神戸・元町『ハイカラ煉瓦と琥珀のジャズ』
一、海を探して、山へ登る
神戸。北に六甲の山並みがそびえ、南に大阪湾が広がるこの街は、日本で最も「ハイカラ」な風が吹く場所である。
午後五時。神戸のランドマーク、ポートタワーの朱色が夕陽に映えるメリケンパーク。潮風に吹かれながら、湯達 直は海を睨みつけていた。いや、正確には、スマホの地図アプリを睨みつけていた。
「……ありえへん。なんでや。神戸で迷う奴がおるか?」
神戸の地理は単純明快だ。「海側」か「山側」か。この二つさえ把握していれば、方向音痴でも迷いようがない――はずだった。しかし、直のスマホに表示された安木 亮の現在地アイコンは、海とは正反対の北、新神戸駅のさらに裏山、「布引の滝」付近で点滅していた。
「あのアホ……。『海が見たい』言うてたよな? なんでマイナスイオン浴びとんねん! 逆や、高低差でわかれよ!」
直はタクシーを拾い、山側へと急行した。北野の異人館街を抜け、山道を少し登った展望台。眼下に神戸の百万ドルの夜景(の予兆)が広がるその場所で、亮はベンチに腰掛け、優雅に文庫本を読んでいた。今日のファッションは、ツイードのジャケットに蝶ネクタイ、そして下駄という「大正ロマン」スタイルだ。
「亮ッ!!」
直が息を切らして駆け寄る。
「お前、ここがどこかわかっとんのか! 猪が出るぞ!」
「あ、直君。ごきげんよう」
亮は本を閉じ、うっとりとした表情で眼下の街を指差した。
「見てください。あの街の灯り……。まるで、天の川が地上に降りてきたようです。『天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも』……。阿倍仲麻呂も、異国の地でこんな風に故郷を思ったのでしょうか」
「ここ、日本や。兵庫県や。三宮から徒歩三十分や」
直はネクタイを緩め、盛大にため息をついた。
「お前、海に行く言うたやろ。なんで山登ってんねん」
「いやあ、海を探して『高いところに行けば見えるはず』と思って歩いていたら、いつの間にか木々に囲まれていまして。でも、結果オーライです。ここから見る神戸は、まるで宝石箱をひっくり返したよう。……直君、私たちがこれから行く街は、あの中にあるのですね」
「そうや。あの中にある『旧居留地』や。……はぁ。降りるぞ。ロープウェイに乗る金なんかないからな、徒歩や」
二、ガス灯の下、文明開化の音がする
山を下り、北野の坂道を抜けて、二人は中心街へと歩みを進めた。すっかり日が暮れ、街にはガス灯を模した街灯が灯り始めている。
神戸・旧居留地。かつて外国人のための居住・通商区として整備されたこのエリアは、整然とした碁盤の目の区画と、重厚な石造りや煉瓦造りのビルが並ぶ、日本離れした景観を残している。
「……ほう。空気が変わりました」
亮が眼鏡の位置を直し、周囲を見回す。
「大阪の熱気とも、京都の幽玄とも違う。石畳の冷たさと、コーヒーの香り……。直君、ここには『寂しさ』のようなものが漂っていますね」
「寂しさ?」
「ええ。異国から来た人々が、遠い故郷を想って建てた街だからでしょうか。煉瓦の一つ一つに、望郷の念が染み込んでいる気がします。……いとをかし、ならぬ、いとハイカラ、ですね」
直は、重厚なビル――「商船三井ビル」のあたりで足を止めた。その目は、いつもの「歴史解説モード」の鋭さを帯びている。
「亮、お前の言う『寂しさ』もわからんでもないが、俺にはここが『戦場』に見える」 「戦場、ですか? こんなにお洒落なのに」
「ああ。幕末、神戸港が開港した時、日本は圧倒的に不利な不平等条約を結ばされていた。関税自主権もない、治外法権もある。そんな中で、日本の商人や外交官たちは、この居留地の外国人たちと渡り合わなアカンかったんや」
直がビルの石壁を、愛おしそうに、かつ力強く撫でる。
「初代兵庫県知事、伊藤博文。彼はこの街を国際都市にするために奔走した。この整然とした街区、下水道の整備、すべてが『日本は野蛮な国ちゃうぞ、文明国やぞ』と世界に知らしめるためのデモンストレーションやったんや。……ここにあるのはな、ただのお洒落なデザインちゃう。明治の日本人たちの『ナメられてたまるか!』という意地とプライドの結晶なんや!」
亮は、直の熱弁を聞きながら、ふわりと微笑んだ。
「なるほど。直君には、煉瓦の赤色が、先人たちの情熱の炎に見えているのですね」
「……ま、そういうことや。そんな先人たちの闘いがあったからこそ、俺たちは今から美味い飯が食えるんや」
直がニヤリと笑った。
「行くぞ、亮。今日のメインディッシュは、文明開化の味がするアレや」
三、血の滴る「ビフカツ」と、赤ワインの洗礼
二人が入ったのは、元町商店街の路地裏にある、創業六十年の洋食店『グリル・アカレンガ』だった。地下へと続く階段を降りると、カランコロン、と真鍮のドアベルが鳴る。店内は飴色に変色した木の壁、赤いベルベットの椅子、そして白いテーブルクロス。蝶ネクタイをした初老のギャルソンが、慇懃に席へと案内してくれた。
「……タイムスリップしたようですね。昭和モダン、あるいは大正ロマン……」
亮がキョロキョロと店内を見渡す。
「直君、ここでは『カレーライス』ではなく『ライスカレー』と呼ぶべき雰囲気です」
「今日はカレーちゃうぞ。神戸に来たらこれや」
直がメニューも見ずに注文する。
「ビフカツ、二つ。あと、神戸ワインの赤をボトルで」
しばらくして運ばれてきたのは、白い皿に鎮座する芸術品だった。
ビフカツ(ビーフカツレツ)。
薄い衣をまとった牛肉は、中心が鮮やかなレア――バラ色に残されている。その上から、黒光りするデミグラスソースがたっぷりとかかっている。付け合わせはキャベツではなく、茹でた人参とインゲン、そしてポテトサラダだ。
「……美しい」
亮がため息をつく。
「衣の狐色と、お肉の紅色のコントラスト。まるで秋の紅葉のようです」
「御託はええから食え。熱いうちが華や」
亮はナイフを入れる。驚くほど抵抗がない。サクッ、という衣の音と共に、肉が解けるように切れる。一口、口に運ぶ。
「……!!」
亮の目が大きく見開かれた。
「……消えました。いえ、溶けました。衣の香ばしさが来たかと思ったら、お肉の甘い脂がじゅわっと溢れて……そして、このソース! なんという深みでしょう。ほろ苦くて、甘くて、少し酸味があって……」
「それがデミグラスソースや。一週間煮込んで継ぎ足してる命のソースや」
直も一切れ頬張り、直後に赤ワインをグラスに注ぐ。
「そこに、この神戸ワインを流し込む……!」
カチン、とグラスを合わせる。ワインを含んだ直が、天を仰いだ。
「くぅぅぅ……! マリアージュ! いや、これは『条約締結』や! 牛肉という西洋の文化と、神戸の土地で育った葡萄が、俺の口の中で日米修好通商条約を結びよった!」
「直君、例えが固いです。……でも、わかります。このお肉の鉄分と、ワインの渋み(タンニン)が、手を取り合ってダンスを踊っています。……あぁ、いとをかし。文明開化の音が、咀嚼音として聞こえてきます……」
二人は無言でビフカツに向き合った。
サクッ、ジュワッ、ゴクリ。
そのリズムは、日本の近代化を推し進めた蒸気機関車のピストンのように、力強く、そして止まることを知らなかった。
ボトルが空になる頃には、二人の頬はビフカツのレア部分と同じくらい、鮮やかな薔薇色に染まっていた。
四、ジャズと和歌のジャムセッション
「……ウィー。足元が……揺れてますねえ。ここは船の上ですか?」
「アホ言え。ここは北野坂や。地面が斜めなだけや」
二軒目。二人は千鳥足で、北野のハンター坂にある老舗のジャズバー『ミッドナイト・ハーバー』の重い扉を開けた。紫煙(今は電子タバコの蒸気だが)が漂う薄暗い店内。カウンターの奥には、夥しい数のボトルが並び、ステージではピアノとサックスのデュオが生演奏を披露している。曲は『Take Five』。
カウンターの中にいたのは、白髭を蓄えたダンディなマスターだった。まるで引退した船長のような風貌だ。
「いらっしゃい。……お二人さん、ええ色になってはるな」
「マスター、ウイスキーを。スコッチ……いや、バーボンや。アメリカの風を感じたい」
直がカウンターに突っ伏すように注文する。
「私は……そうですね、このピアノの音色に合う、涙の味のカクテルを」
亮がキザなセリフを吐くが、眼鏡が完全に曇っているため締まらない。
「かしこまりました。『ブルームーン』あたりにしておきましょうか」
グラスが置かれる。琥珀色の液体と、すみれ色の液体。アルコール度数が高い酒が入り、二人の理性のタガは完全に外れた。
「……あぁ。ジャズ……。ジャズはいいですねえ」
亮がグラスを揺らしながら、恍惚とした表情で呟く。
「この不規則なリズム。即興のメロディ。これはまさに、平安の『連歌』と同じ魂を感じます」
「連歌? ジャズが?」
直が絡む。
「お前、何でも古典に結びつけるなよ。ジャズはもっとこう、ニューオリンズの魂やろ!」
「いいえ、直君。聞いてください。あのサックスの音色……あれは、鹿の鳴き声です」
亮は立ち上がりかけた。
「『奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき』……。ほら、聞こえませんか? サックスが『悲しき~』と歌っています」
「聞こえるか! アレはどう聞いても『パッパラ~』やろ!」
しかし、亮は止まらない。演奏が終わったタイミングで、パチパチと拍手しながらピアニストに話しかけた。
「ブラボー。いとをかし。……あの、リクエストしてもいいですか? 『難波津に 咲くやこの花 冬ごもり』のコード進行でお願いします」
ピアニストが苦笑いする中、直がドバンとカウンターを叩いた。
「甘い! 亮、お前の解釈は甘い! ジャズとは、自由への叫びや! そして自由貿易や!」
直もまた、自分の世界に入り込んでいた。彼は今、明治時代の「貿易商」になっていた。
「マスター!このバーボンの関税はどないなっとる!? 不当に高くないか!? 俺は断固として撤廃を要求する!領事裁判権の撤廃と、ボトルのキープ権を要求する!」
「お客さん、うちはノーチャージですけど」
マスターが冷静に返す。
「ノーチャージ……? 関税なしか!? 素晴らしい! さすが自由港神戸や! ならば、この店の酒をすべて買い占めよう! 日本の国益のために!」
「直君、そんなに飲んだら、お腹が鎖国してしまいますよ」
混沌が深まる。亮はサックスの音に合わせて
「あぁ~、あはれ~、もののあはれ~」
と即興で詩吟のようなスキャットを始め、直は隣に座っていたカップルに
「君たち! 日本の生糸の相場についてどう思う!?」
と熱く問いかけている。
見かねたマスターが、ニヤリと笑って、直の前に一枚のコースターを置いた。
「社長、契約書ですわ。ここにサインしてくれたら、特別に関税フリーにしたげます」
「おお! 話がわかる! さすがキャプテン!」
直は万年筆(亮から借りた)で、コースターに豪快にサインをした。 『天下布武 湯達 直』と。
「……直君、それ、信長の印鑑の言葉ですよ」
「うるさい! 俺は今、神戸から天下を狙うんや!」
夜更けの神戸に、サックスの咽び泣く音と、二人のわけのわからない演説と朗読が響き渡った。それは、ハイカラで、ナンセンスで、最高に愛すべき夜だった。
五、港の朝、カモメの嘲笑
翌朝。ポートタワーの足元、メリケンパークのベンチ。
潮風が冷たい。カモメが「クワッ、クワッ」と笑うように鳴いている。
「……オエッ」
直は、手すりに捕まって海に向かってえづいていた。
「……揺れてる。まだ地面が揺れてる。神戸はいつから船の上になったんや……」
「直君、大丈夫ですか。お水をどうぞ」
隣の亮は、今日もまた涼しい顔をしている。潮風で少し髪が乱れているが、それがかえって文学青年の風情を醸し出しているのが腹立たしい。
「……お前、なんでいつも無事なんや。昨日の記憶あるか?」
「ええ、断片的に。ジャズの生演奏に合わせて、紫式部の気持ちをフリースタイルで歌ったところまでは覚えています。とても気持ちよかった」
「……最悪や。店出禁になってへんかな」
直はポケットを探る。中から、一枚のコースターが出てきた。昨夜、自分がサインした『天下布武』のコースターだ。裏にはマスターの字で『また来てね、社長』と書かれている。
「……ふっ。粋なマスターやな」
直は少しだけ笑い、頭痛をこらえて背筋を伸ばした。
「まあええ。神戸の夜も、制圧完了ということにしておこう」
「はい。ビフカツもジャズも、いとをかし、でした。……さて、直君」
亮がキラキラした目で、西の方角を指差した。
「次は、もっと西へ行きませんか? 白亜の城が呼んでいます」
「……白亜の城? まさか、姫路か?」
「はい。世界遺産、姫路城。別名・白鷺城。あの美しい城壁の下で、千姫の悲恋に思いを馳せながら、播磨の地酒を飲む……。最高だと思いませんか?」
直の目の色が、二日酔いの濁りから、再びマニアの輝きへと変わる。
「姫路城……! ええな。現存十二天守の至宝。秀吉公、池田輝政、そして黒田官兵衛ゆかりの地……! あの『扇の勾配』と呼ばれる石垣の曲線美について語り明かすには、一晩じゃ足らんぞ!」
「ふふ、決まりですね。では、山陽電車に乗って……」
「JR新快速や! 時間短縮や! 今すぐ行くぞ!」
「あ、直君、待ってください。私の下駄の鼻緒が……」
港町・神戸の朝陽を背に、凸凹コンビはまた歩き出す。歴史とロマン、そして美味い酒を求めて。千鳥足の旅路は、まだまだ西へと続いていく。
(第3話 了)
・元町『ハイカラ煉瓦と琥珀のジャズ』
一、海を探して、山へ登る
神戸。北に六甲の山並みがそびえ、南に大阪湾が広がるこの街は、日本で最も「ハイカラ」な風が吹く場所である。
午後五時。神戸のランドマーク、ポートタワーの朱色が夕陽に映えるメリケンパーク。潮風に吹かれながら、湯達 直は海を睨みつけていた。いや、正確には、スマホの地図アプリを睨みつけていた。
「……ありえへん。なんでや。神戸で迷う奴がおるか?」
神戸の地理は単純明快だ。「海側」か「山側」か。この二つさえ把握していれば、方向音痴でも迷いようがない――はずだった。しかし、直のスマホに表示された安木 亮の現在地アイコンは、海とは正反対の北、新神戸駅のさらに裏山、「布引の滝」付近で点滅していた。
「あのアホ……。『海が見たい』言うてたよな? なんでマイナスイオン浴びとんねん! 逆や、高低差でわかれよ!」
直はタクシーを拾い、山側へと急行した。北野の異人館街を抜け、山道を少し登った展望台。眼下に神戸の百万ドルの夜景(の予兆)が広がるその場所で、亮はベンチに腰掛け、優雅に文庫本を読んでいた。今日のファッションは、ツイードのジャケットに蝶ネクタイ、そして下駄という「大正ロマン」スタイルだ。
「亮ッ!!」
直が息を切らして駆け寄る。
「お前、ここがどこかわかっとんのか! 猪が出るぞ!」
「あ、直君。ごきげんよう」
亮は本を閉じ、うっとりとした表情で眼下の街を指差した。
「見てください。あの街の灯り……。まるで、天の川が地上に降りてきたようです。『天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも』……。阿倍仲麻呂も、異国の地でこんな風に故郷を思ったのでしょうか」
「ここ、日本や。兵庫県や。三宮から徒歩三十分や」
直はネクタイを緩め、盛大にため息をついた。
「お前、海に行く言うたやろ。なんで山登ってんねん」
「いやあ、海を探して『高いところに行けば見えるはず』と思って歩いていたら、いつの間にか木々に囲まれていまして。でも、結果オーライです。ここから見る神戸は、まるで宝石箱をひっくり返したよう。……直君、私たちがこれから行く街は、あの中にあるのですね」
「そうや。あの中にある『旧居留地』や。……はぁ。降りるぞ。ロープウェイに乗る金なんかないからな、徒歩や」
二、ガス灯の下、文明開化の音がする
山を下り、北野の坂道を抜けて、二人は中心街へと歩みを進めた。すっかり日が暮れ、街にはガス灯を模した街灯が灯り始めている。
神戸・旧居留地。かつて外国人のための居住・通商区として整備されたこのエリアは、整然とした碁盤の目の区画と、重厚な石造りや煉瓦造りのビルが並ぶ、日本離れした景観を残している。
「……ほう。空気が変わりました」
亮が眼鏡の位置を直し、周囲を見回す。
「大阪の熱気とも、京都の幽玄とも違う。石畳の冷たさと、コーヒーの香り……。直君、ここには『寂しさ』のようなものが漂っていますね」
「寂しさ?」
「ええ。異国から来た人々が、遠い故郷を想って建てた街だからでしょうか。煉瓦の一つ一つに、望郷の念が染み込んでいる気がします。……いとをかし、ならぬ、いとハイカラ、ですね」
直は、重厚なビル――「商船三井ビル」のあたりで足を止めた。その目は、いつもの「歴史解説モード」の鋭さを帯びている。
「亮、お前の言う『寂しさ』もわからんでもないが、俺にはここが『戦場』に見える」 「戦場、ですか? こんなにお洒落なのに」
「ああ。幕末、神戸港が開港した時、日本は圧倒的に不利な不平等条約を結ばされていた。関税自主権もない、治外法権もある。そんな中で、日本の商人や外交官たちは、この居留地の外国人たちと渡り合わなアカンかったんや」
直がビルの石壁を、愛おしそうに、かつ力強く撫でる。
「初代兵庫県知事、伊藤博文。彼はこの街を国際都市にするために奔走した。この整然とした街区、下水道の整備、すべてが『日本は野蛮な国ちゃうぞ、文明国やぞ』と世界に知らしめるためのデモンストレーションやったんや。……ここにあるのはな、ただのお洒落なデザインちゃう。明治の日本人たちの『ナメられてたまるか!』という意地とプライドの結晶なんや!」
亮は、直の熱弁を聞きながら、ふわりと微笑んだ。
「なるほど。直君には、煉瓦の赤色が、先人たちの情熱の炎に見えているのですね」
「……ま、そういうことや。そんな先人たちの闘いがあったからこそ、俺たちは今から美味い飯が食えるんや」
直がニヤリと笑った。
「行くぞ、亮。今日のメインディッシュは、文明開化の味がするアレや」
三、血の滴る「ビフカツ」と、赤ワインの洗礼
二人が入ったのは、元町商店街の路地裏にある、創業六十年の洋食店『グリル・アカレンガ』だった。地下へと続く階段を降りると、カランコロン、と真鍮のドアベルが鳴る。店内は飴色に変色した木の壁、赤いベルベットの椅子、そして白いテーブルクロス。蝶ネクタイをした初老のギャルソンが、慇懃に席へと案内してくれた。
「……タイムスリップしたようですね。昭和モダン、あるいは大正ロマン……」
亮がキョロキョロと店内を見渡す。
「直君、ここでは『カレーライス』ではなく『ライスカレー』と呼ぶべき雰囲気です」
「今日はカレーちゃうぞ。神戸に来たらこれや」
直がメニューも見ずに注文する。
「ビフカツ、二つ。あと、神戸ワインの赤をボトルで」
しばらくして運ばれてきたのは、白い皿に鎮座する芸術品だった。
ビフカツ(ビーフカツレツ)。
薄い衣をまとった牛肉は、中心が鮮やかなレア――バラ色に残されている。その上から、黒光りするデミグラスソースがたっぷりとかかっている。付け合わせはキャベツではなく、茹でた人参とインゲン、そしてポテトサラダだ。
「……美しい」
亮がため息をつく。
「衣の狐色と、お肉の紅色のコントラスト。まるで秋の紅葉のようです」
「御託はええから食え。熱いうちが華や」
亮はナイフを入れる。驚くほど抵抗がない。サクッ、という衣の音と共に、肉が解けるように切れる。一口、口に運ぶ。
「……!!」
亮の目が大きく見開かれた。
「……消えました。いえ、溶けました。衣の香ばしさが来たかと思ったら、お肉の甘い脂がじゅわっと溢れて……そして、このソース! なんという深みでしょう。ほろ苦くて、甘くて、少し酸味があって……」
「それがデミグラスソースや。一週間煮込んで継ぎ足してる命のソースや」
直も一切れ頬張り、直後に赤ワインをグラスに注ぐ。
「そこに、この神戸ワインを流し込む……!」
カチン、とグラスを合わせる。ワインを含んだ直が、天を仰いだ。
「くぅぅぅ……! マリアージュ! いや、これは『条約締結』や! 牛肉という西洋の文化と、神戸の土地で育った葡萄が、俺の口の中で日米修好通商条約を結びよった!」
「直君、例えが固いです。……でも、わかります。このお肉の鉄分と、ワインの渋み(タンニン)が、手を取り合ってダンスを踊っています。……あぁ、いとをかし。文明開化の音が、咀嚼音として聞こえてきます……」
二人は無言でビフカツに向き合った。
サクッ、ジュワッ、ゴクリ。
そのリズムは、日本の近代化を推し進めた蒸気機関車のピストンのように、力強く、そして止まることを知らなかった。
ボトルが空になる頃には、二人の頬はビフカツのレア部分と同じくらい、鮮やかな薔薇色に染まっていた。
四、ジャズと和歌のジャムセッション
「……ウィー。足元が……揺れてますねえ。ここは船の上ですか?」
「アホ言え。ここは北野坂や。地面が斜めなだけや」
二軒目。二人は千鳥足で、北野のハンター坂にある老舗のジャズバー『ミッドナイト・ハーバー』の重い扉を開けた。紫煙(今は電子タバコの蒸気だが)が漂う薄暗い店内。カウンターの奥には、夥しい数のボトルが並び、ステージではピアノとサックスのデュオが生演奏を披露している。曲は『Take Five』。
カウンターの中にいたのは、白髭を蓄えたダンディなマスターだった。まるで引退した船長のような風貌だ。
「いらっしゃい。……お二人さん、ええ色になってはるな」
「マスター、ウイスキーを。スコッチ……いや、バーボンや。アメリカの風を感じたい」
直がカウンターに突っ伏すように注文する。
「私は……そうですね、このピアノの音色に合う、涙の味のカクテルを」
亮がキザなセリフを吐くが、眼鏡が完全に曇っているため締まらない。
「かしこまりました。『ブルームーン』あたりにしておきましょうか」
グラスが置かれる。琥珀色の液体と、すみれ色の液体。アルコール度数が高い酒が入り、二人の理性のタガは完全に外れた。
「……あぁ。ジャズ……。ジャズはいいですねえ」
亮がグラスを揺らしながら、恍惚とした表情で呟く。
「この不規則なリズム。即興のメロディ。これはまさに、平安の『連歌』と同じ魂を感じます」
「連歌? ジャズが?」
直が絡む。
「お前、何でも古典に結びつけるなよ。ジャズはもっとこう、ニューオリンズの魂やろ!」
「いいえ、直君。聞いてください。あのサックスの音色……あれは、鹿の鳴き声です」
亮は立ち上がりかけた。
「『奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき』……。ほら、聞こえませんか? サックスが『悲しき~』と歌っています」
「聞こえるか! アレはどう聞いても『パッパラ~』やろ!」
しかし、亮は止まらない。演奏が終わったタイミングで、パチパチと拍手しながらピアニストに話しかけた。
「ブラボー。いとをかし。……あの、リクエストしてもいいですか? 『難波津に 咲くやこの花 冬ごもり』のコード進行でお願いします」
ピアニストが苦笑いする中、直がドバンとカウンターを叩いた。
「甘い! 亮、お前の解釈は甘い! ジャズとは、自由への叫びや! そして自由貿易や!」
直もまた、自分の世界に入り込んでいた。彼は今、明治時代の「貿易商」になっていた。
「マスター!このバーボンの関税はどないなっとる!? 不当に高くないか!? 俺は断固として撤廃を要求する!領事裁判権の撤廃と、ボトルのキープ権を要求する!」
「お客さん、うちはノーチャージですけど」
マスターが冷静に返す。
「ノーチャージ……? 関税なしか!? 素晴らしい! さすが自由港神戸や! ならば、この店の酒をすべて買い占めよう! 日本の国益のために!」
「直君、そんなに飲んだら、お腹が鎖国してしまいますよ」
混沌が深まる。亮はサックスの音に合わせて
「あぁ~、あはれ~、もののあはれ~」
と即興で詩吟のようなスキャットを始め、直は隣に座っていたカップルに
「君たち! 日本の生糸の相場についてどう思う!?」
と熱く問いかけている。
見かねたマスターが、ニヤリと笑って、直の前に一枚のコースターを置いた。
「社長、契約書ですわ。ここにサインしてくれたら、特別に関税フリーにしたげます」
「おお! 話がわかる! さすがキャプテン!」
直は万年筆(亮から借りた)で、コースターに豪快にサインをした。 『天下布武 湯達 直』と。
「……直君、それ、信長の印鑑の言葉ですよ」
「うるさい! 俺は今、神戸から天下を狙うんや!」
夜更けの神戸に、サックスの咽び泣く音と、二人のわけのわからない演説と朗読が響き渡った。それは、ハイカラで、ナンセンスで、最高に愛すべき夜だった。
五、港の朝、カモメの嘲笑
翌朝。ポートタワーの足元、メリケンパークのベンチ。
潮風が冷たい。カモメが「クワッ、クワッ」と笑うように鳴いている。
「……オエッ」
直は、手すりに捕まって海に向かってえづいていた。
「……揺れてる。まだ地面が揺れてる。神戸はいつから船の上になったんや……」
「直君、大丈夫ですか。お水をどうぞ」
隣の亮は、今日もまた涼しい顔をしている。潮風で少し髪が乱れているが、それがかえって文学青年の風情を醸し出しているのが腹立たしい。
「……お前、なんでいつも無事なんや。昨日の記憶あるか?」
「ええ、断片的に。ジャズの生演奏に合わせて、紫式部の気持ちをフリースタイルで歌ったところまでは覚えています。とても気持ちよかった」
「……最悪や。店出禁になってへんかな」
直はポケットを探る。中から、一枚のコースターが出てきた。昨夜、自分がサインした『天下布武』のコースターだ。裏にはマスターの字で『また来てね、社長』と書かれている。
「……ふっ。粋なマスターやな」
直は少しだけ笑い、頭痛をこらえて背筋を伸ばした。
「まあええ。神戸の夜も、制圧完了ということにしておこう」
「はい。ビフカツもジャズも、いとをかし、でした。……さて、直君」
亮がキラキラした目で、西の方角を指差した。
「次は、もっと西へ行きませんか? 白亜の城が呼んでいます」
「……白亜の城? まさか、姫路か?」
「はい。世界遺産、姫路城。別名・白鷺城。あの美しい城壁の下で、千姫の悲恋に思いを馳せながら、播磨の地酒を飲む……。最高だと思いませんか?」
直の目の色が、二日酔いの濁りから、再びマニアの輝きへと変わる。
「姫路城……! ええな。現存十二天守の至宝。秀吉公、池田輝政、そして黒田官兵衛ゆかりの地……! あの『扇の勾配』と呼ばれる石垣の曲線美について語り明かすには、一晩じゃ足らんぞ!」
「ふふ、決まりですね。では、山陽電車に乗って……」
「JR新快速や! 時間短縮や! 今すぐ行くぞ!」
「あ、直君、待ってください。私の下駄の鼻緒が……」
港町・神戸の朝陽を背に、凸凹コンビはまた歩き出す。歴史とロマン、そして美味い酒を求めて。千鳥足の旅路は、まだまだ西へと続いていく。
(第3話 了)




