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雨の降る場所

 絃月と瑞陽の手を借りて、桔梗は鉄紺の小袖を身にまとった。銀灰の袋帯が高く結われ、膝裏まで長い垂れが流れる。それは戦装束であり、同時に喪服でもあった。


 誰も、なにも、話さなかった。


 身支度が調い、倉庫街へと向かった桔梗、絃月、瑞陽の三人は、鍵のかかっていない空の倉庫の中で、座禅を組んだ文曲童子を発見した。


『来たか、瑞陽』


 人であった頃と変わらぬ静かな声がした。


「父上……」


 瑞陽の声は、どこか力なく響いた。


『私を退治しに来たのか?』


 文曲童子の問いに、瑞陽は答えない。答えられなかった。


 とっさに刀を抜こうとした絃月を、桔梗が止めた。


「姫……?」

「文曲童子は……対話を望んでいるようです」


 桔梗は安心させるように絃月を見て、それから文曲童子に視線を戻した。すぐに刀を抜けるようにしておくのはいい。だが、それはもっとあとの話のようだ。


『さすがに敏いな。貴女が桔梗姫か。会えて光栄だ』


 願わくは、人であったときに出会いたかった。息子が選んだ、唯一人の主君に。狂った心で、文曲童子はそんなことを思った。


『瑞陽』


 文曲童子の呼びかけに、瑞陽の肩がピクリと揺れた。


『私は……情けない父だったな』

「!」

『優秀なお前が、自慢だった。だが、その一方で、お前に遠く及ばない我が身が、どうしようもなく不甲斐なかった』


 彼は静かに、瑞陽に問うた。


『……お前は、私をどう見ていた? 頼りなかったか? それとも……重かったか?』


 沈黙が支配する。だが、瑞陽は迷いを振り切るように、想いを確かめるように口を開いた。


「……頼りないとも、重いとも、思ったことはない。むしろ……既成概念に囚われることなく現実的な理想を描ける貴方を、尊敬していた」

『!』


 文曲童子の目が軽く見開かれる。


『……では何故、私を遠ざけた?』


 瑞陽は、すぐには答えなかった。しかし、その沈黙こそが、答えに近かった。


「僕は……輪廻転生を繰り返す存在だ。多くを知り、経験してきた。だからこそ、貴方には甘えられなかった。甘えてはいけないと思っていた……だから、距離を取った。貴方からも、家族からも」


 またしても沈黙がその場を覆った。文曲童子は考えていた。それが本当ならば、自分は息子に軽んじられていたのではなく、むしろ──。


 文曲童子は問いを重ねる。


『瑞陽、お前は何故、弓を引く?』

「大切なものを守るため。その想いは、最初から変わらない」


 大切なもの。その中には、父も入っていたはずだった。それなのに守れずに、今、こんなことになっている。


『……大切なもの、か』


 かつては自分もそう思っていた。だが、大切にしたかった父には存在意義を否定され、息子には遠く及ばず、娘は自分への盾にされた。自分など、存在しないほうがよほどマシだったのに。


『瑞陽、私は……逃げていたか? 理解されないと、拗ねていただけか?』

「貴方が逃げていたとは、僕は思わない。貴方は、自分の在り方を選んだだけだ。理解されないのは、相手が悪かっただけだと、そう思っていた」


 祖父は頭が固いから。瑞陽の言葉に、文曲童子は目を細めた。


『知っていたのなら、何故、止めなかった?』

「何故、か……何故だろうな。貴方なら大丈夫だと、どこかで高を括っていた。それは僕の咎だ」


 ここにきて、ようやく文曲童子は確信した。


『……そうか。お前は私を信じて尊重してくれていたのだな』


 そして同時に気づく。その重さに耐えきれず、鬼になったのは自分だった、と。


 瑞陽は答えない。それこそが答えだった。


 文曲童子の胸の裡に、納得と受容が広がっていく。もはや疑問はない。後悔も、未練も。


『瑞陽、私を射よ』

「!?」


 衝撃が駆け抜ける。瑞陽も、絃月も、信じられない思いで文曲童子を見つめていた。唯一、桔梗だけが、まるでわかっていたかのように、そっと目を伏せた。


『避けはせぬ。甘んじて受けよう。お前の手で、終わらせてほしい』

「……」


 瑞陽は、父の目を見返した。逃げ場を与えない、静かな覚悟の目だった。


 絃月は警戒して刀に手をかけたままだった。もしおかしな真似をしたら、即座に首を斬り落とすつもりでいた。今度は桔梗も止めようとはしなかった。


 しかし、瑞陽は静かに弓『日輪』を構えると、矢をつがえた。

 引き絞りながら、瑞陽の脳裏を駆け巡るのは、幼い頃に頭を撫でてくれた、優しい手。


『また、いつでも帰っておいで』


 あの日、父はそう言ってくれた。それが父との最後の会話になった。


──ごめん、父上


 勢いよく放たれた矢は、過たず文曲童子の額に深々と突き立った。


 グラリと文曲童子の身体が傾ぎ、後ろに倒れる。その顔は、どこか穏やかだった。



 桔梗の葬送剣舞が、文曲童子を静かに送る。


 扇子が閃くと、倉庫の中なのに雨が降ってきた。振りしきる雨のなかで、桔梗は舞い続ける。


 父・槙の魂魄が、招かれて、形になって、そして少しずつ、現世のしがらみから解き放たれていく。


 軽やかになった魂魄は、魂と魄に分断され、魂は輪廻へ、魄は地に縫い留められて崩れ去る。


 桔梗が刀を納めたとき、蛍火も、雨も、その姿を消していた。


 舞の余韻も冷めやらぬ中、絃月がおそるおそる口を開いた。


「……桔梗姫。何故、雨を意図されたのですか?」


 桔梗は答える代わりに、唇の前に人差し指を静かに立てると、チラリと瑞陽に視線を向けた。


 こちらに背を向ける、その姿だけで絃月は桔梗の意図を理解する。


(雨は……涙を隠してくれるから……)


 束の間だけでも、瑞陽が感情をあらわにする時間があればいい。彼はきっと、絃月や妹の前では泣けないだろうから。


「絃月、お願いがあります」

「……わかりました」


 桔梗の『お願い』を聞いた絃月は、桔梗に一礼して倉庫を出た。外から扉を閉め、中には瑞陽と桔梗だけとなる。


「瑞陽」


 こちらに背を向けて立つ瑞陽の傍に歩み寄り、横に並ぶと、そっとその背に手を添えた。その瞬間、瑞陽の背が震えた。


「桔梗姫……」

「なぁに?」


 ポツリと瑞陽が呟いた。桔梗は素の口調で相槌を打つ。


「本当に、優しい人、だったんです」

「うん」


 ポツリと雫がこぼれた。


「家族思いで……普通の子ですらなかったこんな僕さえも愛してくれた……」

「そうだね」


 震える声が、涙に滲む。


「……すみません……」

「泣いていいよ。瑞陽が落ち着くまで、傍にいるから」


 背をそっとさすっていると、瑞陽が桔梗の肩に腕を回して、腕の中に引き寄せた。正面から抱きしめられる形になる。


「すみません……今だけ、このままで……」


 肩口に埋められた顔はたぶん涙で濡れていて、背に回された手は、まるで縋りつくようで。


 桔梗はそっと腕を持ち上げて、瑞陽の背に回すと、よしよしと宥めるように、その背を撫でた。


 言葉はない。それでも、互いの温もりだけが、自分が孤独ではないことを示していた。


***


 泣きやんだ瑞陽と、倉庫の外で見張りをしてくれていた絃月とともに、馬で真神家へと戻る。


「昔はこの距離を歩きましたよね」

「……そういえば、そんなこともありましたね」


 巨門童子と化した桔梗の父・蒼の最期を看取った夜のことだった。


「何度生まれ変わって、両親や兄弟姉妹が変わっても……わたくしたちが、彼らに抱く感情がないわけではありません」


 桔梗はため息をつくように、短く息を吐いた。


「悲しくて、当たり前です。つらいのも、仕方がないです。でも……わたくしたちは、三人いるから、互いに支え合うことができる……二人とも、忘れないで……わたくしは、貴方たちのすべてを肯定して、受け入れます。だからどうか……独りだとは思わないでくださいね?」


 絃月はやや呆れたように、肩を竦めた。


「姫、貴女って人は……せっかく瑞陽が泣きやんだのに、また泣かせにきてどうするんですか」

「……泣いてない」

「嘘をつくな」


 相変わらずの関係性に、桔梗は淡く微笑む。この分なら、瑞陽はきっと大丈夫だろう。帰ったら橘に報告して、橘から遠矢家に連絡してもらって、それから──。

 やることは山積していた。



 孫の瑞陽の手から、真神家当主の書状を受け取った遠矢家当主・榊は震えていた。


 そこには、榊の息子である槙が文曲童子と化したこと、すでに退治と浄化が完了したこと、槙の娘である楓には、文曲童子の件は伏せるよう要請すること、などが記されていた。


「……馬鹿な、槙が……!?」

「事実です」


 瑞陽の言葉は短かった。それだけに、榊は悟らざるを得なかった。書状の内容が事実であると。


「何故だ……」


 打ちひしがれた祖父の姿に、瑞陽はなんの感情も映さぬ瞳で告げた。


「それほどまでに、父上は追い詰められていた……貴方と、私が、追い詰めたのです」

「……!」


 榊は言い、瑞陽は言わなかった。だが、そのどちらもが、槙を追い詰めた。


「今さら言っても仕方のないことですが……父上は、それでも貴方に理解してほしいと願っていました。もし、貴方の中に欠片なりとも後悔と反省があるのなら……楓に同じ過ちを繰り返さないでください」


 もっと優しく思いやりを持って接してやってほしい。ただそれだけのことだったのに、何故ここに至るまで伝わらなかったのか。


 榊は己が招いた取り返しのつかない事態に、涙をこぼしながら頷いた。


「……わかった」


 決して悪意があったわけではなかった。ただ、言葉や言い方を選んでいなかった。それだけのことが、人を死に追いやるほどの刃となった。後悔してももう遅い。それでも、後悔以外の感情が榊の胸には浮かばなかった。


「すまなかった……槙……」


 泣いても息子はもう戻ってこない。それでも、榊はハラハラと落涙し続けた。


 瑞陽はそんな祖父を一人にはできなかった。かといって慰めることもできず、距離を保ったまま、部屋に居続けた。


 やがて楓が呼ばれ、彼女は祖父の口から父親の死を知らされた。


「そんな……お父様が……?」


 愛する父を喪い、泣き崩れる楓に、瑞陽はただ寄り添うことしかできなかった。


「ねぇ、お兄様……嘘だと言ってよ……」


 父が文曲童子と化したこと、その父を葬ったのが自分であること、楓に話せず墓まで持っていく秘密は、どこまでも重い。


 それでも、瑞陽は妹を抱きしめた。決して一人ではないと伝えるために。桔梗が自分にそうしてくれたように。


「お父様……」


 腕の中で泣きじゃくる楓の頭と背を、宥めるように静かに撫でる。彼女が泣き疲れて眠りに落ちるまで、瑞陽はそうしていた。


 泣きながら眠った妹の身体を抱きかかえて、彼女の部屋に移動しようとした瑞陽の背に、榊の声が小さく届いた。


「すまなかった……瑞陽、楓……」


 瑞陽は振り向かなかった。


「……もう済んだことです」


 そう小さく呟いて。


***


 眠る楓を彼女の部屋の布団に寝かせ、瑞陽は息を吐いた。疲れが澱のように身体に沈殿している。自分も少し休むべきなのかもしれない。


 ただ、目覚めた妹が一人で泣く事態だけは避けたかった。だから、妹の部屋の壁に背をもたれて、束の間、微睡んだ。


 気がつけば、思った以上に眠っていたらしい。瑞陽が目を開けると、楓はとっくに目覚めていて、感情の見えない瞳で天井をぽっかりと眺めていた。


「楓、大丈夫かい……?」

「お兄様……」


 強張ってあちこちが痛む身体を、動かしながら瑞陽は楓の傍に移動した。楓も、布団の上で身体を起こした。


「お父様は……」

「父上は、お前のことを本当に大切に思っていたよ。強くて、優しくて、立派な方だった」


 楓の目の奥は熱いのに、涙はこぼれなかった。泣きすぎて枯れてしまったのだろうか。


「お兄様がそう言うなら……そうなんだよね」


 ポツリと呟く楓の言葉は、彼女には言えない真実を抱えている瑞陽の胸に、抜けない棘のように刺さった。瑞陽はなにも言えなかった。


「……お父様、苦しかったのかな」


 またポツリと、楓が呟く。端から見れば、父の苦しみは家族間での軋轢に過ぎないのかもしれない。それでも、家族を大切にしてきた父だからこそ、その苦しみは地獄のようだったはず。その身を鬼に堕とすほどに。


「……そうだね。だからこそ、最後まで……父上は父上だった」


 それが、今の楓に渡せる精一杯の真実だった。


 人鬼と化しても最後まで、誰かを傷つけることをよしとせず、己の終わりを望んだ父。理解されたい、受け入れられたいという思いは、叶ったのだろうか。


 つい物思いに耽る瑞陽に、楓は視線を向けた。なにか自分に隠された事実があるのであろうことは、なんとなく気づいていた。だが、それでも。


「……お兄様がいてくれて、よかった」


 この兄が、自分に隠すと決めたのなら、それはきっと兄の判断が正しいのだ。楓はそう信じた。


「僕も……楓がいてくれて、本当によかったよ」


 瑞陽も、このときばかりは本心からの言葉を、愛しい妹に返した。

2026/02/17

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