姫路『白鷺の迷宮と、生姜醤油の涙』
一、見えているのに辿り着けない城
姫路駅を降り立った瞬間、その威容は目に飛び込んでくる。真正面、大通りの突き当たりに鎮座する、白亜の巨塔。国宝にして世界遺産、姫路城。別名「白鷺城」と呼ばれるその姿は、青空を背景に、今まさに飛び立たんとする白い鳥の如く、圧倒的な美しさで旅人を見下ろしている。
午後三時。湯達 直は、駅前のペデストリアンデッキ(眺望デッキ)で、その絶景を前に頭を抱えていた。
「……嘘やろ。なんでや。一直線やぞ」
直の視線の先には城がある。誰がどう見ても、迷う要素など皆無の一本道だ。しかし、手元のスマートフォンの画面――安木 亮の現在地を示すアイコンは、あろうことか城とは反対方向、駅の南側にあるホテル街の裏路地で点滅していた。
「あのアホ……! 『お城が眩しすぎて直視できない』とか言うて、背を向けて歩き出したんか!? 太陽か!」
直はキャリーケースをコインロッカーに叩き込むと、猛ダッシュで南へ向かった。十五分後。古びた高架下の、昭和の香りが色濃く残る飲み屋街の入り口で、亮は野良猫と会議をしていた。今日の装いは、白大島のような明るいグレーの着物に、山高帽。手にはどこかの土産物屋で買ったであろう、木刀(子供用)が握られている。
「……なるほど、猫殿。この道は『官兵衛の隠し道』というわけですね。あちらへ行けば、黒田家の知恵に触れられると」
「ニャー(餌くれ)」
「亮ッ!!」
直の怒号が路地裏に響く。
「お前、城は北や! 北口から出て、目の前にドーンとあったやろ! なんで高架下の薄暗い方に来るねん!」
亮は驚いて振り返り、ふわりと微笑んだ。
「おや、直君。早かったですね。私は、光あるところには必ず影があると思いまして……。あの白鷺の輝きを支える、影の歴史を探していたのです」
「影はええから表を見ろ! 世界遺産を見ろ! 入場時間が終わってしまうわ!」
直は亮の襟首を掴み、強引に北口へとUターンさせた。
「あ、待ってください。猫殿に別れを……。あぁ、いと無情……」
「無情なんは俺のふくらはぎや!」
二、螺旋の迷宮と、軍師の罠
ようやく大手門をくぐり、城内へ。近づけば近づくほど、姫路城はその圧倒的な質量で迫ってくる。幾重にも重なる屋根、空を突き刺す鯱、そして目が痛くなるほどの白漆喰。
「……ほう」
亮が感嘆の息を漏らす。
「美しい……。これは城ではありませんね。巨大な折り紙です。神様が白い和紙を丁寧に折って、この地に置いたようです」
「折り紙か。ええ感性やな。でもな亮、騙されたらアカンぞ」 直がニヤリと笑い、眼鏡を指で押し上げた。スイッチが入った合図だ。
「この城の美しさは、すべて『殺意』でできとる」 「殺意、ですか?」
「ああ。見ろ、この道。まっすぐ天守閣に向かってるように見えるやろ? でもな、歩いてみるとわかる。右へ行ったり、左へ行ったり、時には下ったり……螺旋状にぐるぐると遠回りをさせられるんや」
直が石垣を愛おしそうに撫でる。
「これは敵を迷わせるための迷路や。攻め手は天守が見えているのに辿り着けない。焦って進むと、四方八方の『狭間』――あの壁の穴から、鉄砲と弓矢の雨あられや。……まさに『美しき処刑台』。それがこの白鷺城の本性なんや」
「……怖いですねえ。直君の解説を聞くと、白い壁が骨の色に見えてきました」
亮は身震いしつつ、天守を見上げた。
「私は、千姫様のことを想いましょう。豊臣家に嫁ぎ、夫を失い、徳川家に戻されて、この城で再婚した悲劇のヒロイン……。彼女が毎夜、西の丸から月を見上げて流した涙が、この城を白く染め上げたのかもしれません」
「ロマンチックやな。でも実際、千姫の持参金(化粧料)十万石のおかげで、この城は増築できたんやけどな」
情緒的な物語を紡ぐ亮と、軍事と経済のリアリズムを語る直。二人は、迷路のような順路(亮にとっては平常運転だが、直にとっても今回は手強い)を進みながら、天守閣の最上階を目指した。
最上階からの眺めは絶景だった。播磨平野が一望でき、南には瀬戸内海が光っている。
「……天下を取った気分や」
直が腕組みをして街を見下ろす。
「秀吉公も、官兵衛も、ここから西国を見据えて戦略を練ったんやな……」
「……私は、鳥になった気分です」
亮は窓枠に手をかけ、風を感じていた。
「このまま飛べそうです。……飛びませんよ、直君、そんなに引っ張らないで」
「お前の場合、本当に飛びそうやから怖いんや!」
三、黒い出汁と、生姜の衝撃
日が暮れた。白かった城がライトアップされ、闇夜に白銀に浮かび上がる頃。二人は、城下町の商店街から一本入った路地にある、赤提灯の店『播磨屋』の暖簾をくぐった。
店内は、仕事帰りのサラリーマンや地元のおっちゃんたちで満席だ。活気ある播州弁が飛び交っている。
「いらっしゃい! 奥の座敷、空いとるで!」
威勢のいい大将の声。二人はちゃぶ台のある小上がりに陣取った。
「さて、姫路の夜といえば……これや」
直がメニューを指差す。「姫路おでん」の文字。
「おでん、ですか。大阪とも京都とも違うのですか?」
「全く違う。……大将! おでん盛り合わせ! あと、『ひねポン』もな!」
運ばれてきたおでんは、見た目は普通だった。大根、厚揚げ、ごぼう天、牛すじ。しかし、小皿に付いてきたものが違った。すりおろした生姜がたっぷり入った、醤油だ。
「……生姜醤油?」
亮が不思議そうに見つめる。
「おでんに、生姜ですか。お刺身のように?」
「騙されたと思ってかけてみろ。これが姫路流や」
亮は言われるがまま、大根に生姜醤油を回しかけた。そして一口。
「……!!」
亮の目がカッと見開かれた。
「……衝撃です。優しいお出汁の味の後に、生姜の辛味が雷のように駆け抜けました! ……でも、それが引くと、大根の甘みが一層際立って……。これは、ツンデレですね。千姫様の強い意志を感じます」
「やろ? 姫路は城下町やからな。寒空の下で警備する武士たちが身体を温めるために、生姜を使ったという説もある。……これには、酒や」
直が頼んだのは、地元の銘酒『龍力』の特別純米。播磨地方は、酒米の王様「山田錦」の特A地区を持つ、日本酒の聖地でもある。
ガラスの猪口に注がれた酒を、きゅっと煽る。
「……んぐっ。くぅぅぅぅ!」
直が唸る。
「美味い! 硬派や! 昨日の伏見の酒が『はんなり美人』なら、これは『質実剛健な武士』や! 米の旨味がド直球で殴ってくる!」
「……ああ、いとをかし。生姜のピリピリした余韻を、お酒がどっしりと受け止めてくれます。まるで、じゃじゃ馬娘をなだめる家老のようです……」
そこへ『ひねポン』が到着した。卵を産まなくなった親鳥(ひね鶏)を炙り、ポン酢で和えたものだ。
コリコリとした強い歯ごたえ。噛めば噛むほど染み出す濃厚な旨味。
「……顎が鍛えられますね。これは、戦の携行食のようです」
「この噛みごたえが酒を呼ぶんや。……大将! お代わり! 今度は『八重垣』の熱燗で!」
生姜の発汗作用と、アルコールの熱。 二人の体温とテンションは、急激に上昇していった。
四、籠城戦と、悲劇のヒロイン
二時間が経過した。テーブルの上には、徳利が乱立し、まるで墓標のようになっている。
直は、割り箸の袋を破り、それをテーブルの上に並べて「陣形」を作っていた。彼の目は完全に据わっており、その魂は戦国時代へと飛んでいた。
「……ええか、亮。ここが本丸や。この厚揚げが天守閣や」
直が厚揚げを指差して叫ぶ。
「敵(店員さん)は、あっちの厨房から来る! 補給路を断たれたら終わりや! 籠城戦の覚悟を決めろ!」
「殿、ご安心ください。我が軍には、この『こんにゃく』という名の鉄壁の盾があります」
亮もまた、出来上がっていた。彼は着物の袖をまくり上げ、なぜかおでんの大根に向かって涙ぐんでいる。
「……あぁ、大根どの。あなたはどうしてそんなに白いのですか……。まるで幽閉された千姫様の肌のよう……。生姜醤油という名の運命に染まって……うっ、うっ……」
「亮、泣くな! 士気が下がる!」
直が叱咤する。
「今は官兵衛の策が必要なんや! 水攻めか? いや、酒攻めや!」
直は隣のテーブルの客(地元の工場勤務のおじさんたち)に向かって声を張り上げた。
「そこの援軍! 貴殿らの領地の酒は足りておるか!? 我が軍から『龍力』を一合、贈呈する!」
「おお、兄ちゃん、気前ええな! ほなこっちは『おでんの卵』やるわ!」
「かたじけない! これで兵糧は確保できた!」
店内一体となっての「籠城戦ごっこ」が始まった。直は「軍師・黒田官兵衛」になりきり、店内の配置やトイレへの動線を指示し始めた。
「トイレへ行く者は、必ず二人一組で行け! 忍びが潜んでるかもしれん!」
一方、亮は「悲劇のヒロイン・千姫」になりきっていた。彼は、もらった卵を両手で包み込み、頬ずりをしている。
「……愛しい人……。あなたは秀頼様なのですか……? それとも忠刻様……? まるくて、つるつるで……。あぁ、食べてしまいたいほど愛おしい……」
パクリ。
亮は卵を一口で食べた。
「……あ、食べた」
直がツッコむ。
「愛しい人を一瞬で消化したぞ、この姫君は」
「……美味しい。黄身が、切なさと共に喉に詰まります……。お酒……お酒をください……」
「喉詰まってるだけや! 水飲め!」
カオスは深まるばかりだった。直は「中国大返し」と称して、店の端から端まで高速で移動しようとして座布団につまずき、亮は「万葉集」を詠むような節回しで、メニューを朗読し始めた。
「すーじーにーくー。ちーくーわーぶー。あぁ、いと美味し……。お値段、ひゃく~にじゅう~え~ん~」
大将も苦笑いしつつ、サービスで「おでんの出汁割り(日本酒を出汁で割ったもの)」を出してくれた。
「これで最後やで。これ飲んだら、もう城明け渡し(閉店)や」
「……かたじけない。この出汁の香り……故郷の母を思い出します……(※直の実家は大阪市内)」
二人は出汁割りをすすり、体中の全細胞をおでんと酒で満たして、姫路の夜に沈んでいった。
五、アーモンドの香る朝
翌朝。姫路駅近くの喫茶店。
姫路は、名古屋と並ぶ「モーニング文化」の街だ。朝の光が差し込む店内で、直は死んだ魚のような目でコーヒーを見つめていた。
「……頭の中に、槍を持った足軽が百人くらいおる。全員で脳みそを突っついてくる……」
直の声は枯れていた。昨夜、軍令を叫びすぎたせいだ。
「あら、直君。おはようございます。顔色が『こんにゃく』のようですよ」
亮は、驚くほど爽やかだった。彼の前には、分厚いトーストが置かれている。表面にはアーモンドバターがたっぷりと塗られ、香ばしい焼き色がツイている。姫路名物『アーモンドトースト』だ。
「……なんでお前は食欲があるんや。信じられん」
「甘くて美味しいですよ。アーモンドの粒々が、まるで人生の喜びのようです。……直君も一口どうですか?」
「いらん。俺は今、黒田官兵衛のように幽閉された気分や。有岡城の土牢や……」
直はコーヒーをすする。
「……でも、楽しかったな。姫路の人は、みんなノリが良くて温かかった」
「ええ。お城も美しかったですが、あの赤提灯の灯りも、また一つの『城』でしたね」
亮が微笑み、トーストをサクリとかじった。
直はスマホを取り出し、地図アプリを開く。
「さて……。姫路まで来た。次はどうする? さらに西へ行って岡山か、それとも海を渡って四国か……」
「直君、海が見たいです。もっと広い、キラキラした海が」 「海? ……瀬戸内海か。それなら……」
直の指が、地図上の島を指した。
「淡路島、あるいは小豆島……。いや、いっそ『しまなみ海道』まで足を伸ばすか?」 「『しまなみ』……。良い響きです。島と島をつなぐ橋。まるで、人と人をつなぐ縁のよう」
「よっしゃ。次は海と橋の旅や。自転車に乗れるか知らんけどな」
「自転車? ふふ、私にかかれば、自転車もまた駿馬です」
「絶対こけるなよ。海に落ちるなよ」
店を出ると、振り返った先に姫路城が見えた。朝の光を浴びて、白鷺は昨日よりもさらに白く、輝いているように見えた。
「また来るよ、官兵衛」 「ごきげんよう、千姫様」
二人は一礼し、西へ向かう列車へと足を向けた。
千鳥足の旅路は、潮風の香りを求めて続いていく。
(第4話 了)




