選択の果て
あの夜以来、絃月の兄・楠が姿を消した。近衛家に帰ってもいないらしく、生死さえ定かではなかった。
いくら絃月が兄や家族に興味関心がないとはいえ、明らかにおかしいという違和感は自覚していた。
「桜様」
「どうしたの? 絃月。改まって」
不思議そうに小首をかしげた桜に、絃月はやや言いにくそうに告げた。
「その……実は兄がいなくなったらしく……桔梗姫にお捜しいただけないか、頼みたいのです」
「……すぐに捜しましょう」
桜はすでに桔梗と交代していた。絃月の血をわずかに染み込ませた懐紙を受け取って、桔梗は一度大きく深呼吸をすると、意識を集中して透視の術を行使した。
ややあって、桔梗の表情が歪む。
「絃月……貴方のお兄様は武曲童子と化したようです」
「……! 兄はどこへ……?」
桔梗は小さくため息をついた。
「捜す必要はありません。今、こちらへ向かっています」
「!?」
橘と瑞陽が驚きをあらわにする。桔梗はすぐに橘に指示を出した。
「橘、貴方は庭から一番遠い台所にこもって防護結界を張っていてください。そちらに通すつもりはありませんが、念のためです」
「わかった。しかし何故、庭の位置が大事なんだ?」
橘のために、桔梗は簡単に説明した。
「武曲童子は文字通り武や力……つまり戦うことを好みます。武曲童子が絃月のお兄様である以上、狙いは十中八九、絃月と戦うことです」
「……なるほどな。うちの庭で足りるのか?」
橘のどこかズレた懸念に、桔梗が頷いた。
「戦いが始まる前に、防護結界を内向きに張りましょう。破られなければ、庭は無傷なはずです」
「……わかった。武運を祈る」
橘がその場を離れた直後のことだった。
『……相変わらず、この家にいるのだな。絃月』
静かな声が響いた。その声には、かつて楠が持っていた苛立ちも迷いもなく、ただ研ぎ澄まされた闘争心だけが残っていた。
絃月は声のしたほうを振り向いた。
「兄上……」
絃月の兄だったものが、そこにいた。
『それほどまでに、真神家の双子が大事か?』
「そうですね。片方は主君ですし」
『ほう……?』
武曲童子は、見定めるように桔梗を見た。桔梗もまた、怯むことなく武曲童子を見返した。
『ふむ……覚悟もなく守られようとする輩や、責任を負わずして後ろに立つような輩であれば、引き裂いてくれようかと思っていたが……なかなかどうして、見どころのある娘ではないか』
「……お誉めにあずかりまして」
桔梗は小さく肩を竦めた。
「よければ、当家への訪問理由を教えていただけますか?」
『ここへ来たのは他でもない』
武曲童子は静かに目的を告げた。
『絃月、俺と剣だけで勝負しろ』
桔梗の予想は当たっていた。それなら、絃月に否やはなかった。
「……わかりました」
それから絃月はチラリと相棒を見た。
「瑞陽、手を出すなよ」
「……わかってる」
瑞陽は渋々頷いた。自分のときも、絃月はただ見届けてくれた。ならば、今回は瑞陽が見届ける番だろう。
だが、このやりとりは武曲童子の神経を逆撫でしたようだった。
『余裕のつもりか……? それとも、同情か?』
「そのどちらでもありません」
絃月の言葉は相変わらず淡々としていた。
「あの……ひとつ提案をよろしいですか?」
桔梗がおそるおそる声をあげた。ひどく場違いなことを言おうとしている自覚はある。
『なんだ?』
「思い出の残る大切な庭を傷つけられたくはありません。戦いを始める前に、お二人を閉じ込める内向きの防護結界を張らせてください。もちろん、勝負の邪魔はいたしません」
武曲童子はしばし考える素振りを見せた。
『ふむ……それが俺の力を減衰させぬ証拠は?』
沈黙は一瞬。桔梗は静かに微笑んだ。
「……そうですね。わたくしの命を賭した誓約ならば、多少は信頼に値しますか?」
『!』
武曲童子の目が軽く見開かれる。だが、それだけだった。
「姫」
絃月が咎めるように、桔梗を呼ぶ。だが、桔梗は静かに首を横に振った。
『……いいだろう、認めてやる』
「では、失礼します」
桔梗は庭全体を覆うほどの内向きの防護結界の中に、武曲童子と絃月を閉じ込めた。強い信頼と、ほんの少しの不安を押し隠して。
結界の中は、風のひと筋も通わぬのかと錯覚するほどに、無音だった。
絃月は刀『月詠』をスラリと抜き放ち、身体の前に構える。武曲童子も自分の刀を構えた。
二人同時に地を蹴った。次の瞬間には、結界の中央で、刀と刀が交差していた。
(この勝負、長引けば絃月が不利……)
桔梗はそう感じていた。そもそも武曲童子は鬼になった時点で、身体能力全般、つまり、速さも、膂力も跳ね上がっているはずなのだ。
それを知らない絃月ではない。なにか秘策でもあるのだろうか。
絃月は武曲童子の攻撃を、すべて紙一重で躱している。それは攻撃がまったく当たらないということではなく、服や薄皮一枚の犠牲は当然として、致命傷を避けるための動きだった。
見る間に絃月の衣服はボロボロになり、彼自身の流した血で染まった。息は軽く乱れ、剣を持つ手は半ば痺れている。それでも、絃月は止まらなかった。
武曲童子の攻撃を的確に捉え、いなし、相手の力をも利用して自分の攻撃へと転じる。柔の剣だった。
力に溺れた剣は、力を使わない剣にいずれ必ず負ける。
やがて、勝負のときは静かに訪れる。絃月の刀がついに武曲童子を捉えた。武曲童子の胸が袈裟がけに深々と斬り裂かれた。
たまらず地に膝をつき、それでも武曲童子は戦意を失わず、絃月を睨みつけた。その殺気に反応するかのように、絃月の刀は綺麗な弧を描いて、武曲童子の首筋へと向かった。
一瞬、武曲童子は時間の流れが緩やかになったように感じた。これが走馬灯というヤツだろうか。
脳裏に甦るのは、いつか見た幼き兄弟の姿。兄は弟を守り、弟は兄を頼りにしていた。心から。
(あぁ、そうか……俺は、ああいう兄になりたかったのだな……)
弟と肩を並べて笑い合いたかった。ただ、それだけだったのに。
(俺が間違えたのは……人生の選択肢か……)
こと、ここに至って、ようやく武曲童子は悟った。今や絃月の刀は目の前に迫っている。
武曲童子は、逃げなかった。最後に一瞬だけ、『月詠』ではなく、弟である絃月そのものを見て──首へのひと太刀を、静かに受け入れた。
*
立っていた絃月が、グラリと傾いだのを見て、桔梗は慌てて結界を解除する。すぐに瑞陽と二人で絃月の傍に駆け寄った。
「絃月!」
絃月は崩れ落ちるように地面に腰をおろすと、一拍だけ呼吸を整えて、それから口を開いた。
「少し……血を流しすぎた」
「絃月、気をしっかり持ってください。今、治癒の術をかけますから……」
桔梗の治癒の術が、絃月の全身を駆け巡り、細かな傷まで治していく。だが、さすがに流れ出た血液までを取り戻すことは不可能だ。
「これでよし、と……あとは頭を低くして、絃月を寝かせないといけません」
「そのへんはお任せください、桔梗姫。まったく……君ってヤツは、無茶するよね、絃月」
台詞の前半を桔梗に、後半を絃月に向けて、瑞陽は苦笑した。
瑞陽が絃月を動かそうとしている間に、桔梗は屋敷の中に駆け込んで、橘を呼び、庭に面した座敷に布団を敷いた。桶に湯を張り、着替えと清拭用の手拭いも準備する。
それからようやく葬送剣舞である。
「瑞陽、障子戸は閉めないでくれ」
「……? でも、体温さがって寒いだろ?」
「桔梗姫の葬送剣舞が見えない」
「……それは困るね」
絃月と瑞陽がそんなやりとりをしている間に、桔梗は死者への哀悼を手向けて、舞い始めていた。
今回の幻影はいつもと少し違った。夜空に満月がかかっている。
「……今夜は、月が見える夜ではなかったはずだけど」
「なら、これが姫の意図した幻影なんだろ」
扇子が揺れるたびに、刀を抜こうとするたびに、雲が現れ、月を覆ってしまう。それでも月は完全には隠れない。
刀を抜くと突風が吹き荒れ、桜の花びらが風に舞い踊った。刀を振るうたびに、風は強さを増して、花びらを宙へと舞いあげる。
やがて無数の蛍火が現れ、風も、桜の花びらも、どこかへ消え失せた。いつの間にか月と雲も消えている。
桔梗が地面に刀を突き立てた瞬間、蛍火も消え、刀を鞘に納めれば、余韻すらも残さず消えた。
最後に息を吐いた桔梗に、瑞陽が声をかけた。
「珍しい幻影でしたね」
「月に叢雲、花に風……とかくこの世は、ままならぬものですね」
桔梗の言葉に、布団に横たわった絃月はポツリと呟いた。
「……兄からしたら、そうだったかもしれませんね」
おや、と桔梗は思った。絃月が兄弟のことを語るとは珍しい。
「そうなんですか?」
絃月は静かに頷いた。
「はい。私たちが幼い頃、兄はよき兄であろうと努力していました。ですがご存じの通り、私は普通の子供ではなかったもので……彼にしてみれば、『私の兄である』ということは、常に貧乏籤を引かされているようなものだったかもしれません」
珍しく滔々と話す絃月に、桔梗は尋ねた。
「絃月はそう思うのですか?」
「はい。私がもし兄の立場でしたら、私のような弟は御免こうむります」
「……それ、君が言う?」
瑞陽の控え目なツッコミに微笑んで、桔梗は横たわる絃月の頭をそっと撫でた。
「わたくしは、傍にいてくれるのが絃月と瑞陽で嬉しいですよ。それに……こう言ってはなんですが、結局は受け取り方と、その人自身の選択なのでしょう」
「選択、ですか……」
そう、と桔梗は絃月に微笑みかけた。
「わたくしはかつて、貴方たち二人と主従の契りを結び、わたくしの人生に貴方たちを巻き込みました。ですが、ときどき申し訳なく思うことはあっても、後悔はしないと決めています。だから、絃月と瑞陽が傍にいてくれるのは、わたくしにとっては嬉しいことなのですよ……ね、結局は選択の問題でしょう?」
「そう、ですね……」
微妙に納得したような、していないような反応が返ってきた。桔梗は軽く咳払いをした。
「とにかく、わたくしが言いたかったのは、貴方たち二人がわたくしを大切にしてくれているのと同じくらい、わたくしも貴方たちを大切に思っている、ということです」
だから、そう自分を卑下しないでくださいね。桔梗がそう締めくくると、絃月はようやく表情を緩めた。
*
和部家の治癒術士にも診てもらいながら、絃月の体調が戻ったのは三日後のことだった。そのうちの一日は、絃月に無理をさせないよう、橘が命じた休養だ。
真神家から近衛家への通達、遺体のない楠の通夜、葬儀、すべてが終わっており、あとには呆然とした近衛家当主・槐が残されていた。
「父上」
「……絃月か。我々は……なにをどう間違ったんだろうね」
力ない父の言葉に、絃月は思う。間違っていたのは、絃月という歪な存在を、いつまでも近衛家に引き留めておいたことだ。生まれて正体が判明した時点で、真神家にでも押しつければよかったものを。だが、これは絃月の個人的な感傷なので、父には言わない。
「おそらくは、誰もが少しずつ間違えたのでしょうね。その歪みが積み重なって、武曲童子という形で表に出た……」
「でも、それがあの子である必要などなかったというのに……」
代われるものならば、代わってやりたかった。親として当然の願いを、絃月は肯定も否定もしなかった。ただ、事実だけを淡々と口にした。
「……それもまた、きっと兄上の選択だったのでしょう」
「そうか……」
決して同情も慰めもしない。その在り様が、今の槐には不思議とありがたかった。
「なぁ、絃月」
「はい」
「お前にとって、楠はどんな存在だった?」
父の問いに対する絃月の答えは簡潔だった。
「兄上は、兄上です」
「うん、お前ならそう言う気がしていたけど……こういうときでも外さないんだな」
それから絃月は少しだけ考えて、静かに口を開いた。
「私という存在が弟でさえなければ、おそらくはよき兄、よき跡継ぎとして、穏やかな生を送っておられたかもしれません」
「絃月、それは……」
槐は言い淀んで、口を噤んだ。違うと言いたいのに、言葉が出てこなかった。
「違うと思いますか? 私は自分を偽ることも、取り繕うこともしない人間です。それが相手にどういう印象を与えるかなど、とっくにわかったうえで、些事だと放置していました」
絃月の内心など、初めて耳にする。槐はただ呆然と息子の言葉を聞いていた。
「兄上は、私のような弟を持ったわりには……本当によくできた兄だったと思いますよ」
だからこそ、歪んだ。
いっそ嫌いになって、切り捨てればよかったのだ。だが、それができないからこそ、楠は楠だった。
槐は呆れたようにため息をついた。
「お前というヤツは……それを先に言いなさい」
「先に言ったら、いかにも嘘くさいでしょう」
シレッと返してきた息子に、槐は思わず目を丸くした。
「……軽口も叩けるんだな。知らなかった」
楠がこれを知ったら、どう思うだろうか。ムッとして怒るだろうか。それとも、弟を少し見直すだろうか。
答えをくれる人だけが、もうどこにもいなかった。
2026/02/21
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