世界が変わった、そのあとで
なにも互いを隔てるものがなくなった地下牢で、桔梗は破軍童子と向き合っていた。
『刀を寄越せ』
「でも、これは……」
桔梗はためらった。この刀は霊刀だ。鬼が触れれば、その身体を灼く。
『心配なのか?』
「……それは、もちろん」
その返答に、破軍童子は口端を吊りあげた。
『ならば、護身用の短刀を寄越せ。常に身につけているだろう?』
「……覚えていたのね」
『誰がそう習慣づけたと思っている』
桔梗は小さくため息をついた。破軍童子の言う通りだったからだ。初代の桔梗は、兄の葵に言われて護身用の短刀を持ち歩くようになった。その習慣は、今でもまだ続いている。
帯に挟んだ小さな短刀を破軍童子に渡す。どうするのかと見ていたら、彼は短刀を抜き、左の手のひらを躊躇なく切り裂いた。
「!」
そして次に、破軍童子は桔梗の右手を取り、その手のひらに刃を押しつけた。
『少しだけ我慢しろ』
スッと短刀が音もなく動き、桔梗の手のひらに小さな傷をつける。小さくとも傷は傷だ。見る間に血が滲み、小さく盛り上がって溢れ出した。
桔梗のその右手の傷に、破軍童子は己の血まみれの左手を重ねて指を絡めた。
互いの血が混ざり、それに伴って霊力も混じり合う。破軍童子の、すべてを飲み込み浚っていくような激烈な霊力に晒された桔梗は、思わずふらついた。その身体を、破軍童子の右手が支える。
『これで、そなたは我が霊力を扱う資格を得た。さて、まずはなにがしたいのだったか』
破軍童子の問いに、桔梗はクラクラしながら答えた。支えがなければ、とても立ってはいられなかった。
「……巫女姫が犠牲になる理を……壊すこと」
『ならば目を閉じて、私にすべての感覚を委ねるがいい。視えてくるはずだ。世界を縛る、理の鎖が』
言われた通り、目を閉じて意識を集中すれば、やがて桔梗の瞼の裏に、青い大きな球体が現れた。その球体には、鎖が幾重にも巻かれている。
「……視えたわ」
『その鎖の中に、巫女姫が犠牲になる理の鎖もある。そこだけに範囲を絞って、我が霊力を注ぎ込め』
そう言われても、鎖に名前が書いてあるわけでもないのに、どうやってこの中から特定の理を探し出すというのか。
「触れても、大丈夫なの?」
『あぁ。恐れるな。理に呑まれるぞ』
おずおずと心象風景の中で手を伸ばす。鎖に触れると、チャリ、という金属音がした。
意識をさらに集中すれば、それがなんの理か感じ取ることができた。
(これは……人が、鬼へ堕ちる理……)
これを壊せば、人は鬼にはならなくなる。だが、その代償になにを失うかがわからない。安易には触れられないものだった。
次の鎖に触れた。
(これは……鬼が、人に討たれる理……)
鬼が人を襲い、喰らう存在である以上、この理は残すべきだった。
次の鎖に手を伸ばした。
(あった……! 巫女姫が犠牲になる理……)
ためらいは一瞬。それでも、桔梗はその理の鎖に、破軍童子の霊力を流し込んだ。鎖が砕け、理が消滅する。
「今、目的の理を壊したわ」
『では、次だ。途切れた鎖と鎖をつなぐように、心に思い描け。そこに新たな理を構築しろ』
桔梗が欲しいのは、巫女姫がいなくとも平和な世界が成立する理だ。巫女姫の葬送剣舞を必要としない、魂魄が正常に輪廻に巡り、地に還る仕組みを持つ世界。
(私は……この世界に、変革を望む……)
強く、強く心に思い描いた。願うたびに、桔梗の巫女姫としての存在がだんだんと薄れていく。まるで、身体の輪郭が霧に溶けていくように。
途切れた鎖はいつの間にか、新たな鎖でつながっていた。
手で触れて、理を確認する。
(……問題はないみたいね……)
ほぅ、と桔梗は安堵の息を吐く。目を開けて、破軍童子を見上げた。
「望みは、叶った。私はもう、巫女姫ではなくなったわ」
『……そうか。ならば、次は私の望みが叶う番だ』
手のつながりを解き、破軍童子は両手で桔梗を抱きしめた。
『ようやく……そなたをこの手に取り戻した』
腕の中の妹の温もりと重みが、破軍童子の人であった頃の感情を強く揺さぶった。
この瞬間のためだけに、彼はその身を鬼へと堕として、永き時を過ごしてきたのだ。
『本当に、永かった……』
破軍童子の声が震える。桔梗はようやく悟った。彼もまた、孤独な生に耐えてきた存在なのだと。桔梗と破軍童子はまるで光と影、表と裏、鏡写しのようにそっくりで、でも同一ではない存在なのだった。
『桔梗……教えてくれ。そなたは何故、我が手を取ることを選んだのだ? 巫女姫でなくなった、そなたの本音が知りたい』
その言葉に、桔梗は彼の腕の中で身じろぎした。そっと両腕を持ち上げ、彼の背に触れる。桔梗の左手から、『名残月』が滑り落ち、乾いた音を立てて床に転がった。
「貴方を倒せば、私は世界を守れるかもしれない。でも……貴方とともに理を壊せば──世界は変わる」
『──!』
破軍童子はようやく悟った。巫女姫と鬼。立場は違えど、二人はずっと同じものを見ていたのだということを。
「ずっと……定められた役割の中で探していたの。私がいなくても、世界が続いていく方法を。でも、見つからなかった。私はどこまでも、理に縛られた存在だったから」
『桔梗……』
だけど、それを破軍童子が壊してくれた。それで気づいたのだ。破軍童子という、理の外の存在に。
「ありがとう、葵兄様。貴方が、私を解放してくれた。貴方が、世界を救ってくれた。感謝してもしきれないわ」
だからこそ、彼をこのままにしておくことはできなかった。
「もうすぐ、橘──真神家当主が来る。絃月と瑞陽を連れて。彼らは貴方を倒そうとするでしょう」
『……そうだな』
もっとも、彼らにやられるほど破軍童子は弱くないが、問題は彼らが桔梗の大切なものたちだということだった。破軍童子に、彼らを傷つけることはできない。彼の大切な妹が悲しむから。
「私は……このまま葵兄様に消えてほしくない」
『……!』
鬼を放置することはできない。だが、消すこともできない。桔梗が出した答えはひとつだった。
「私とともに、眠りませんか? 葵兄様。二人で永遠の眠りにつきましょう」
破軍童子は、最初こそ驚いた顔をして一瞬沈黙したものの、やがて穏やかに微笑んだ。
『……そなたと一緒なら、それもいい』
桔梗は再び、破軍童子の左手のひらに、己の右手のひらを重ねて指を絡めた。傷はまだ塞がっていない。おそらくこれで充分だろう。
二人の霊力が共有され、再び青い大きな球体と理の鎖が心象風景として現れた。
桔梗はそこに、新たな理を足す。
『破軍童子と最後の巫女姫・桔梗は、ともに異界で安息の眠りにつく』
そんな理が、新たな鎖として加わった。
「これで、よかったのよ……」
『……そうだな』
破軍童子と桔梗の姿は、今や光に包まれ、その輪郭を曖昧にしていく。
「眠りましょう、葵兄様」
『桔梗、そなたとなら永遠に』
抱きしめ合ったまま、二人は空気に溶けるようにして、この世界での形を失った。
二人の気配は、理の深奥へと静かに沈んでいった。
*
橘は錆びついた『名残月』を手に、謁見の間へ向かった。天景が彼らを待っていた。
「……戻ったか。で、どうであった?」
天景の問いに、橘は跪くと、錆びついた『名残月』を彼に差し出した。
「……破軍童子は消滅しました。最後の巫女姫・桔梗とともに」
「──! どういうことだ?」
驚愕する天景に、橘は感情を排した声で淡々と告げた。
「巫女姫と『名残月』は、その役目を終えました。すべての魂魄は、もう葬送剣舞を必要としない……そういうことです」
「なんと……!」
天景は震える手で『名残月』を受け取ると、鞘から抜いて刀身を検めた。見る影もないほどに、錆びついてしまっている。
「……これが、役目を終えたということか」
「はい」
静かな橘の声に、天景は瞑目して、それから橘を見た。
「双子の姉を失ったそなたの心痛、察するに余りある」
「畏れ入ります」
もはや橘はなにも見ていなかった。天景も『名残月』も。喪失の痛みが強すぎて、なにも感じられなくなりそうだった。
「……そなたたちは、これからどうするのだ?」
天景の問いに、橘はしばらく考え込むかのように沈黙した。だが、やがてゆっくりと口を開いた。
「魂魄が正常に巡り、地に還ることになっても、鬼に堕ちる人がいなくなるわけではありません。我々の役目はその形を変え、緩やかに続いていくことになるでしょう」
「……そうか」
それなら安心だ、とは口が裂けても言えなかった。天景は己の浅ましさに密かにため息をつく。今後も王であり続けるのなら、もっと広く器を持つ必要がありそうだ、と天景は思った。
「さがってよい。ご苦労であった」
橘、絃月、瑞陽の三人は黙して謁見の間を退室した。
*
真神家への帰り道、橘は絃月と瑞陽に尋ねた。
「二人は今後、どうするつもりだ?」
まず絃月が口を開いた。
「俺は……いずれは実家に帰って後進の育成をしようかと」
「僕も、いずれは実家に帰るよ。妹の楓にはずいぶんと寂しい思いをさせてしまったから」
瑞陽も自分の考えを告げた。
「お前たち……揃いも揃って『いずれ』とはどういうことだ?」
橘は頭の痛そうな顔をして呆れた。だが、絃月は大真面目に言った。
「大事な双子の姉を亡くしたお前を、一人にはさせられない」
「そうそう。しばらくは僕らが賑やかしでいるからさ、橘もどーんと構えていていいよ」
悲しみに暮れる暇なんて、与えないから。瑞陽が笑ってそう告げる。
今は、二人の気遣いが、ただありがたかった。
「なら、こっちも遠慮なくこき使ってやる。ただ飯食らいは必要ないからな」
それでも橘は口に出しては別のことを言った。
「……いいだろう。力仕事なら引き受ける」
「料理ならお任せあれ。橘も今どきの男なら料理はできたほうがいいんじゃない?」
絃月と瑞陽の言葉に、橘は思わず目を瞬いて、それから独りごちた。
「料理か……それもいいかもしれんな」
素直にそう思えたことが不思議だった。悲しみは確かにそこにあるのに、今は薄い膜を一枚隔てているかのようだった。
「絃月、瑞陽……ありがとう」
「お互い様だ」
「そうそう」
肩を並べて、三人は帰途についた。
***
十五年後。
「父様!」
息子に呼ばれた橘は、手にしていた包丁を置いて振り返った。
「蓮、どうした?」
八歳になる彼の息子は、父が包丁を置いているのを確認してから、父に駆け寄った。以前、それでひどく叱られた経験があるからだ。
「今日は王城に連れて行ってくれる約束でしょ。巫女姫記念館、見られるかな?」
「あぁ、きっと見られるだろう。もう少しで食事の時間だから、大人しく待っていてくれ」
「はーい」
蓮は聞き分けよく居間に戻っていく。その子供らしい後ろ姿を見送って、橘は口元に苦笑を滲ませた。
(俺があの歳くらいの頃とは、大違いだな……)
瑞陽に仕込まれた料理の腕前は、今とても役に立っている。人生、なにが役立つかなんてわからないものだ。
あのあと、絃月は宣言通り、実家に戻って後進を鍛えているらしい。将来的には近衛家を継ぐ可能性も出てきているとのことで、なんだかんだ付き合いは長くなりそうだった。
瑞陽も実家に戻り、少し前に遠矢家当主を継いでいた。そして──。
「橘、大丈夫? ……って、凄くいい匂い」
台所に顔を出した妻に、橘は笑みを向けた。
「楓、座って待ってていいんだぞ?」
「えぇ。でも、旦那様が腕を振るっているとこ、見たいから」
妻は、幼い娘・梓を腕に抱えている。三歳になったばかりの娘は、まだまだ甘えん坊だった。
「そいつは光栄だ」
「ふふ……お兄様仕込みの腕前は健在ね」
そう、妻の楓は瑞陽の妹だった。少し控えめすぎるのが玉に瑕だったが、おっとりした気性のよき妻でよき母だった。
「今日は巫女姫記念館に行くんですって?」
「あぁ、蓮のヤツがうるさくてな。梓も連れて、一緒に行くか?」
「そうね、私も行きたいわ。お義姉様の話を聞いて、ずっと行ってみたかったの」
「……そうか」
その言葉の奥に、もう痛みはなかった。ただ、静かな重さが残っているだけだった。
食事が済んで、後片付けをしていたら、蓮と梓が準備万端で橘と楓を待っていた。
「さぁ、行くか」
「はーい」
城の城門をくぐってすぐの場所にある、巫女姫記念館には、かつて霊刀と呼ばれていた『名残月』の錆びた刀身が展示されていた。
「これって昔はピカピカだったんでしょ?」
「あぁ、そうだ。お前たちの伯母様はこれを手に舞っていたんだ」
「へぇ……格好いいなぁ!」
公休日だからか、記念館には人の姿が多かった。皆、物珍しげに『名残月』や展示されている巫女姫の装束、残された資料などを眺めていた。
「ねぇねぇ、昔って巫女姫が必要だったらしいね」
「そうだよ。ありがたいお方だったんだ」
誰かの無邪気な声と、それに答える声がした。
(確かに、かつて巫女姫はこの世界には必要不可欠な存在だった……)
でも、橘は思うのだ。
(巫女姫を必要としない、今の世界こそが、彼女の望んだ世界なのだろう……)
巫女姫は葬送剣舞とともに、永遠の眠りについた。その眠りが、どうか安らかであるように、橘は祈った。
世界は今日も、何事もなかったかのように続いている。
終
2026/02/25
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