滋賀・近江『マザーレイクの抱擁と、発酵する遺伝子』
一、大津・ここは海か、湖か
三月某日。京都駅からJR琵琶湖線に乗って、わずか十分。トンネルを抜けると、車窓いっぱいに「青」が広がった。大津駅。滋賀県の県庁所在地であり、日本最大の湖・琵琶湖の南端に位置する街だ。
午前十時。湯達 直は、駅からなだらかな坂を下り、湖岸の「なぎさ公園」に立っていた。対岸が霞んで見えないほどの広がり。打ち寄せる波の音。
「……デカい。何度見ても、これ海やろ。対岸が見えへん」
直は今日、湖畔の風に備えてウインドブレーカーを羽織り、バックパックを背負ったアクティブな装いだ。しかし、隣の男は、またしても周囲の視線を独占していた。
「……ヨーソロー! 面舵いっぱーい!」
相棒の安木 亮である。頭には船長がかぶるような白いキャプテンハット。首からは双眼鏡を下げ、なぜか救命胴衣を着用し、手には釣り竿を持っている。
「……おい、キャプテン。遭難する気満々か」
直が冷ややかに突っ込む。
「ここは湖や。遊覧船に乗る予定はあるけど、お前が操縦するわけちゃうぞ」
亮は双眼鏡で湖面を覗き込みながら、真顔で答えた。
「直君、認識を改めてください。ここはただの湖ではありません。『マザーレイク』です。近畿一四五〇万人の命を支える母なる水。……私は今、母の懐に抱かれる赤子として、最大限の敬意を表しているのです」
「赤子がキャプテンハット被るな。ややこしいわ」
二人は湖岸を歩く。釣り人が糸を垂れ、散歩する犬が楽しげに走る。滋賀の時間は、京都のそれとは違う、ゆったりとしたペースで流れている気がした。
「……直君、水が良いですね。空気が瑞々しい」
亮が深呼吸する。
「京都の料理が美味しいのも、この琵琶湖の水が京都へ流れているからです。つまり、滋賀は京都のスポンサーなのです。もっと威張っていいはずです」 「滋賀県民がよく言うやつな。『琵琶湖の水止めたろか!』って」
二、長浜・黒壁スクエアと焼鯖そうめん
大津から電車で北上し、長浜へ。豊臣秀吉が初めて城持ち大名となり開いた城下町だ。黒漆喰の和風建築と、明治時代の洋風建築が混在する観光スポット「黒壁スクエア」を散策する。
ガラス細工の店や雑貨屋が並ぶレトロな街並み。しかし、二人の目的は「花より団子」、いや「ガラスより鯖」だ。
湖北地方の郷土料理、「焼鯖そうめん」の名店『翼果楼』へ。築百五〇年以上の商家を改装した店内は、重厚な雰囲気が漂う。
運ばれてきたのは、汁のないそうめんの上に、大きな焼鯖の煮付けがドカンと鎮座した一皿。
「……インパクトがすごい」
直が鯖を見つめる。
「そうめんといえば、冷たいつゆで食べる『あっさり』の代名詞やけど、これは真逆や。茶色一色や」
亮が箸を入れる。鯖は、箸で簡単にほぐれるほど柔らかく煮込まれている。
「……骨までいけます」
亮が鯖を口へ。
「……甘辛い! 濃厚な醤油と砂糖の味が、鯖の脂と一体化しています。そして、その旨味を吸い込んだそうめんが……」
直も麺をすする。
「……うまっ!! なんやこれ! 麺自体には味付けせず、鯖の煮汁だけで食わせるんか。そうめんが煮汁を吸って、モチモチになっとる。……これは、おかずや。白飯が欲しくなるそうめんや」
亮は、昼酒として地酒『七本鎗』を注文していた。賤ヶ岳の七本槍にちなんだ、どっしりとした味わいの酒だ。
「……合います」
亮が杯を干す。
「甘辛い鯖の脂を、力強い純米酒が受け止める。……直君、これは『農民の酒』ではなく『武士の酒』です。戦の前の腹ごしらえのような、野太いエネルギーを感じます」
「ただの昼酒やけどな。……でも、この組み合わせは危険や。止まらん」
三、赤こんにゃくとサラダパンの洗礼
食後の散歩がてら、地元スーパー『平和堂』へ潜入。地元の生活を知るには、スーパーに行くのが一番だ。そこで二人は、滋賀ならではの奇食(?)に出会う。
まずは、「赤こんにゃく」。派手な赤色をしているが、唐辛子の色ではなく、三二酸化鉄で着色されているため辛くはない。織田信長が派手好きで赤くさせたという説もある。
「……シャア専用ザクの色です」
亮がパックを手に取る。
「通常の三倍の弾力があるのでしょうか」
そして、滋賀県民のソウルフード「サラダパン」。コッペパンの中に、マヨネーズで和えた「たくあん」が入っているという、文字面だけ見ると狂気を感じるパンだ。
直が購入し、近くのベンチで実食。
パクリ。ポリポリ……。
「……!」
直が笑い出す。
「……意外と美味い! たくあんのポリポリした食感が、いいアクセントになっとる。マヨネーズの酸味と、パンの甘みが、たくあんの塩気を中和して……不思議なバランスや」
亮も一口。
「……直君。これは『偏見』への挑戦状です。『パンに漬物なんて合うわけない』という常識を、食感とマヨネーズという暴力でねじ伏せている。……ロックです」
四、近江牛・日本最古のブランド牛の実力
夕刻。電車で近江八幡エリアへ移動。水郷めぐりの風情ある景色を眺めた後、いよいよ今夜のメインイベント第一弾へ。近江牛である。神戸牛、松阪牛と並ぶ三大和牛の一つであり、その歴史は四〇〇年以上と最も古い。江戸時代、薬(養生肉)として将軍家に献上されていた由緒ある肉だ。
老舗の専門店『毛利志満』へ。格式高い門構えに、亮がキャプテンハットを脱いで襟を正す。
「……直君、ここからは『陸』の戦いです。胃袋のシートベルトを締めてください」
注文したのは、王道の「すき焼き」。滋賀のすき焼きは、関西風(肉を焼いてから砂糖と醤油)だ。
運ばれてきた肉は、見事なサシ(霜降り)が入った大判のリブロース。ピンク色というより、白と紅のマーブル模様が芸術的だ。
「……美しい」
直がため息をつく。
「これが近江牛……。脂の融点が低いって聞くけど、室温で溶け出しそうや」
仲居さんが牛脂をひき、肉を広げる。
ジューッ……!
甘く、香ばしい「和牛香」が個室に充満する。
「……匂いだけで白飯一杯いけます」
亮が鼻をヒクヒクさせる。砂糖と醤油をかけ、少し焦げ目がついたところを、溶き卵にくぐらせて……。
パクり。……。
「……消えた!!」
直が叫ぶ。
「噛んでない! 舌に乗せた瞬間、脂がサラッと溶けて、肉の旨味だけを残して消えていった! ……なんやこれ、飲み物か!?」
亮は、目を閉じて天を仰ぎ、小刻みに震えていた。
「……直君。牛さんに感謝を。……この脂の甘み、しつこさが全くない。まるで上質なバターのようです。……これは『肉の形をした雲』です。私は今、雲を食べています」
野菜(丁字麩や赤こんにゃくも入っている)を入れ、肉の脂を吸わせる。
「この麩がまた美味いんや」
直が丁字麩(ちょうじふ・四角い麩)を頬張る。
「肉汁を全部吸い込んだスポンジ。……主役を食う勢いの名脇役や」
合わせる酒は、地酒『松の司』。洗練された透明感のある味わいが、脂を切ってくれる。
「……完璧なリレーです」
亮がグラスを回す。
「肉の脂、卵のコク、酒のキレ。……この三角関係なら、永遠に見ていられます」
五、鮒ずし・一〇〇〇年の時を超える香り
すき焼きで天国を見た二人だが、滋賀の旅はここで終わらない。むしろ、ここからが「試練」であり「真髄」だ。夜も更けた頃、二人は長浜駅近くの、郷土料理を出すディープな居酒屋『湖国の味』へ。
目的は、滋賀が世界に誇る珍味、「鮒ずし」。琵琶湖固有種のニゴロブナを塩漬けにし、さらに炊いたご飯に漬け込んで数ヶ月から数年発酵させた「なれずし」。寿司のルーツとも言われる。
その独特の匂いと酸味から、「日本のチーズ」「東洋のブルーチーズ」とも呼ばれ、好き嫌いが激しく分かれる食べ物だ。
店に入ると、独特の酸っぱい匂いが漂っている。
「……来ました」
亮が鼻をつまむ。
「直君、これは……歴史の匂いです。平安時代の貴族のタンスの匂いです」
「どんな匂いやねん。……でも確かに、強烈な発酵臭がするな」
注文したのは、初心者向けの「鮒ずしスライス」と、上級者向けの「飯(いい・発酵したご飯の部分)」がついたもの。
黄色っぽい色をした切り身が運ばれてきた。見た目は、干物のようでもあり、チーズのようでもある。
「……行くぞ」
直が覚悟を決めて、一切れ箸でつまむ。匂いを嗅ぐ。
「……うッ。……酸っぱいヨーグルトと、納豆と、魚醤を混ぜたような……」
口に入れる。噛む。
「……!!」
直の顔がくしゃくしゃになる。
「……すっぱ!! ……うわ、強烈な酸味! 酢を使ってないのに、乳酸菌だけでこんなに酸っぱくなるんか! ……でも……」
咀嚼を続けると、直の表情が変わっていった。
「……あれ? 噛んでると、奥から猛烈な『旨味』が出てくる。……塩気と酸味の向こう側に、とんでもなく濃厚なコクがあるぞ」
亮も口にした。
「……むぐぅッ! ……強烈なパンチです。口の中で微生物たちが運動会をしています。……しかし、直君。これ、日本酒を飲むと……」
二人は、滋賀の銘酒『萩乃露』の熱燗を含んだ。
その瞬間、奇跡が起きた。口の中に残っていた鮒ずしの強烈な酸味と臭みが、熱燗の熱とアルコールで一気に溶け合い、芳醇な「まろやかさ」へと変貌したのだ。
「……美味いッ!!」
二人が同時に叫んだ。
「なんやこれ魔法か!」
直が驚愕する。
「酒と合わせた瞬間、嫌な臭みが消えて、旨味だけが爆発した! チーズとワインなんて目じゃない。これぞ最強のマリアージュや!」
亮は、涙ぐみながら鮒ずしを拝んだ。
「……ごめんなさい、鮒さん。貴方は臭いんじゃない。個性が強いだけだったんです。……孤独だった貴方を理解してくれるのは、やっぱり同じ水と米から生まれた日本酒だけだったんですね……」
さらに、「鮒ずしのお茶漬け」で締める。熱いお湯を注ぐと、酸味がスープに溶け出し、さっぱりとしつつも滋味深い味わいに。
「……胃が洗われる」
直がすする。
「近江牛の脂も、鮒ずしの酸味も、すべてこの一杯に集約されてる気がするわ」
六、琵琶湖の夜風・マザーレイクへの誓い
店を出ると、深夜。二人は千鳥足で、再び湖岸へと歩いた。真っ暗な琵琶湖は、波の音だけを響かせている。冷たい夜風が、酔った火照りを心地よく冷ましてくれる。
亮は、またキャプテンハットを被り直した。
「……直君。滋賀は深いです」
「せやな。派手な観光地は少ないかもしれんけど、食の厚みがすごい。古代から続く知恵が生きとる」
亮は湖に向かって叫んだ。
「ありがとう、マザーレイク! 貴女のおかげで、今日も私たちは美味しいお酒が飲めました! ……貴女は偉大です! 琵琶湖の水、止めないでください!」
「誰も止めるか。……でもほんま、この水が京都や大阪まで流れて、俺らの生活を支えてるんやなと思うと、頭が下がるな」
二人は、湖畔のベンチに座り、コンビニで買った缶ビールを開けた(まだ飲むのか)。
プシュッ。
「……で、キャプテン。明日はどうする?」
直が聞く。
「もう関西はあらかた回ったぞ。次は北陸か?」
亮は、双眼鏡で真っ暗な北の空を見た。
「……北陸。いい響きです。カニ、甘エビ、ブリ……。海の宝石箱が待っています。そして、恐竜もいます」
「恐竜は食えんけどな。福井か」
「はい。越前の国へ進路を取りましょう。……ですがその前に、もう少しだけこの波音を聞かせてください」
湖の波音は、海のそれよりも優しく、リズミカルだった。
チャプ、チャプ、チャプ……。
それは、酔っ払いたちを眠りへと誘う子守唄のようだった。
「……亮、寝るなよ。ここ寒いぞ」
「……zzz……私は……ニゴロブナに……なる……」 「発酵するな!」
滋賀の夜は、深く、静かに、そして少し酸っぱく更けていった。
(第21話 了)




