ほら吹き地蔵 第十八夜 お山のラスボス
【1】
オレは地蔵堂の古ギツネ。
2年前から「野椎/のづちの神様」の世話係(いや、雑用係かな)として、この山奥に派遣されている。
「野椎の神」は古事記にも記載のある由緒あるお方なんだが、とにかくキツいお方だ。
ずっとお仕えしていると心を病んでしまうので、雑用係のキツネは長くても3年で選手交代だ。
ある程度のキャリアがあるハイカー、トレッカー、クライマーなら、みんな「野椎の神様」の事は知っている。
いや、知識は無くても、その存在は感じている。
ここで「神様なんて聖職者・宗教家の珍妙な発明品だ。ただの観念だ。実体はない。実在しない」とか、ぬかす輩に警告しておこう。
「野椎の神」は実在する。
その目で見た人間は何人もいる。
だが、その目撃証言は伝わっていない。記録されてもいない。
なぜなら「野椎の神」と出会った人間は、みんな死んでしまったからだ。
生きて山を降りられなかったからだ。
そう、「野椎の神様」は山岳事故の神様なんだ。
出会ったら一巻の終わりだ。
死に神は死んだ人間を連れ去るだけだが、「野椎の神様」は起こしたい時に、いつでも事故を起こす。
誰彼かまわず殺す。
どんなに用心していても、殺される時には殺される。
どんなに重装備していても、用意周到にリスク対策していても、自分の家の裏庭より知り尽くしている山でも、避けようのない事故は避けようがない。
ある程度のキャリアがあるハイカー、トレッカー、クライマーなら、「なんかヘンだ。今日は回れ右して、おうちに帰ろう」と、ピンと来た事が一度ならずあるはずだ。
あれは「野椎の神様」の接近警報なんだ。
地図には書いてない不審なY字路に行き当たった時、「右の道はダメ。左は大丈夫」と、誰のものでもない声が聞こえて来た事があったろう。
これが不思議と良く当たったはずだ。
いつまでたっても、この声が聞こえて来ないヤツは山に立ち入るべきじゃない。
「山を正しく恐れる」能力のないヤツは、遅かれ早かれ山に食われる。
「野椎の神様」は事故死者の血を吸う神なんだ。
【2】
「事故」と「事故じゃないもの」に明確な境界線があるワケじゃない。
白と黒に、きれいに二分されてはいない。
灰色の領域が驚くほど大きいのだ。
いわば「安全じゃないが事故にも至らぬ」エリア。
死者が出るほどの大事故の前には、「いちいち気にしていたら身が持たない」程度のプチ事故が29回は起きている。
これは「野椎の神様」が、「コラ、気を付けんか、バカ者」と、デコピンを下さったようなものだ。
「痛い!痛い!」と騒ぎ回った後で、一転して気分が落ち込み、その晩は眠れなくなるような反応が、実は正しいのだ。
お叱りは正面から受け止めるべきなんだ。
最悪なのは、「酒でも呑んで厄落とし」してしまう事だ。
ダメージを受けたのが心だけなら酒に逃げる事もできるだろうが、骨のイッポンも折っていたら、それすらできまい。
「野椎の神様」は最終警告を無視した者を絶対に許さない。
急いで付け加えておくが、「野椎の神様」は相手がどんな不心得者でも無礼者でも、いきなり額にデコピンしたりしない。
手続き手順を大事にされるお方なのだ。
「路側帯から半歩はみ出した」程度の「事故未満の不注意」が発生した時点で「野椎の神様」は、そいつの首元に冷たい風をスーッと送り込む。背中に冷水を浴びせる。
これを俗に「ヒヤリ事故」と言う。
この「送風 or/and 冷水」を300回、無視するとデコピンが飛んで来る。
まず相手が反省するのを待つ。
そのチャンスは与える。
「野椎の神様」は、それくらい忍耐強いお方なのだ。
(ちなみに、この送風も冷水も裏方のオレの仕事だ。全く、コキ使ってくれやがるぜ。)
「失敗して悔しい。ヒヤリ事故を起こして悔しい」と思うのは良い事だ。
屈辱をバネにして成長して欲しい。
自分のやった事に責任を取れる人間になって欲しい。
「誰かから文句を言われたら対応すればよい」では遅すぎるのだ。
「生きようが死のうがオレの勝手だろう」などという言い草はカン違いも甚だしい。
被害者のいない自損事故でも、警察や消防にはバッチリご迷惑をかける。
そもそも人間は、誰かに迷惑をかけなければ生きる事も死ぬ事もできないのだ。
自分の命を「自分の勝手」で粗末にしないでほしい。
【3】
事故のパターンは一つじゃない。
事故は事故の数だけパターンがある。
繰り返すが、痛い目を見るのは最大の勉強だ。
反省のチャンスだ。
油断と不注意は慢心が連れて来る。
とは言ったものの、油断したくて油断するヤツはいないだろう。
油断にも理由がある。原因がある。そうなる必然性がある。
たとえば、疲れていたら誰だって集中力が落ちる。油断する。
これは体の仕組みの問題だ。
そうするってえと「体を休めるのも仕事の内だ」と言う事になるが、限られた時間で要領良く体を休めるには熟練が要る。
特に気が高ぶっている時に、「眠れなくてもいいから、目をつぶって横になっていろ」と言うのは、かなり難易度の高いクエストだ。
つまりは経験と勘とやる気の問題なのだが、これを「本人の心がけ次第」と言ってしまったらミもフタもない。
それができれば誰も苦労はしないのだから。
「特に理由のない油断」は、もっとタチが悪い。
俗に言う「つい、うっかり」というヤツだ。
人間の心は、しつけの行き届いていない子犬のようなものだ。
いつもチョロチョロと動き回り、一瞬もとどまる事がない。
ちょっと目を離せば勝手にどこかに行ってしまう。
こう言う心の揺れに対して、人間は恐ろしいほど無力だ。
自分の心さえ自分ではどうにもできないのだ。
「オレは今のままでOKだ」とか「そうなったら、そうなったで何とかなるさ」と言った妙な自信、妙な自己肯定感・全能感に包まれているヤツが一番アブない。
人間は自分の何を知っていると言うのだろう。
背中に目が付いているヤツは一人もいないのに。
「事故の前では無力な自分」を恥ずかしく思う必要はないが、その自覚がないのは恥ずべき事だ。
「オレは怖いもの知らずだ。文句あっか」で通るのは、バカか子どもだけだ。
【4】
かく言うオレさまと来たら、さっきから人さまにダメ出しばかりしてるな。
このままサゲちゃ、ここまで読んでくれた読者の皆さまに申し訳ない。
ここから先はオレからの提案なんだが、いっしょうけんめい神仏に祈ってみてはどうだろう。
反省の足りない点は、「私に反省をください。傲慢と偏見を除いてください。謙虚さと真の智慧をください」と、お祈りしてみてはどうか。
何もかも自分一人で背負い込む必要はない。
「自分には反省なんてできない。自分の背中は自分じゃ見えない」と思うなら、その分、神仏に祈ればいいのだ。
必死に祈れば願いは必ずかなう。
「野椎の神様」に話をもどせば、山に入る前に「今日も無事に下山できますように」と、ほんの一回、手を合わせるだけでもいい。
心の中で「オイ、大丈夫なのか? 兎平亀作」と、つぶやくだけでもいい。
良く言えば自己暗示、悪く言えば気休めに過ぎないが、傲慢や無分別より、はるかにマシだ。
「要は気の持ちようの問題じゃないか。ただの精神論じゃないか」と言われたら返す言葉がないが、「油断と不注意は慢心が連れて来る」と、もう一度、言っておこう。
今回は説教が過ぎたな。
気を悪くしたらゴメン。
正しく恐れさえすれば、山はとても楽しい場所だ。
オレはいつでも歓迎するよ。
「野椎の神様」も、実はそれを一番望んでおられる。




