやく藤は肩から力を抜いた。この数日、どれほど気を張ってきたのか、思い知らされるようだった。
双子は祖母の花椰から離れようとせず、今も彼女の傍で眠っていることだろう。しかし、こんなときに父親である蒼はいったいなにをしているのか。
離れに様子を見に行けば、取りつく島もなく追い払われる。仕方なく食事だけ届けに行けば、食べてはいる様子。
藤は胸にこびりついた嫌な予感が拭えなかった。
双子の父である蒼が離れから出てきたのは、椿の四十九日が明けた日だった。頬はげっそりとこけて、目だけが爛々と輝いている。
桜と橘は久しぶりに会う父を目にして、思わず後退った。彼はそれくらい異様な雰囲気を放ち、その双眸は狂気に彩られていた。
そして、蒼は真神家から姿を消した。誰にも気づかれることなく、ひっそりと。
***
母の死の前日以来、橘はたびたび姉・桜の様子が変わるところを目撃するようになった。
「……花椰……お祖母様……具合はいかがですか?」
祖母の花椰を見舞うとき、それは顕著だった。気休めに、と言いながら高度な病平癒の術を使ってみせたことからも、彼女が桜でないことは明らかだった。
「桔梗姫……お気遣い痛み入ります」
「どうか、桔梗、と呼んでください……貴女は……いえ、貴女がたは、わたくしの尊属なのですから」
花椰はわずかに目を瞬いたが、すぐに優しく微笑んだ。
「……では、桔梗さんと呼びましょうね」
「!」
花椰は子でも孫でも『さん』づけで呼ぶ。これは彼女が桔梗という存在を受け入れてくれた証だった。桔梗の胸がほんのりと温もりを帯びた。
「蒼さんは、どうしていますか?」
「お父様は……彼は、離れにこもったきりです。離れの気がどんどん不安定になっています。このままでは、よからぬことが起きるでしょう」
悲しげに目を伏せた彼女に、花椰は憂いの眼差しを向けた。黙っていられなかったのは橘だった。
「なんだよ、それ……さっきから黙って聞いてれば、桜でもないくせに俺たち家族のことを語りやがって……おまけに父様まで貶める気か!?」
「橘さん、おやめなさい。この方は……」
とっさに守ろうとする花椰を制して、彼女は静かに口を開いた。
「……確かに、わたくしは桜ではありません。それでも、間違いなく真神の血を引く娘であり、その血を途絶えさせてはならない理由でもあります。他にも言いたいことがあるなら、どうぞ」
「桜を……俺の姉を返せよ。姫なんかじゃなくてさ」
橘の要求は短かった。それだけに、桔梗の胸に抜けない棘のように深く刺さった。
「……わかりました。交代します」
彼女の瞳から静謐さが抜け、代わりにいつもの桜が戻ってくる。その事実に橘は安堵した。
後日、再会した父の蒼は、確かに彼女の言う通りよからぬ者と化していて、父の変貌そのものにも圧倒されたが、なによりも彼女の言葉がまるで自分たち家族を壊していくようで怖かった。
彼女は事実を口にしただけで、橘たちの家族の崩壊を予言したわけでもなんでもない。それがわかっていてなお、彼女は橘にとって恐ろしい存在であることに変わりはなかった。
2026/02/08
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