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今宵も、君と千鳥足  作者: 花曇り


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20/31

京都・後編『嵐山の竹林と、祇園懐石の「粋」と「意地」』

一、嵐山・光源氏、竹林に現る

 翌朝。京都市街から少し西へ。桂川にかかる渡月橋を中心とした景勝地、嵐山。平安時代には貴族の別荘地として栄えた、まさに「雅」の聖地である。

 午前十時。湯達 直は、渡月橋のたもとで、川面を渡る風に髪を撫でられていた。

「……ええ天気や。山が近いな。空気が凛としてる」

 昨日の先斗町の余韻(と二日酔い)を少し引きずりつつも、清々しい朝の嵐山は格別だ。直は今日、動きやすさを重視しつつも京都らしい品を意識して、グレーのタートルネックにジャケット、足元は歩きやすいスニーカーというスタイルだ。

 しかし、問題は隣の男である。昨日の「新選組」から一転、今日の安木 亮は、さらに時代を遡っていた。

「……あな、うつくし。川面に映る山々、いとをかし……」

 亮は、平安貴族のような「狩衣」(平安時代の普段着、通販でレンタル)をまとい、頭には「烏帽子」を被り、手には横笛(よく見ると竹輪・チクワ)を持っていた。

「……おい、光源氏。もとい、公家崩れ」

 直が呆れ果てて声をかける。

「昨日は幕末で、今日は平安か。タイムトラベルが忙しいな」

 亮は優雅に(チクワで)口元を隠し、おっとりと答えた。

「オホホ……直麻呂よ。ここは嵐山。かつて貴族たちが舟遊びに興じた場所でおじゃる。……この衣装こそ、この場のドレスコード。私は今、令和の光源氏として、紫の上(理想の酒)を探しておるのじゃ」

「おじゃる、はやめろ。そしてそのチクワは食べるなよ」

 二人は「竹林の小径ちくりんのこみち」へ向かった。空を覆い尽くすほどの、数万本の竹。風が吹くと、サラサラ、カサカサと、笹の葉が擦れ合う音が降り注ぐ。木漏れ日が地面に幾何学模様を描いている。

「……すごい」

 直が立ち止まる。

「音が……違うな。風の音しか聞こえへん。別世界や」

 亮も、ふざけるのをやめて静かに竹を見上げた。

「……直麻呂。竹はすごいです。中は空洞(空)なのに、天に向かって真っ直ぐ伸びる。……『無心』の姿です」

「珍しくええこと言うな」

「私も見習いたいものです。頭の中を空っぽにして、ただ酒に向かって真っ直ぐ伸びる……」

「お前の頭はもう十分空っぽや。煩悩しかないけどな」

 小径を抜けたところにある野宮神社で、亮は必死に拝んでいた。ここは『源氏物語』にも登場する、縁結びのパワースポットだ。

「……何を祈ってたんや?」

「はい。……『どうか、今夜の支払いでカードが止まりませんように』と」

「切実すぎるわ!」


二、湯豆腐・白き沈黙の味

 正午。嵐山のランチといえば、やはり「湯豆腐」である。良質な地下水に恵まれた京都の豆腐は、大豆の甘みが強く、滑らかさが段違いだ。

 向かったのは、天龍寺の塔頭にある精進料理店、ではなく、桂川沿いの老舗『西山艸堂』……と言いたいところだが、予約が取れなかったので、風情ある庭園を持つ名店『湯豆腐 嵯峨野』へ。

 数寄屋造の座敷。窓の外には美しい日本庭園。目の前の土鍋には、昆布出汁が張られ、真っ白な豆腐が静かに揺れている。

「……白い。圧倒的な白です」

 亮が狩衣の袖をまくりながら(邪魔そうに)言う。

「直君、これは料理ではありません。『禅』です。器の中に『無』があります」

 湯豆腐の食べ頃は難しい。グラグラと煮立たせてはいけない。「煮えばな」と呼ばれる、豆腐がゆらりと動き始めた瞬間を逃さずすくい上げるのが通だ。

「……今や!」

 直が網杓子ですくう。

「このプルプル感……。崩れそうで崩れない、ギリギリの柔らかさや」

 特製の出汁醤油につけ、薬味(ネギ、おろし生姜)を乗せて口へ。

 ハフッ。……。

「……甘い」

 直が目を閉じる。

「大豆の香りが、鼻から抜けていく。……食感は絹みたいに滑らかで、喉を通った後に、ほのかな甘みだけが残る。……なんて上品なんや」

 亮も一口食べ、チクワをマイクに見立ててレポートを始めた。

「……えー、現場の光源氏です。……この豆腐、抱きしめたくなるほどピュアです。私の汚れた胃袋が、真っ白に浄化されていきます。……これは『食べるみそぎ』です」

 セットの「胡麻豆腐」や「飛龍頭」も絶品だ。特に飛龍頭は、噛むとジュワッと出汁が溢れ出す。

「……出汁が美味い。京都はやっぱり水と出汁やな」

 直が熱燗を一口。

「この淡白な豆腐を、酒のアテにする贅沢。……日本人に生まれてよかったわ」

 亮は、鍋の中で泳ぐ豆腐を見つめながら呟いた。

「直君。私たちも豆腐になりましょう。世間の荒波(熱湯)に揉まれても、角を立てず、丸く柔らかく、そして中身は熱く……」

「お前はすぐ崩れる木綿豆腐やけどな」


三、渡月橋・決して振り返ってはならない

 食後、再び渡月橋を渡る。京都には「十三参り」という風習があり、渡月橋を渡り終えるまで決して振り返ってはいけない(振り返ると授かった知恵を返してしまう)と言われている。

 亮はそれを真に受けていた。

「直麻呂! 決して振り返ってはなりませぬ! 私が今朝授かった『湯豆腐のカロリーゼロ理論』の知恵が失われてしまいます!」

「そんな知恵、捨ててしまえ」

 橋の中程で、強い風が吹いた。亮の烏帽子が飛ばされそうになる。

「ああっ! 私の冠位十二階が!」

 必死に烏帽子を押さえながら、前だけを見て進む亮。その姿は、光源氏というよりは、強風に煽られる落ち武者のようだった。

 橋を渡りきり、嵐電の駅へ。ここから京都市街へ戻り、いよいよ今回の旅のクライマックス、祇園へ向かう。紫色の電車「嵐電」に揺られながら、車窓を流れる家々の軒先を眺める。

「……嵐山、ええとこやったな」

「はい。自然と静寂。そして豆腐。……心が洗われました。これで今夜、どんな高級店に行っても恥ずかしくない『魂のタキシード』を着た気分です」

「格好は平安貴族のままやけどな。着替えろよ」


四、祇園・花見小路の結界

 夕刻。ホテルで着替えを済ませた(亮もようやくスーツに着替えた)二人は、タクシーで祇園・花見小路へ乗り付けた。石畳の道。道の両側には、紅殻格子の茶屋や料亭が整然と並ぶ。看板はなく、小さな表札と、盛り塩だけがある店も多い。

「……空気が変わった」

 直が背筋を伸ばす。

「昨日の先斗町とも違う。ここは……なんていうか、『本丸』やな。観光客は多いけど、店の中には見えない結界がある」

 亮も、いつになく真剣な表情だ。

「……直君。ここは大人の最終試験会場です。金を持っていればいいわけではない。『粋』と『品』が試される。……私のアルコール偏差値が問われています」

 二人が予約していたのは、路地裏にひっそりと佇む割烹料理店『祇園 M』。紹介制ではないが、予約困難な名店だ。暖簾をくぐる。    「いらっしゃいませ」

 白木のカウンター。職人の所作。漂う出汁の香り。張り詰めた、しかし温かい空気が二人を包む。

「……すごい」

 直が席に着く。

「カウンターが一枚板の檜や。これだけで車一台買えそうや」


五、懐石の宇宙・五感で味わう芸術

 まずは食前酒。そして先付。

 「春キャベツのすり流しと、蛍烏賊ホタルイカの酢味噌和え」。

 器はバカラのグラスと、年代物の陶器。

「……美しい」

 亮が小声で言う。

「料理というより、盆栽です。風景が皿の上に乗っています」

 一口食べる。

「……!」

 直が目を見開く。

「……春や。口の中に春風が吹いた。キャベツの甘みが優しくて、ホタルイカの苦味がアクセントになって……。繊細すぎる」

 ここから、懐石料理の真髄が始まる。

 

椀物わんもの: 「甘鯛あまだいたけのこの清まし汁」。  

 蓋を開けると、ふわりと柚子の香りが立ち上る。  黄金色に透き通った出汁。

 直が椀を持ち上げ、出汁をすする。

 ズズッ……。

「……ああっ……」

 直から深い溜息が漏れる。

「……これが、京都の真ん中か。昆布と鰹のバランスが神業や。塩味えんみを感じないのに、旨味の塊。……体が浄化されるわ」

 亮は、目を閉じて天井を仰いだ。

「……直君、聞こえますか? 出汁のシンフォニーが。……筍が、土の中で春を待っていた喜びを歌っています。甘鯛が、日本海の荒波を越えてきた誇りを語っています。……私は今、物語を飲んでいます」


造里つくり: 「明石あかしの鯛と、剣先イカ」。

 醤油だけでなく、「煎り酒」でいただく。

「……弾力が違う」

 直が鯛を噛み締める。

「押し返してくるような弾力。そして煎り酒の梅の風味が、白身の甘さを引き立てる。……醤油より合うかもしれん」

 合わせる酒は、京都・伏見の銘酒『英勲』の純米大吟醸。スッキリとした飲み口が、料理の邪魔をせず、静かに寄り添う。

「……水のような酒や。でも、芯がある」


八寸はっすん: 季節の盛り合わせ。

  菜の花の辛子和え、一寸豆、稚鮎ちあゆの天ぷら……。一つ一つが、宝石のように輝いている。

 亮は、稚鮎の天ぷらを手に取った。

「……この苦味。春の苦味です。……直君、子供の頃はわからなかったこの苦味が、今は愛おしい。……大人になるということは、苦味を美味いと感じること、そして、理不尽な上司の説教を酒で流し込めるようになることです」

「後半はただの社畜の処世術や」


メインの焼物、焚合たきあわせと続き、最後の御飯へ。

 土鍋で炊かれた**「筍ご飯」。蓋を開けた瞬間、木の芽(山椒の若葉)の香りが爆発する。

「……香りだけで三杯食える」

 直がお茶碗を受け取る。

「お焦げが……! お焦げが黄金色に輝いとる!」

 ふっくらとした米、シャキシャキの筍。二人は無言でかき込んだ。日本人に生まれた喜びを、米一粒一粒に噛み締めながら。


六、祇園の夜の幻・芸舞妓の影

 店を出ると、夜の九時。お腹も心も満たされた二人は、夜の祇園をふらふらと歩く。ふと、路地の奥から「コンチキチン」という祇園囃子のような音が聞こえ(た気がし)た。黒塗りの高級車が止まり、中から正装した紳士と、美しい着物姿の女性が降りてくる。

「……本物や」

 亮が物陰から覗く。

「あれぞ、選ばれし者たちの宴。……お座敷遊び。トラトラ(虎拳)……」

 直は亮の肩を叩いた。

「見とれるな。俺らにはまだ早い。……いや、一生縁がないかもしれんけど、今日はあの懐石だけで十分『頂点』を見たやろ」

「……そうですね」  亮は少し寂しげに、しかし満足げに笑った。「手の届かない花があるからこそ、人生は面白い。……いつか、私がBIGになったら、直君をあのお座敷に招待してあげますよ。舞妓さんに囲まれて、野球拳をしましょう」

「だから野球拳はやめろと言うとるやろ。品がないわ」

 二人は、白川沿いの巽橋へ出た。柳が街灯に照らされ、川面に揺れている。京都サスペンスドラマの聖地だ。

「……ここで、犯人が自供するんやな」

 直が手すりにもたれる。

「『私がやりました……あいつが、あいつが悪いんです!』って」

 亮は刑事役になりきった。

「……カツ丼でも食うか? いや、今は懐石でお腹いっぱいだから、デザートのわらび餅でも食うか?」 「どんな取り調べや」


七、BAR・フィナーレは静寂の中で

 京都最後の夜。締めくくりは、祇園の名バー『K6』、あるいは少し足を伸ばして木屋町の『サンボア』か。二人が選んだのは、一枚板のカウンターが美しい、静かなオーセンティックバーだった。

 直は「オールド・ファッションド」。亮は、京都発のクラフトジンを使った「マティーニ」。

 カラン……。

 グラスの中で氷が回る音だけが、店内に響く。

「……長いようで短かったな、京都」

 直が琥珀色の液体を見つめる。

「千本鳥居で死にかけ、嵐山で平安貴族になり、祇園で美食に溺れる。……濃すぎる二日間やった」

 亮はマティーニのオリーブをかじった。

「……直君。京都は『鏡』です」

「鏡?」

「はい。見る人の心を映す鏡です。歴史を知る者には歴史を、美を求める者には美を、そして……酒を求める馬鹿者には、最高の美酒と二日酔いを与えてくれる」

「……結局、俺らは馬鹿者ってことか」

「ええ、最高の馬鹿者です。……そして、この旅はまだ終わらない」

 亮はグラスを掲げた。

「次は、滋賀です。日本一の湖・琵琶湖が待っています。近江牛が待っています」

「……そうやな。まだまだ胃袋は休ませてくれへんな」

 乾杯。グラスが触れ合う澄んだ音が、古都の夜に溶けていく。

 外に出ると、小雨が降り始めていた。石畳が濡れて、街の灯りを反射し、黒く艶やかに輝きだす。雨の祇園もまた、息を呑むほどに美しい。

「……雨もまた、いとをかし、ですね」

 亮がビニール傘を開く。

「帰るぞ、光源氏。明日は早い」

 二つの背中が、濡れた石畳の向こうへ、千鳥足で消えていく。千年の都は、そんな二人を、変わらぬ静けさで見送っていた。


(第20話・京都後編 了)

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