山口・岩国~秋芳洞『五連の虹と、地底の吟遊詩人』
一、錦帯橋・算術と幻想のアーチ
山口県、岩国。清流・錦川に架かるその橋は、人類が木材で描きうる最も美しい曲線の一つと言われている。錦帯橋。五つの太鼓橋が連なるその姿は、川面にその影を落とし、まるで長い竜が波打っているかのようだ。
午後一時。湯達 直は、橋のたもとで腕組みをし、感心しきった様子で橋裏を見上げていた。
「……すげえ。なんという構造美や」
直が眼鏡の位置を直す。
「釘を一本も使わずに、木と木の組み合わせ(組木)だけでこのアーチを支えとる。『算盤橋』なんて呼ばれたのもわかるわ。これはもう、物理学と幾何学の勝利や」
直は感極まって、橋の橋脚に抱きつかんばかりの勢いだ。ふと横を見ると、相棒の安木 亮がいない。
「……あいつ、またか」
視線を巡らせると、亮は橋の上――三つ目のアーチの頂点で、なぜか片足立ちをして空を仰いでいた。今日の装いは、藍染めの作務衣に、背中には風呂敷包み。江戸時代の飛脚のような、あるいは修行僧のような出立ちだ。
「……おい! 何やっとんねん! 落ちるぞ!」
直が橋を駆け上がる。この橋は意外と傾斜がきつい。
「あ、直君。見てください」
亮はバランスを崩すことなく、優雅に川面を指差した。
「川面に映る橋と、実像の橋。二つが合わさって、丸い円になっています。……まるで眼鏡のようです。この川は、巨大な眼鏡をかけているのですね」
「お前の眼鏡への執着はわかったから降りろ! 通行の邪魔や!」
直に回収された亮は、河川敷の茶屋で名物『岩国寿司』を買ってもらい、ようやく大人しくなった。押し寿司の一種である岩国寿司は、何層にも具材が重ねられ、別名「殿様寿司」とも呼ばれる豪華なものだ。
「……んんっ。美しい」
亮が四角い寿司を両手で掲げる。
「レンコンの穴から、未来が見えます。酢飯の酸味が、旅の疲れを癒やしてくれる……」
「レンコンは『見通しが良い』縁起物やからな。さっさと食って、次へ行くぞ。山口は広いんや」
二、秋芳洞・黄泉の国への入り口
岩国からバスと電車を乗り継ぎ、県の中央部へ。目指すは、日本最大級のカルスト台地・秋吉台の地下に広がる大鍾乳洞、秋芳洞である。
入り口に立つと、冷気と共に、地球の裂け目のような闇が口を開けていた。
「……寒いな。年中十七度って聞いてたけど、肌感覚が違うわ」
直がジャケットの襟を立てる。
「ここから先は、三億年前の海や。サンゴ礁が隆起して、雨水に削られてできた『時間の迷宮』やぞ」
「三億年……。気が遠くなりますね」
亮が恐る恐る洞窟へ足を踏み入れる。
「直君、ここには『時の番人』が住んでいるに違いありません。うっかり話しかけると、浦島太郎のように老人になってしまうかも……」
洞内は、薄暗い照明に照らされ、不気味かつ幻想的な光景が広がっていた。巨大な石柱、棚田のように広がる「百枚皿」、そして天井から滴り落ちる水滴の音。
ピチャ……、ピチャ……。
「……聞こえますか、直君」
亮が立ち止まり、耳を澄ませる。
「地球の心音です。……それとも、誰かが奥底でピアノを弾いているのでしょうか」
「水音や。……おい、どこ行くねん!」
亮はふらふらと順路を外れかけ、黄金色に輝く巨大な石柱「黄金柱」の前で跪いた。
「……神々しい。これは、地底の王宮の柱ですね。……王よ、迷い込んだ愚かな二人をお許しください……」
「王はおらん!そして俺たちは迷ってない、順路通りや!」
さらに奥へ進むと、天井が高くなり、闇がいっそう濃くなる。亮の様子がおかしくなってきた。
「……直君。あそこの岩陰に、白い狐が見えませんか? 手招きしています。『こっちにお酒があるよ』と……」
「それはただの鍾乳石や! 禁断症状が出るにはまだ早いわ!」
結局、亮は「巌窟王」ごっこを始め、
「待て、しかして希望せよ!」
と叫んで自分の声の反響を楽しんでいた。観光客の子供に「変なおじさんがいる」と指をさされるまで、その即興劇は続いた。
三、湯田温泉・白狐の湯と維新の酒
地底探検を終え、二人が辿り着いたのは山口市の湯田温泉。傷ついた白狐が湯浴みをして傷を治したという伝説が残る、歴史ある温泉地だ。
宿に荷物を置き、温泉で汗(と洞窟の湿気)を流した二人は、温泉街のメインストリートへと繰り出した。時刻は午後七時。 足湯に浸かる観光客の姿や、モダンな和風旅館の灯りが旅情を誘う。
「さあ、山口の夜や。ここは幕末の志士たち、高杉晋作や坂本龍馬、西郷隆盛らが集まって密議を交わした場所でもある」
直は湯上がりの顔を紅潮させ、いつもの歴史スイッチが入っていた。
「彼らが日本の未来を語り合ったその場所で、俺たちもまた、熱く語り合うんや!」
「直君、語るのはいいですが、お腹が空きました。私の胃袋で、一揆が起きそうです」
二人が入ったのは、路地裏にひっそりと佇む割烹居酒屋『長州屋敷』。カウンターの向こうには、生簀があり、何やら平べったい魚が泳いでいる。
「大将! まずは……ふぐや! 山口では『ふく(福)』と呼ぶんやったな。てっさ(刺身)と、唐揚げ! それから地酒を!」
直の注文に、大将がニカッと笑う。
「あいよ。酒は何にする? 『獺祭』、『東洋美人』、『五橋』……ええのが揃っちょるよ」
「全部……と言いたいとこやけど、まずは『東洋美人』の純米大吟醸で!」
運ばれてきたのは、大皿に薄く、透き通るように並べられたふぐの刺身。その美しさは、まるで牡丹の花が開いたようだ。
「……芸術です」
亮が箸を伸ばすのをためらう。
「この薄い身を通して、お皿の絵柄が見えます。……儚い。あまりに儚い」
「感傷に浸っとらんで食え。こうやってな、箸でガバッと二、三枚すくって食べるんが『大人食い』や!」
直が豪快にふぐを口に運ぶ。
「……んんっ!!」
直が目を閉じる。
「この弾力! シコシコとした歯ごたえ! 噛むほどに広がる淡白やけど深い旨味……! そこにポン酢の酸味ともみじおろしの辛味が……!」
亮も一枚、丁寧に口に運ぶ。
「……ふふ。お口の中で魚が跳ねています。淡雪のように消えるかと思いきや、しっかりとした主張がある。……これは、強い意志を持った魚ですね」
そこに『東洋美人』を流し込む。フルーティーで華やかな香りが、ふぐの繊細な味を邪魔せず、むしろ引き立てる。
「……最高や。プーチン大統領も飲んだ酒やぞ、これ。……あぁ、革命の味がする!」
直のボルテージが上がってきた。
四、狂気の詩人と、奇兵隊の決起
一時間後。テーブルには『瓦そば』――熱した瓦の上で茶そばを焼く、山口名物――も並び、徳利の数は二桁に迫ろうとしていた。
直は、ネクタイを鉢巻のように頭に巻き、座布団の上であぐらをかいていた。彼は今、長州藩の風雲児・高杉晋作になっていた。
「……おもろきこともなき世を、おもろく! や!」
直が箸を三味線の撥に見立てて、エア三味線を弾き始めた。
「ベンベン! ええか亮! 既成概念をぶっ壊せ! 俺たちは奇兵隊や! 武士も農民も関係ない、志のある奴が一番偉いんや! ……営業二課の課長なんか怖くないわ!」
「直君、課長の悪口になってますよ。声が大きいです」
一方、亮は亮で、別の憑依現象を起こしていた。山口出身の詩人・中原中也である。彼は虚空を見つめ、少し涙目になりながら、独り言を呟いている。
「……汚れちまった悲しみに……今日も小雪の降りかかる……」
亮は、ふぐの唐揚げの骨を見つめながらポツリと言った。
「……直君。サーカスが来ますよ。ジンタ、ジンタ……。象さんがブランコに乗っています……」
「象はおらん! 象がおるのは徳山の動物園や! ……大将! 『獺祭』の二割三部追加で! 徹底的に磨け! 米も俺たちの魂も!」
直の演説は止まらない。
「明治維新はな、ここから始まったんや!吉田松陰先生の狂気が、弟子たちに伝染して、日本を変えたんや! つまりな、俺たちの狂気もまた、世界を変える可能性があるということや!」
「……狂気。ええ、私には見えます。天井のシミが、ダダイズムの詩に見えます……」
亮は、飲み干した徳利を望遠鏡のようにして、店内を覗いている。
「……あ、あそこのおじ様の頭が、夕暮れのマンホールのように輝いています……」
「失礼やぞ亮! やめろ!」
その時、隣の席で一人飲んでいた初老の男性が、ふふっと笑った。
「元気じゃのう、若いの。松陰先生も、君らくらい騒がしかったかもしれんのう」
「! ……先生!?」
直がバッと振り返り、男性の手を握りしめた。
「先生! 教えてください! 日本の夜明けは近いのですか!? 俺の有給申請は通るのでしょうか!?」
「……知らんがな」
男性は苦笑しつつ、自分のボトルから焼酎を注いでくれた。
「まあ飲みんさい。長州の男は、議論より酒じゃ」
「かたじけない! ……亮、松陰先生から御神酒をいただいたぞ!」
「……ありがたや。先生、私は山羊になりたいのですが、どうすればいいでしょうか」
「君はもう十分ヤギっぽいよ」
夜は更けていく。高杉晋作になりきって
「奇兵隊、前へ!」
とトイレへ行進する直と、中原中也になりきってメニュー表を朗読し、
「これが私の骨だ……」
と割り箸を差し出す亮。湯田温泉の夜は、白狐も呆れて逃げ出すほどの、カオスと熱気に包まれていた。
五、足湯の朝、次なる海へ
翌朝。温泉街の公園にある無料の足湯。
直は、死んでいた。膝を抱え、サングラスをかけ、小刻みに震えている。
「……飲みすぎた。長州の酒は……重い。歴史の重みが、俺の肝臓を圧迫している……」
「あら、直君。おはようございます。顔色が『秋芳洞の岩肌』のようですよ」
亮は今日も無駄に爽やかだった。片手には、名物『外郎』を持っている。
「山口の外郎は、わらび粉を使っているから、もちもちしていて美味しいですね。……直君もいかが?」
「……いらん。固形物はまだ無理や」
直は足湯のお湯をパシャパシャといじる。
「……でも、不思議と気分は悪くない。昨日のあのおっちゃん、去り際に『至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり』って言うてたな……」
「吉田松陰先生の言葉ですね。『誠意を尽くせば、人は必ず動く』」
亮が外郎を飲み込み、遠くを見る。 「酔っ払いにも、真理は宿るのですね」
「……せやな。俺も、来週のプレゼン、誠意だけで乗り切ってみるわ」
直は立ち上がった。足湯のおかげで、少し血色が戻っている。
「さて、亮。本州の端まで来た。ここから先は……」
直が南西の方角を指差す。
「海峡を越えるぞ」 「海峡……関門海峡ですね」
「そうや。その先には、食の都・博多が待っとる。ラーメン、もつ鍋、明太子……! そして屋台の熱気!」
直の目が、再び欲望の光を宿し始めた。
「博多……。菅原道真公が大宰府へ流された地でもありますね。……行きましょう、直君。海の下を歩いて渡れるトンネルがあると聞きました」
「おう、関門トンネル人道や! 県境を跨いで写真撮るぞ!」
二人は荷物を持ち直し、歩き出した。温泉の硫黄の匂いと、微かな後悔、そして新たな土地への期待を胸に。千鳥足の旅路は、いよいよ九州へと上陸する。
(第6話 了)




