弱さを捨てた男
近衛絃月は覚えていない。自分が何故、桔梗姫を主君に選び、いつ忠誠を誓ったのか。
それでも、自分の主君が桔梗姫であることだけはわかっていて、何度輪廻転生を繰り返しても、すぐに見つけ出した。確信していた、と言ってもいい。
瑞陽のことも、相棒としての記憶があるだけで、彼といつ出会ったとか、何故二人して桔梗姫の従者になったかなどは、とんと覚えていない。
でも、本人はそれでいいと思っていた。絃月にとって大事なのは、桔梗姫が主君で、瑞陽が相棒であるという事実だけ。それ以外は申し訳ないが些事だった。
「絃月って、兄弟いるの?」
桜からそう尋ねられたのは、いつのことだっただろうか。瑞陽とそれぞれ、たまには里帰りするよう橘から言い渡されたときだろうか。
「四つ上の兄が一人おりますが……いかがしましたか? 桜様」
「だって、瑞陽はときどき妹の話を聞かせてくれるけど、絃月って全然そういう話をしないじゃない。いつも思うけど、絃月は少し合理的すぎるんじゃないかしら?」
「はぁ……」
自覚はある。物凄くある。昔から、というか、最初の生からして、絃月は万事この調子だった。大事なものは二つだけ。それ以外は結構どうでもいい。
(あぁ、でも……)
この生では、他に二つ、大切なものが増えたかもしれない。絃月は目の前の少女をマジマジと見つめた。
「……なに?」
「いえ、大切なものは増えたな、と思っただけです」
「それって私たちのこと?」
「そうです」
答えは端的かつ速い。桜は思わず目を眇めた。
「……絃月って照れないよね」
「別に恥ずかしいことだとは思いませんから」
「もう……からかい甲斐がないなぁ」
「畏れ入ります」
褒めてないからね、と桜は小さくむくれた。
***
二十歳の年も、もう終わりの頃、瑞陽が実家に帰るのに合わせて、絃月も実家に戻った。特別に用はない。会いたい人もいない。ただ、桜と橘が気にするから帰っただけだ。
「絃月、帰ったのか」
「ただいま戻りました」
顔を出したのは、絃月の父で近衛家当主の槐だった。そのどっしりした名前とは裏腹に、気軽にどこへでも出かけていく人だった。だからこそ、橘の幼い頃から剣術の師として、絃月を連れて出かけたりしていたのだが。
「少しは長く居られるのか?」
「日帰りです」
相も変わらずきっぱりした息子に、槐は苦笑した。
「お前なぁ、もう少し……いや、やっぱりいい」
「……?」
不思議そうにしているところを見ると、悪気はないのだろう。槐はもう一度苦笑した。
そこへ、やや不機嫌そうな声がかけられた。
「帰っていたのか……絃月」
「兄上、お久しぶりです」
それは四歳上の絃月の兄・楠だった。昔から、兄は絃月を見ると不機嫌になることが多かった。理由はわからない。知りたいとも思わない。
「……また、すぐ戻るのか」
「はい。夜には」
絃月の声は淡々としていた。それだけに、楠はわずかに苛立つ。言葉を探すように一瞬黙った。
「相変わらず、用がなくても帰ってくるんだな」
「そうですね」
「まだ、あの家にいるのか」
「はい」
坦々と答える絃月は、兄の問いに潜む棘に、まったく気づかない。
父の槐は苦笑するしかなかった。
「相変わらずだな、お前たちは……楠、客間に茶は出ているか?」
「……今、用意します」
去り際、楠はチラリと絃月の腰の刀に目を向けた。それから、フン、と鼻を鳴らして屋敷の奥へと引っ込んだ。
「せっかく久しぶりに帰ってきたのだ。ゆっくりしていくといい」
「ありがとうございます」
絃月は丁寧に父に一礼した。
*
台所へ向かった楠は、茶を淹れるために湯を沸かし、茶葉を量った。それから、気分を落ち着かせるために、水を飲んだ。
(相変わらずだったな……)
脳裏をよぎるのは先ほどまで言葉を交わしていた、弟の絃月のことだった。
絃月が生まれたとき、誰よりも喜んだのは他ならぬ楠だった。小さくて可愛い弟。大切にしようと心からそう思えた。しかし──。
(絃月は、昔から少し変わっていた……)
子供らしい遊びに興味を示さず、それどころか家族にさえも関心を持たなかった。それなのに、剣術にだけは異様なほどにのめり込み、瞬く間に楠を追い越してしまった。
絃月には、天性の剣の才能があった。
(あいつが実は輪廻転生を繰り返していて、今回が七回目の人生らしいと知ったのは、そのあとのことだった……)
誰に教えられたわけでもない。父母の会話を聞いて偶然知ったのだ。両親や他の親族は、絃月が『特別』であることをよく理解していたようだった。
だが当時の楠が、弟を気味が悪いと思うには、充分すぎる理由だった。
楠にとって絃月は、本来なら自分の背中を見るはずの存在だったのに、いつの間にか、越えてはいけない線を軽々と越えた存在になっていた。
弟を嫌悪しながらも、楠は兄としての矜持からか、絃月をよく観察していた。それで、ようやく理解する。絃月には感情がないわけではない。ただ、異常なほどに優先順位が定まってしまっている人間なのだと。
(あいつにとって、優先順位で上位にいる存在以外は皆、そこらのペンペン草となんら変わらない……)
それは家族に対しても例外ではなかったらしく、家族、否、一族全員、仲良くペンペン草扱いだった。それなのに──。
父によると、真神家の双子だけは、例外なのだという。理由は知らない。ただ、悔しかった。
楠が二十歳になった頃、真神家の双子の片割れが巫女姫の持つ霊刀『名残月』を継承したと聞いた。
それと同時に、近衛家へ戻ってきた絃月は、剣のみの実力で当主である父・槐をくだし、本来は近衛家当主のみが継承できる刀『月詠』を継承した。それなのに、絃月は近衛家を継がないという。
あのときほど、楠が弟への嫉妬を自覚したこともない。しばらくなにも考えられなかった。
父に実力を認められ、伝家の宝刀を継承し、それなのに家督の責任だけは兄である自分に押しつけるつもりなのか。それは、逃げだとすら思えた。
だから、楠は強くなろうと思った。絃月などに、近衛家は任せられない。ひたすら強さだけを追い求めた。だが皮肉なことに、強くなればなるほど、絃月との距離は開いていくように感じた。
台所の窓からは、裏通りの様子がよく見えた。近所の子供たちが、よくそこで遊んでいる。
その日は、仲良く遊ぶ兄と弟の姿があった。二人で走り回って、弟のほうが転んだ。
「うわーん! お兄ちゃん、待ってよぅ」
「……ったく、しょうがねーな。ほら、おぶってやるから泣きやめ」
弟を守る兄。兄を頼る弟。
(俺たちはついぞ、ああはなれなかったな……)
気づけば湯は沸いており、楠は感傷を振り払うように頭をひとつ振って、それから茶を淹れた。
***
客間に向かうと、父と弟が談笑していた。実際には笑っているのは父だけで、弟は相変わらず無表情のまま淡々と返しているだけなのだが、不思議と楠にはそう見えた。
楠は槐と絃月に茶を差し出した。ついでに自分の分も用意している。
「楠、ご苦労」
「ありがとうございます、兄上」
しばらく三人で黙って茶を飲んだ。
ややあって、槐が思い出したかのように絃月に尋ねた。
「そういえば絃月、『月詠』の扱いにはもう慣れたか?」
楠の胸が大きくひとつ跳ねた。
「はい。特に問題ありません」
絃月はやはりなんの感情も映さず答える。
「そうか。やはりあの刀は、お前の手に馴染むな」
「そうですね」
それは自分が絶対に入れない話題であり、避けたい内容だったはずなのに。楠は黙り込んだ。
そして、唐突に気づく。絃月は一切、楠を見ていなかった。
(あぁ、そうか……)
こいつは、絃月は、最初から自分と同じ場所には立っていない。楠はそう理解した。
(俺が守らなければならないのは、家だ……)
初めてそう思った。それなのに──。
「絃月、お前はやはり当主になりたいとは思わんのか?」
無邪気ともいえる父の問いが、楠の胸を突き刺した。嫌な音を立てる鼓動の音を聞きながら、楠は弟の反応を待った。半ば以上、答えは予測できている。
「当主になるのは兄上ですから」
「そうか」
その返答は、楠の耳にはいっそ冷たく聞こえた。絃月はこの家に興味がない。それがよくわかった。父が笑う。何故、笑っていられるのか。たった今、大事なものを切り捨てられたというのに。
楠は、その場にいるのが耐えられず、勢いよく立ち上がった。
「どうした? 楠」
「少し……鍛錬に出て参ります」
「そうか。あまり遅くなるなよ」
「はい」
父の言葉に短く頷く。楠は、絃月を誘わない。絃月も、特に気にしなかった。
*
あの日、絃月が近衛家に帰省してから、またしばらくの月日が流れた。
その夜は、真神家当主からの要請で、剣の近衛家と弓の遠矢家の少数精鋭同士が組んでの任務だった。戦闘補助として、術や術具などの研究と開発を引き受ける鎮部家と、治療に長けた和部家も待機している。
近衛家からは、楠を始めとして腕の立つ数名が出ており、楠が現場責任者だった。
対象は、相手が人であれ、同じ鬼であれ、強い捕食衝動を持つ執鬼だ。
「住民の避難を急げ。全員で誘導に当たるぞ」
「はっ!」
「鎮部の術者よ、防護結界の展開を頼む。執鬼を足止めするのだ」
「はい!」
楠の指示が功を奏して、住民の避難は順調に進んでいた。
それなのに、想定外の出来事が起こった。
「楠様! 他に二体の執鬼を確認! まだ避難が完了していない区域です!」
「なっ……複数だと!?」
鬼は群れない、という常識が、この場合は仇となった。
逃げ遅れた人々の悲鳴が夜闇を切り裂いた。
「避難完了した区域の担当者から、応援に行くのだ! 私も前線へ向かう!」
「わかりました!」
住民の退路を守って、楠たちは奮戦した。それでも被害は避けられなかった。逃げ遅れた住民が、結界の外に弾き出された子供が、必死の守りも虚しく犠牲となった。
「くそっ……!」
自分にもっと力があれば、民を守れたのに。
(俺がもっと強ければ、こんなことには……)
楠が強くそう思った瞬間、避難させていた住民がワッと歓声をあげた。
誰かが一撃で執鬼を一体倒したのだ。
(なんだ……誰だ……?)
困惑する楠の耳に、住民たちの声が届いた。
「巫女姫様が来てくださったぞ!」
「これで助かる!」
援護に現れたのは、巫女姫・桔梗とその従者二名である。
(絃月か……!)
楠の弟・絃月は一族の刀『月詠』を振るい、あっさりと残り二体の執鬼を仕留めてしまった。瑞陽の弓による援護射撃があったとはいえ、あれほど苦戦していた自分たちが間抜けに見えるほどの活躍ぶりだった。
「助かった……」
「さすがは巫女姫付きの近衛よ」
人々は口々に絃月を褒め称えた。楠を責める者は誰もいない。だが、楠本人だけが違った。
(……最初から絃月がいれば……)
一瞬、そんな考えが脳裏をよぎった。慌てて打ち消したが、もう手遅れだった。
自分は、犠牲者たちを守ることができなかった。それどころか、絃月の到着がもう少し遅ければ、被害はさらに拡大していたかもしれない。
『弟なら、全員守れた』。たった一瞬でも、そう考えてしまった。
(俺は……近衛家の嫡男としても、現場責任者としても、失格だ……)
楠の身体が大きく一度震えた。自分の力不足のせいで、多くの民を危険に晒すところだった。
だが実は、楠の思考には大いなる矛盾がある。それは、楠自身が誰よりも理解しているはずの事実を、心だけが拒絶しているという矛盾だった。
楠の的確な指示と奮戦がなければ、絃月の到着まで誰も持ちこたえることなどできなかった。それなのに、楠の中で、その事実はなかったことになっていた。
理想も判断も正しくても、守れないことがある。頭ではそう理解していても、楠の心がそれを受け入れることを拒否した。
すべてを守れなければ、楠にとっては意味がなかった。
(弱い俺には……武を語る資格はない……武人としても、人としても、弱すぎる……)
弱さを抱えたまま生きる選択肢など、楠には存在しない。
そんな追い詰められた楠の心理が行き着く先など、ひとつしかなかった。
(ならば、弱さを捨てるしかない……)
楠は、自分の弱さだと思ったもの、それらを全部手放すことにした。感情を捨て、迷いを捨て、痛みを捨てる。
最後に残ったのは──武だけだった。それで、すべてを守れるはずだと、信じてしまった。
2026/02/20
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