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今宵も、君と千鳥足  作者: 花曇り


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大阪・天満『日本一の長い回廊と、あふれ出す福酒』

一、終わりなき商店街のマラソン

 二月某日。大阪市北区、天神橋。ここに、南北に約二・六キロメートル、地下鉄の駅にして三つ分を貫く、日本一長い商店街が存在する。天神橋筋商店街。六百店舗以上が軒を連ねるこの巨大なアーケードは、大阪庶民の生活の血管であり、食のテーマパークでもある。

 午前十一時。湯達 直は、商店街の南端、一丁目(天満宮側)の入り口で仁王立ちしていた。今日の彼は、歩く気満々のスニーカーにチノパン、ダウンジャケットという軽装だ。

「……長い。果てしなく長いぞ、今日は」

 直が覚悟を決めている横で、安木 亮がのんびりとあくびをした。亮の装いは、うぐいす色の着物に、茶色の角袖コート。足元はなぜか、歩きにくそうな高下駄である。

「直君、そんなに気負わなくても。ここは『通り抜け』を楽しむ場所でしょう? 平安貴族の『熊野詣くまのもうで』のようなものです」

「アホか! 熊野詣は命がけや! ……ええか亮、この商店街を端(一丁目)から端(七丁目)まで歩き切ると、『満歩状まんぽじょう』という認定証がもらえるんや。俺たちは今日、それを目指す!」

「認定証……。もらうと何か良いことがあるのですか?」

「名誉や! 大阪を制覇したという達成感や!」

 二人は歩き出した。しかし、開始五分で亮が消えた。直が振り返ると、亮は創業百年を超える老舗の昆布屋の前で、出汁の香りを吸い込んでトリップしていた。

「……あぁ、海。海が見えます、直君。この昆布は、北海道の冷たい海で育ち、北前船に乗って、どんぶらこ、どんぶらこと大阪へ……。ロマンの塊です」

「香りだけで歴史を感じるな! 行くぞ! まだあと二・五キロあるんや!」

 さらに数分後、亮は激安の衣料品店(大阪のおばちゃん御用達)の前で立ち止まった。店頭には『もってけドロボー価格! Tシャツ300円』の文字。

「……ドロボー。大阪の商人は、客を犯罪者に仕立て上げるのですか? なんとアナーキーな……」

「比喩や! サービス精神の暴走や!」

 亮は、豹柄のスパッツを手に取り、

「これを履けば、私も俊足になれるでしょうか……」

 と真剣に悩んでいた。直は無言で亮の襟首を掴み、北へと引きずっていった。


二、天神さんの牛と、即興落語

 商店街の道中、二人は大阪天満宮へ立ち寄った。地元では「天神さん」と呼ばれ親しまれる、学問の神様・菅原道真すがわらのみちざね公を祀る神社だ。ちょうど梅の季節。境内には紅白の梅が咲き誇り、甘酸っぱい香りが漂っている。

「……見事ですね」

 亮が梅を見上げる。

「道真公が『東風こち吹かば 匂いおこせよ 梅の花』と詠んだ、その魂がここに息づいています」

「せやな。道真公は京都から太宰府へ流される途中、ここに立ち寄って旅の疲れを癒やしたんや。……いわば、ここは『左遷サラリーマンの聖地』でもある」

 直が自虐的に笑いながら、拝殿で手を合わせた。 (どうか、来期の人事異動が東京本社でありますように。あと、この横の変人がまともになりますように)

 参拝を終え、境内の「撫で牛」の像へ。自分の体の悪い部分と同じ場所を撫でると良くなる、という言い伝えがある。また、頭を撫でると賢くなるとも。

 直は牛の頭を撫でた。

「賢くなれ、俺。もっと効率的に営業できるように」

 亮は、牛の胃袋のあたりを念入りに撫でていた。

「……牛さん。どうか私の胃袋を、四つに増やしてください。この商店街の美味しいものを、すべて食べ尽くせるように……」

反芻はんすうする気か! 気持ち悪いわ!」

 天満宮のすぐ北側には、上方落語の定席「天満天神繁昌亭はんじょうてい」がある。出囃子の太鼓の音が、ドンドンドン、と聞こえてくる。

「……寄席よせですね」

 亮が目を輝かせる。

「直君、私も一席打ちたくなりました」

 亮は境内の隅にある休憩用の縁台に正座し、持っていた扇子(冬なのに持っていた)を構えた。

「……えー、毎度バカバカしいお笑いを一席。……隣におりますのは、頭の固い眼鏡の男でございまして。名は『直』と申しますが、性格はいっこうに直らない……」

「誰が上手いこと言えと! 営業妨害や、行くぞ!」


三、黄金のコロッケと、サクサクの衝撃

 再び商店街へ戻ると、時刻は正午を過ぎていた。胃袋を刺激する匂いが、あちこちから襲ってくる。その中でも、ひときわ長い行列ができている店があった。有名店『中村屋』のコロッケだ。

「並ぶぞ、亮。これを食わずに天満は語れん」

 十五分ほど並び、揚げたて熱々のコロッケを手に入れた。一つ八十円(当時)。紙袋に入ったそれは、黄金色の小判のように輝いている。

「……熱っ!」

 直がハフハフと言いながら齧り付く。

「……美味いッ! これや! 衣はカリカリ、中はトロトロ! ジャガイモの甘みが凄い! ソースなんか要らん、この甘みだけで十分や!」

 亮も、猫舌を気にしながら一口。

 サクッ。

「……!」

 亮の目が丸くなる。

「……お菓子です。これはおかずではありません、スイーツです。ジャガイモと牛肉の旨味が、ラードの香ばしさと共にワルツを踊っています。……口の中で溶けてなくなりました。幻術でしょうか?」

「ラードで揚げてるからコクがあるんや。……この甘さ、中毒になるで。浜田雅功さんが愛したのもわかるわ」

 二人はコロッケを片手に、さらに北上する。JR天満駅のガード下をくぐると、景色が一変した。そこは「裏天満うらてんま」と呼ばれる、ビニールシートと提灯がひしめく飲み屋街。昼間から赤ら顔の人々が、ビールケースを椅子にして酒を煽っている。

「……直君。ここだけ重力が違います」

 亮がその熱気に圧倒される。

「皆さんの顔が、夕日のように赤いです。まだ昼の二時なのに」

「天満時間はな、朝の十時から『夜』なんや。ここでは時計を見る奴が野暮なんや。……よし、俺たちもこの『時間停止空間』に飛び込むぞ」


四、立ち食い寿司と、赤酢の魔術

 直が選んだのは、天満名物・立ち食い寿司の激戦区にある一軒『春駒はるこま』……の支店か、あるいは新鋭の『すし政』か。いや、今日は少しディープに、市場の中にある立ち飲みスタイルの寿司屋『天満てんまの虎』へ。

 カウンターだけの狭い店内。職人の威勢のいい声が響く。

「らっしゃい! 何握りましょ!」

「とりあえず生! それと……『上マグロ』と『煮穴子』! あと『たい』を塩で!」

 直が慣れた手つきで注文する。

「私は……そうですね、『こはだ』と……おや、この『裏メニュー』というのは?」 「兄ちゃん、それは『トロたく(トロとたくあん)』のデカいやつや。ええアテになるで!」

 まずはマグロが到着した。分厚い。シャリが見えないほどネタが大きいのが天満流だ。

「……赤い宝石です」

 亮が指先で摘まむ。立ち食い寿司は手掴みが粋だ。

 パクり。

「……んん~ッ!」

 亮が天井を仰ぐ。

「……とろけます。脂が、体温でじゅわりと溶け出し、シャリの酸味と絡み合って……。まるで、マグロが口の中で蘇り、大海原を泳ぎだしたようです!」

「大げさやな。でも……美味い!」

 直も鯛を放り込む。

「この弾力! そして塩とスダチで引き立つ甘み! ……これが一皿数百円やて? コスパの概念が壊れるわ!」

 そこに、職人が

「へい、熱燗お待ち!」

 とガラスのコップと受け皿(枡)を置いた。一升瓶からトクトクトク……と注がれる酒。コップの縁ギリギリまで、いや、表面張力で盛り上がり、ついには溢れ出して枡にこぼれる。

「……表面張力の芸術アートや」

 直が息を呑む。

「これぞ『もっきり』。店主の心意気が溢れとる」

 亮は、コップに口を近づけ、音を立てずにすすった。

「……ちゅー……。……ぷはぁ」

 亮が恍惚の表情を浮かべる。

「……幸せが、溢れました。この一滴のために、人は労働という苦役を耐えるのですね。……直君、私は今、世界の真理に触れました」

「ただの酔っ払いや。……でも、わかる。この溢れる酒をすする瞬間、俺たちは自由になれるんや」

 煮穴子は、炙られて香ばしく、口に入れるとホロホロと崩れた。トロたくは、海苔の香りとたくあんの食感が、酒を進ませる無限機関となった。

 隣にいた常連のおっちゃん(競馬新聞を持っている)が話しかけてきた。

「兄ちゃんら、ええ飲みっぷりやな!阪神の勝敗より見てて気持ちええわ!」

「お父さん、今日は勝ちましたか?」

 と亮が聞く。

「ボロ負けや! せやからヤケ酒や! ガハハ!」

 見知らぬ客同士が、酒と寿司を介して笑い合う。これが天満の引力だ。


五、ちょうちん通りの黄昏たそがれ

 店を出ると、外は薄暗くなっていた。頭上には無数の赤提灯が灯り、路地は幻想的な雰囲気に包まれている。通称「ちょうちん通り」。

 千鳥足になった二人は、人混みをかき分けて歩く。

「……綺麗ですね」

 亮が提灯を見上げる。

「まるで、魂の灯火ともしびです。一つ一つの提灯の下に、誰かの人生があり、笑いがあり、涙がある……」

「詩人ぶるな。……でも、ええ景色や」

 直も酔いが回り、足取りが軽い。

「この街はな、気取らんでええんや。金があろうがなかろうが、偉かろうがなかろうが、酒飲んで笑えばみんな『天満の仲間』や。……そういう大阪の懐の深さが、ここには詰まっとる」

 ふと、亮が足を止めた。ビニールシートで囲まれた屋台から、ジューッという音と、香ばしいソースの匂いが漏れてくる。お好み焼きだ。

「……直君。私の胃袋の牛さんが言っています。『まだスペースがある』と」 「お前の胃袋はブラックホールか。……しゃあない、シメや! シメにお好み焼き半分こや!」

 二人は吸い込まれるように屋台へ入った。鉄板の上で踊るカツオ節。マヨネーズの白と、ソースの黒が描くマーブル模様。

「……宇宙です」

 亮がコテを握りしめる。

「この鉄板という小宇宙コスモスに、キャベツと粉と豚肉が銀河を形成しています」

「早よひっくり返せ! 焦げる!」

 ハフハフと熱いお好み焼きを頬張り、最後のビールで流し込む。

 満腹。酩酊。幸福。


六、長い回廊の果てに

 夜九時。二人は再び天神橋筋商店街のアーケードの下を歩いていた。店は閉まり始めているが、まだまだ人通りは絶えない。

 直は満歩状をもらうのをすっかり忘れていた。

「……あかん、完走証明書、もらい損ねた」

「ふふ、いいではありませんか」

 亮がカランコロンと下駄を鳴らす。

「私たちの心の中には、確かに刻まれましたよ。『天満満腹状』が」

「なんやそれ。……まあ、ええか。楽しかったしな」

 JR天満駅の改札前。環状線の発車ベル(aikoの『花火』)が聞こえてくる。

「直君、次はどこへ?」

 亮が少し寂しそうに尋ねる。

「……そうやな」

 直は少し考え、ニヤリと笑った。

「大阪の『北』と『南』は制覇した。次は……さらにディープな『東』か、それとも古都『奈良』で鹿と戯れるか……。ま、来週の気分次第やな」

「奈良……。鹿せんべいをつまみに酒が飲めるでしょうか」

「鹿に襲われるだけや!」

 二人は笑い合い、雑踏の中へと消えていった。頭上の提灯が、いつまでも二人を見送るように揺れていた。


(第9話 了)

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