大阪・ミナミ『苔むす不動と、善哉(よきかな)な夜』
一、難波の森の迷い人
一月七日。七草粥を食べて胃を休めるべきこの日に、二人の男は西日本一周の旅から大阪・難波へ帰還した。
午後五時。南海なんば駅。巨大なターミナルビルの雑踏の中、湯達 直はキャリーケースを引きながら、スマホの画面を睨みつけていた。
「……あいつ、またやりやがった。『高島屋の前で』言うたやろ。なんで『空中の森』におるねん」
GPSの信号は、駅直結の商業施設「なんばパークス」の屋上庭園を示していた。直はエスカレーターを駆け上がり、地上九階の庭園へ。そこには、都会の喧騒を見下ろす緑豊かな木々の間で、安木 亮が植え込みの植物に話しかけている姿があった。
「……おお、葦よ。難波の葦よ。君たちはコンクリートのジャングルでも、たくましく根を張っているのだね……」
「亮ッ!!」
直の声が森に響く。
「そこは『葦』ちゃう! 園芸用の観葉植物や! 何が悲しくて大阪に帰ってきて一発目が森林浴やねん!」
「あ、直君。おかえりなさい」
亮は旅の垢を感じさせない笑顔で振り返った。今日の格好は、鳶色の着物に、首元には博多で買った「にわかお面」の手ぬぐいを巻いている。
「ここは良いですね。万葉集にある『難波の葦火』の情景が目に浮かぶようです。……かつてここは海で、漁火が揺れていたのですね」
「今はネオンの海や。……ほら、行くぞ。今日は『帰阪祝い』や。ミナミのど真ん中で、大阪の出汁を身体に入れ直すんや」
「出汁……。いい響きです。博多の豚骨も美味でしたが、やはり恋しいのは昆布と鰹の合わせ出汁……。行きましょう、直君。グリコの看板が私を呼んでいます」
二、法善寺横丁・苔と文学の路地
二人は難波の雑踏を抜け、千日前の喧騒を通り過ぎて、ある路地へと足を踏み入れた。
法善寺横丁。
幅三メートルほどの石畳の道に、小料理屋やバーがひしめく、ミナミきっての情緒ある一角だ。
その中心にあるのが「水掛不動」こと法善寺・西向不動明王。参拝客が水をかけ続けて祈願するため、不動明王像は全身が鮮やかな緑色の苔に覆われている。
「……あぁ、帰ってきましたね」
亮がその苔むした姿を見て、目を細める。
「この緑色……。抹茶ティラミスではありませんよ、お不動様です。……直君、この苔の厚みは、大阪人の『悩み』と『願い』の厚みですね」
「うまいこと言うな。……せや。商売繁盛、恋愛成就、合格祈願。あらゆる欲望と祈りを、この水が受け止めてきたんや」
二人は柄杓で水をすくい、お不動さんにかけた。 バシャッ。水が苔に吸い込まれ、キラキラと光る。
「……織田作之助の小説『夫婦善哉』も、この界隈が舞台でしたね」
亮が懐かしむように語り出す。
「主人公の柳吉と蝶子。ダメ男としっかり者の女性。二人は喧嘩しながらも、離れられない。……大阪の街には、そんな『腐れ縁』の温かさがあります」
「俺とお前の関係も、大概『腐れ縁』やけどな」
直が苦笑する。
「ま、俺は柳吉みたいに芸者にうつつを抜かしたりせんけどな。俺がうつつを抜かすのは……歴史と売上目標だけや」
直は石畳を見つめ、少し真面目な顔になった。
「ここもな、昔は空襲で焼け野原になったんや。でも、戦後に地元の人たちが『この灯りを消したらアカン』って、必死で復興させた。この石畳も、一枚一枚、彼らの手で敷き直されたんや。……ここにあるのは『ド根性』や。大阪商人の意地が、この静寂を作っとるんや」
「直君の目には、石畳の下に汗と涙が見えているのですね」
「おうよ。……よし、その意地に敬意を表して、今日は老舗に行くぞ」
三、正弁丹吾亭の幻影と、なにわの味
二人が暖簾をくぐったのは、横丁の一角にある小料理屋『浪花の詩』。カウンターだけの小さな店だが、白木の板場は磨き上げられ、凛とした空気が漂っている。
「いらっしゃい。おや、久しぶりやねえ」
白髪の上品な女将さんが迎えてくれた。
「女将さん、ただいま。まずは……熱燗や。一番ええ酒を、ぬる燗で」
直が席に着くなり、ネクタイを緩める。
「それと、『関東煮』。大根、厚揚げ、すじ肉。あと『タコの子』があったらちょうだい」
すぐに運ばれてきたのは、琥珀色の出汁に浸かったおでん(関東煮)だ。大阪のおでんは、色が薄いが味はしっかりしている。
亮は、湯気の立つ大根を見つめた。
「……ただいま、大根さん。博多や姫路の大根さんも素敵でしたが、やはり貴方の顔を見るとホッとします」
一口食べる。じゅわり。
「……んんっ……!」
亮が身悶えする。
「……優しい。甘い。昆布の旨味が、旅で疲れた細胞の一つ一つに染み渡っていきます。……これは、オカンの味です。いや、もっと高貴な、谷崎潤一郎の『細雪』に出てくる四姉妹のような上品さです」
「お前の味覚はどうなっとるんや。でも……美味い!」
直も酒を一口含み、厚揚げを頬張る。
「これや! この甘辛いのが大阪の味や! 灘の酒『白鷹』との相性も抜群や!」
続いて出てきたのは『タコの子(卵)』の煮付け。ねっとりとした食感と、濃厚な味わい。
「これは……酒盗ですね。酒が盗まれていきます」
亮が徳利を傾けるペースが早くなる。
「直君、大阪は『食い倒れ』と言いますが、これは『飲み倒れ』の街でもありますね」
「せや。江戸時代、大阪は『天下の台所』やった。全国から最高の食材が集まり、それを加工して江戸へ送った。……つまりな、大阪人は『一番美味いもんの味見役』やったんや。舌が肥えて当然や」
直の歴史語りが熱を帯びてきた。
「ええか、昆布は北前船で北海道から。鰹節は土佐から。それが出会って、大阪で『合わせ出汁』という奇跡が生まれた。これは物流革命が生んだイノベーションなんや!」
四、道頓堀の治水工事と、豹柄の軍団
二時間後。店を出た二人は、完全に出来上がっていた。
道頓堀川の遊歩道「とんぼりリバーウォーク」。ネオンが川面に反射し、サイケデリックな光景を作り出している。
直は、川の手すりに足をかけ(かけようとしてよろけ)、川面に向かって叫んでいた。今の彼は、道頓堀を開削した人物・安井道頓である。
「……ええか! ここを掘るんや! 東横堀川から木津川まで、一直線に通すんや!!」
直が手にしたコンビニの袋(中身は柿の種)を振り回す。
「予算がなんぼかかってもええ! 私財を投げ打ってでも、このミナミを水の都にするんや! ……おい、そこの人足(観光客)! 手を休めるな! 掘れ!」
「直君、そんなに掘ったら地下鉄御堂筋線にぶつかりますよ」
亮は亮で、橋の欄干に寄りかかり、うっとりと川面を見つめていた。彼は今、近松門左衛門の人形浄瑠璃『曽根崎心中』のヒロイン・お初になりきっている。
「……徳兵衛さん……。この世は辛いことばかり……。でも、あなたと一緒なら……」
亮は、通りすがりの巨大な「カニの看板(動くやつ)」に話しかけている。
「……あの方、ハサミを振って私を呼んでいます。……行きます、徳兵衛さん……」
「アホ! それはカニや! 甲殻類と心中するな!」
直が道頓堀開削の手を止めてツッコむ。
その時だった。二人の前に、強烈なオーラを放つ集団が現れた。全員がパンチパーマに豹柄の服、そして自転車(サドルカバーも豹柄)を押している。大阪のおばちゃん軍団である。
「ちょっと兄ちゃんら! ここで何しとんねん! 危ないで!」
リーダー格のおばちゃん(紫色の髪)が、直の背中をバシッと叩いた。
「ぐはっ! ……な、なんや! 無礼者! わしは安井道頓やぞ!」
「道頓? 何言うてんねん。あんた、チャック開いとるで」
「!!」
直が慌てて確認する。開いていた。
「……くっ、不覚! これは通気性を良くするための……当時の最先端ファッションや!」
「アハハハ! おもろい兄ちゃんやな! ほら、これ食べ!」
おばちゃんは、ポケットから「パインアメ」を取り出し、直の手に握らせた。
「……飴? ……かたじけない。これは兵糧丸か?」
一方、亮はおばちゃんBに捕まっていた。
「あんた、シュッとしてるのに、なんでカニに話しかけてんの? 悩みあるんか?」
「……はい。世の無常と、カニのハサミの可動域について考えていました」
「そんなん考えても無駄や! ほら、あんたには『黒飴』あげるわ。元気だし!」
そこから、謎の「路上人生相談」が始まった。直は「安井道頓」として、おばちゃんたちに「最近の商店街の景気」について熱弁を振るい、おばちゃんたちは「スーパー玉出のチラシ」を見せながら反論する。亮は「近松門左衛門」として、おばちゃんたちの「嫁姑問題」を浄瑠璃風に語り聞かせ、涙を誘っていた。
「……語り~明かせば~♪ 嫁の~愚痴~♪ 姑の~小言は~♪ 鬼の~如く~♪」
「せやねん! ほんまウチの姑がな!」
結局、二人はおばちゃんたちから大量の「飴ちゃん」と「みかん」をもらい、意気投合して記念撮影までした。
五、善哉な夜、そして日常へ
夜更け。法善寺横丁に戻ってきた二人。酔いは少し醒めかけているが、足取りはまだ千鳥足だ。
甘味処『夫婦善哉』の前のベンチに座り込む。店はもう閉まっているが、提灯の明かりが優しい。
「……ふぅ。大阪のおばちゃんは、最強の武将やな」
直がもらったパインアメを舐めながら呟く。
「真田幸村も、あのおばちゃんたちには勝てんかったかもしれん」
「ふふ。でも、温かかったですね」
亮は黒飴を口の中で転がす。
「見ず知らずの私たちに、飴をくれて、話を聞いてくれて。……これが『人情』というやつですか」
「せやな。お節介で、やかましくて、でも放っておけない。……やっぱり、大阪はええ街や」
直は空を見上げた。狭い路地の隙間から、月が見える。
「……亮。長い旅やったな。山口からここまで」
「ええ。長かったような、あっという間だったような」
「明日は仕事や。現実に引き戻される」
「直君、憂鬱ですか?」
「いや」
直が立ち上がり、スーツ(ではなく今日は着物だが)の埃を払った。
「充電は完了した。安井道頓の魂と、おばちゃんのパインアメがあれば、今月のノルマくらい達成できる気しかせんわ」
「頼もしいですね。私は……そうですね、図書館で『カニの生態図鑑』を読み直そうと思います」
「仕事しろ、仕事を」
二人は顔を見合わせて笑った。水掛不動が、苔むした顔で静かに二人を見守っている。
「……善哉、善哉(よきかな、よきかな)」
どこからか、そんな声が聞こえた気がした。
「帰ろうか、亮」
「はい、直君。……あ、こっちの道は?」
「そっちは厨房の裏口や! こっちや!」
大阪の夜に、いつものツッコミが響く。凸凹コンビの旅は、ここ大阪を拠点に、まだまだ続いていく。日常という名の、終わらない冒険へ。
(第7話 了)




