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救えなかった理想

 蘇芳が逃亡した和部家は、橘に報告すると同時に、卜部家に蘇芳の捜索を依頼した。


 その結果、蘇芳は人鬼と化して王都の外──遠く離れた人里に身を潜めていることが判明した。


「……まだ、実験を続けているのだな」


 報告を受けた橘は、そう呟いた。


「彼女はおそらく、廉貞れんじょう童子ですね。鬼を救うために他者を否定し、共存のために守るべき相手を違え、自分の理想の正しさを証明するために鬼と化した存在です」


 桔梗の透視の術が伝えてくる現実は、どこまでも救いがなかった。


「桔梗、頼みがある」

「?」

「この件、俺も連れて行ってくれないか?」

「……何故?」


 それは静かな問いだった。そこにはどんな欺瞞も許さない、強い意志を感じた。


「俺は……自分なりに、彼女と真摯に向き合ってきたつもりだった。でも結局は、彼女を止められなかった。そのことに、責任を感じている。せめて……俺は彼女の最期を見届けるべきだと思う」


 桔梗は背後に立つ絃月と瑞陽を振り返った。橘まで含めて守れるか、否か。彼らは無言で頷いた。


「……わかりました。では、戦闘中はわたくしの傍を絶対に離れないでください」

「ありがとう」


 身支度を調え、真神家を出た四人は、まず馬で和部家へと向かった。


 混乱する和部家を訪れた橘は、苦々しげに口を開いた。


「何故こうなる前に、もっと早く彼女を止めなかったのか」


 これに対して、和部家の人々は互いに責任を押しつけ合うだけだった。


「だから言っただろう」

「危険だとは思っていた」

「あの子は、聞く耳を持たなかった」


 その言葉はすべて事実かもしれない。だが同時に、蘇芳が抱えていた重さを誰も引き受けようとはしなかったという事実の裏返しでもある。


 彼女から見れば、止めるほど本気ではなかった、守るほど信じてもいなかった、でも──失敗したら切り捨てる、そういうことに他ならない。


「お前たちがそんなだから、彼女は──」


 思い余った橘が、彼らを非難する言葉を放とうとしたとき、桔梗が弾かれたように反応した。


「この異様な気配は……?」

「どうした? 桔梗」


 桔梗を振り向いた橘の問いに、桔梗は表情を強張らせたまま、静かに告げた。


「おそらく廉貞童子が近づいてきています。和部家に向かって」

「!?」


 慌てたのは和部家の者たちだった。彼らに戦闘能力はない。狙われればひとたまりもなかった。


『……あらあら、皆さん、お揃いで』


 声が落ちた瞬間、和部家の空気が変わった。微笑んでいるはずの口元だけが、不自然に歪んでいる。誰かが、ヒッ、と悲鳴を漏らした。


『ね? 私が正しかったでしょう? 鬼になっても、私、人間を喰らおうなんて思わないもの』


 にっこりと蘇芳──否、廉貞童子は笑った。


『やっぱり、鬼を斬るなんてことは間違っていたのよ。もっと別の道があったはずなのに、誰も、なにも、探そうとしないんだもの』


 謳うように、どこか満足げに廉貞童子は語り続けた。


『私は、間違ってなんかいなかった。なにをしても結果が出なかったのは、貴方たちに邪魔されたから。だったら、私の理想が正しいことを証明するまで、諦める必要はないわよね』


 どこまでも独善的なその内容に、寒気がする。橘は、これがあの蘇芳の成れの果てかと、拳を強く握り込んだ。


『じゃあ、その手始めに……私の理想に邪魔な和部家の皆さん、消えてくださらないかしら?』

「ひいっ……!」


 和部家の誰かが悲鳴をあげた。廉貞童子に視線を固定したまま、ジリジリと後退る。治療道具を落とした甲高い音が、夜の屋敷に木霊した。


 橘は、パンッ! と手を一度打ち鳴らすと、和部家の屋敷の一角に、強い防護の威力を誇る結界を展開した。これ幸いと、和部家の人間たちは、その結界の中へ逃げ込んだ。


「……言いたいことはそれだけか?」

『あら……貴方は誰?』


 廉貞童子の視線が、初めて橘たちに向けられた。橘は、視線を逸らさなかった。


「文以外で言葉を交わすのは初めてだな」

『まさか……橘様……?』


 廉貞童子の笑みが、初めてひび割れた。


「そうだ」

『……!』


 笑みを消した廉貞童子に、絃月は刀『月詠』を、瑞陽は弓『日輪』を、それぞれ構えた。


『……あはっ、やっぱり私を斬るのね。私の理想を理解したふりをして、結局、貴方はこちら側には立てないんだわ。本当に人って……救えない』


 そう吐き捨てた廉貞童子に、橘は静かに首を横に振った。


「私は、鬼に堕ちる気など毛頭ないからな。貴女と同じ場所には永遠に立てんよ」

『あら、鬼になる勇気がないだけでしょ? 貴方の考え方のままなら、討伐されてしまうものね』


 平行線のままの、二人の会話。このままだと、廉貞童子が橘に見切りをつけるのも、時間の問題だった。


「橘」

「?」


 桔梗は声を潜めて囁いた。


「和部家の人々を避難させます。防護の結界を解いて、その代わりに廉貞童子を捕らえる破邪退魔の結界を築いてください。できますね?」

「……了解した」


 橘、絃月、瑞陽が廉貞童子と対峙している隙に、桔梗はジリジリと後退すると、踵を返して和部家の人々の避難誘導に当たった。


 その間に、絃月と瑞陽が廉貞童子を軽く威嚇する。


『……どうあっても、私を斬る気なの?』

「そうすることでしか貴女を救えない以上はな」


 橘の声は、なんの感情も映さず静かだった。


『嘘よ! 救う気なんてないんだわ。貴方は私が怖いだけ。私の理想が正しいとわかってるから』


 対話を掲げていたはずの廉貞童子は、皮肉にも対話を成立させることはなかった。だんだんと彼女の態度が苛立ちに変わってくる。


『……いいわ。終わりにしましょう。結局、貴方はこちら側には来れないままなのね』

「そちら側に行くつもりはないと、最初からそう言っている」


 絃月と瑞陽の身体能力は、桔梗の術で強化してある。ならば、彼らには先ほどの桔梗と橘の会話は聞こえていたはずだ。


 双子だからだろうか。なんとなく気配でわかる。桔梗の避難誘導はもうすぐ完了するだろう。あとは結界を張り直すだけだった。


 橘は、桔梗の方を見なかった。見れば、合図になってしまうからだ。


 防護結界を解くと、橘はもう一度手を高く打ち鳴らして、今度は破邪退魔の結界を張った。廉貞童子を捕らえるためだ。


 しかし──。


「逃げた!?」


 結界の中に廉貞童子の姿はなかった。高速で移動して、橘の眼前に迫る。


『そんなの、お見通しよ! 消えて!』


 廉貞童子が高らかに勝利宣言した、その瞬間。


──パキンッ


 氷が割れるような甲高い音がして、橘の目前で、廉貞童子が破邪退魔の結界に囚われていた。


『なによ、これ!?』


 喚く廉貞童子の疑問に答えたのは、橘の背後の闇から現れた桔梗だった。


「騙し討ちのような真似をして申し訳ありません。わたくしが張った破邪退魔の結界です。絃月、瑞陽、あとは任せます」

「はい」


 絃月と瑞陽は力強く返事をし、瑞陽が弓を引き絞り、絃月が廉貞童子との距離を詰める。


『ねぇ、橘様』

「……なんだ」

『私は、間違っていたの? それとも、正しすぎただけ?』


 廉貞童子の最後の問いに、橘は、ほんの一瞬だけ言葉を探した。それでも、目を逸らさずに答えた。


「正しいことが、人を救うとは限らない。貴女の理想は正しかったかもしれないが、そのために、貴女が選んだ手段は致命的に間違っていた。それだけだ」

『そんな……』


 その瞬間、瑞陽の矢が結界を砕き、絃月の刀が廉貞童子の首を斬り落とした。テン、と落ちた彼女の首は、橘の足元に転がった。


 橘の顔には、痛ましげな表情が浮かんでいた。



 夜の静寂に桔梗が舞う。その葬送剣舞は、闇の中に柔らかな癒しの光をもたらした。まるで春の木洩れ日のような優しさに、橘は思わず目を細めた。まるで彼女自身の優しさが舞に溶けたかのようだった。


 桔梗が霊刀『名残月』を振るうたびに、現世のしがらみがすべて解けて、魂魄は軽くなっていく。やがて魂と魄が解き放たれ、周囲には蛍火がふわりと舞った。


──タンッ


 最後に『名残月』を地に突き立てた瞬間、魄は溶けるようにその形を失った。


 桔梗が刀を鞘に戻すと、木洩れ日も、蛍火も、疾く消え失せた。まるで最初からなにもなかったかのように。


 戻ってきた桔梗は、開口一番に橘に詫びた。


「ごめんなさい、橘」

「なにがだ?」

「今回、わたくしは貴方を囮にするような真似をしました。一瞬でも貴方を危険に晒したこと、お詫びのしようもありません」


 桔梗はどんな罵倒も甘んじて受けるつもりだった。自分はそれだけのことをしたと思っていた。それなのに。


「気にするな」

「え……?」


 思わぬ言葉に、桔梗は顔をあげた。橘を見れば、彼はなんとも形容しがたいような複雑な表情をしていた。


「確かに、お前の意図に気づいたとき、最初は腹が立った。だが、途中で気づいた。お前は俺を信頼して、あの場を任せてくれたのだと。だから、いいんだ」

「橘……」


 桜を返せ、と拒絶されたあのときからすると、橘は確実に変わった。桔梗は胸がいっぱいになった。拒絶されず、否定もされない。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。


「ありがとう……それと……」


 まだなにかあるのか、と橘が顔をしかめた瞬間、桔梗が橘の背にそっと触れた。


「……大丈夫ですか? あの、桜がよければいつでも代わりますけど……やっぱり心配で……」


 その手は、桜と変わらず温かかった。その事実に、桔梗とはこれまで触れ合うことすらしてこなかったことに、橘は気づいた。


(桜は、桜で……桔梗は、桔梗なんだな……)


 当たり前のことなのに、今ようやく腑に落ちた。認めてこなかったのは、これまでの自分だ。橘はやや自嘲気味に笑った。


「……そうだな。屋敷に戻ったら、桜と交代してくれ。だが今は……しばらくはお前でいい」

「……! はい」


 そんな場合ではないとわかっていても、それでも今、桔梗の胸はじんわりと熱を持って、温かかった。



 真神の屋敷に帰ると、約束通り桔梗は桜に交代した。


 橘は、桜に今回の事の顛末を簡潔に報告した。


「……そっか。結局、彼女は最後まで救われなかったんだね」


 桜は悲しげに目を伏せた。橘はわずかに項垂れる。


「彼女に、言葉としての引導を渡したのは、間違いなく俺だ。彼女を止められなかったのも、追い詰めたのも、俺だ。他に道はなかったのか……今でも、そう思う」


 橘の思いを聞いて、桜は橘の背を撫でた。


「あまり自分を責めないで、橘。橘はできるだけのことをしてたよ。貴方のしてきたことは、決して間違いなんかじゃなかった。ただ、彼女は耳を貸さなかった。それだけだと思う」

「……そうか」


 桜の言葉は不思議だ。他の誰の言葉より、まっすぐに橘の胸に落ちてくる。不思議と救われたような気になって、橘は小さく笑った。


「ねぇ、橘」

「ん?」


 そんな橘を、桜は背後から抱きしめた。


「無理して笑わなくても、いいんだよ。悲しいのなら、泣いたほうが少しは楽になると思う。私が傍にいるから」

「あぁ……そうだな」


 背中の温もりは優しくて、橘の前には誰もいない。これなら、情けない泣き顔を見られる心配もない。桜にさえも見られるのは気恥ずかしかった。


「悲しかったよね」

「……あぁ」

「言葉が届いてほしかったよね」

「……そうだな」


 桜は気づいた。橘の背中が震え、それが全身に伝わっていく。


 橘は泣いた。蘇芳とは、文のやりとりしかしてこなかった。今日まで会ったことすらなかったのだ。それなのに、いつの間にか彼女に強い共感を覚えていた。


 だからこそ、橘は彼女を救いたかった。彼女に自分の声が届くことを願っていた。彼女がいつか現実を受け入れてくれると思っていた。だがそのどれもが、もはや叶うことはない。


「橘にとって……蘇芳さんってどんな存在だったの?」

「俺にとっての彼女か……どうなんだろうな……どこか同類のように感じていた。もし桜がいなかったら、俺もいずれは彼女のようになっていたかもな」


 もしかしたら、淡い想いもあったのかもしれない。だが、気づく前に失ってしまった。


「……橘は大丈夫だよ。私がいなくても、きっと」

「……そんなことを言うな。俺は桜がいてくれてよかったと心底思っている」


 背後で桜が嬉しそうに笑う気配がした。


「桔梗は?」

「あいつは……そうだな。最初は、俺から桜を奪う存在だと思ってた」

「そうなの?」

「あぁ。お祖母様にも注意された。桔梗は悪じゃないってな。それなのに……俺は今日まで、心のどこかで桔梗を疑ってた」


 沈黙が流れた。桔梗も、桜の中でこの言葉を聞いているだろう。


「でも、ようやく気づいた。桜は桜で、桔梗は桔梗。どちらも俺の双子の姉だ」

「遅くない?」

「なんだよ、気づいたからいいじゃねーか」

「まぁね」


 桜が苦笑する。前を向いていた橘は気づかなかった。桜の、そのどこか切なげな表情に。


 涙は、いつの間にか乾いていた。

2026/02/19

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