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今宵も、君と千鳥足  作者: 花曇り


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2/2

京都・伏見『水と刀と、革命の夜明け』

一、酒蔵の迷宮と、貴族の漂流

 京都、伏見。かつて豊臣秀吉が城を築き、坂本龍馬が駆け抜け、そして何より、日本有数の銘水が湧き出る「酒どころ」である。

 京阪電車「中書島ちゅうしょじま」駅。改札を出れば、そこはもう酒の匂いが漂う街……のはずだった。

 時刻は午後五時。湯達 直は、改札前で仁王立ちしていた。完璧なスーツ姿だが、その眉間には深くシワが刻まれている。スマホの画面には、例によって安木 亮のGPS信号が表示されているのだが、その動きがおかしい。

「……なんでや。なんで川の中におるんや」

 信号は、駅から少し離れた「宇治川派流うじがわはりゅう」――つまり、運河の中をゆっくりと移動していた。

 直は走り出した。柳の木が並ぶ風情ある通りを、革靴で踏み荒らすように疾走する。

「あのアホ、まさか入水したんちゃうやろな! 太宰治にはまだ早いわ!」

 運河沿いに到着すると、そこには観光用の「十石舟じゅっこくぶね」が優雅に川面を滑っていた。そして、その舟の舳先へさき。観光客たちに混じり、一人だけ明治時代の書生のような恰好(いつもの着物風ファッションに、今日はなぜかハンチング帽を合わせている)の男が、川岸に向かって優雅に手を振っていた。

「あぁ、みなさん、ごきげんよう。川面を渡る風が、いにしえの和歌を運んでくるようです……」

 亮だった。彼は完全に舟の上の人となり、岸辺の柳に話しかけている。

「亮ぉおおお!! 降りろ! お前はどこへ行くつもりや!!」

 直が橋の上から叫ぶと、亮はゆっくりと見上げ、穏やかな笑顔で応えた。

「おや、直君。見てください。私は今、紀貫之きのつらゆきとなって、土佐へ帰る旅の途中です」

「そこは伏見や! 土佐は四国や! 逆や、そもそも海に出られへんぞ!」

「えぇ? でも船頭さんが『夢の国へ行けますよ』と……」

「それは比喩や! 次の船着き場で降りろ! 即座に降りろ!」

 十分後。船着き場で回収された亮は、なぜか大量の「酒粕飴」を抱えていた。同乗していたおば様方から

「あらやだ、ハンサムな文豪さん」

と気に入られ、貢がれたらしい。

「直君、お待たせしました。川の流れに身を任せていたら、時を忘れてしまいました。『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』……無常ですね」

「無常なのは俺の有給残高や。午後休取ってまで来たのに、もう夕暮れやないか」

 直は亮の背中を叩き(埃を払うついでに強めに)、伏見のメインストリートへと促した。


二、伏せ水と、動脈としての川

 気を取り直して、二人は伏見の街を歩き始めた。白壁の土蔵、格子戸の町家、そして風に揺れる「酒」と書かれたのぼり旗。どこからともなく、蒸した米の甘い香りが漂ってくる。

「……ふぅ。良い香りです」  

 亮が深呼吸をする。

「伏見の空気は、少し湿り気を帯びていて、柔らかいですね」

「そらそうや。ここら辺は『伏水ふしみ』って書くくらい、地下水が豊富なんやから」  

 直が、先ほどまでの怒りを忘れて解説モードに入る。

御香宮ごこうのみや神社の御香水ごこうすいをはじめ、この辺りは掘ればどこでも名水が出ると言われとる。カリウムやカルシウムのバランスが良い『中硬水』や。これが伏見の酒を、女酒おんなざけと呼ばれる、きめ細かくてまろやかな味にするんや」

「女酒、ですか。……なるほど。なだの『男酒』に対して、優美な伏見の酒。まるで光源氏を取り巻く姫君たちのような華やかさを感じますね」

 亮がうっとりとしていると、直は川沿いの柳を指さした。

「文学的にはそうかもな。でも、歴史的に見れば、ここはゴリゴリの『男たちの野望の跡』や」  

 直の目が鋭くなる。

「秀吉公が伏見城を築いた時、宇治川の流れを無理やり変えて、この運河を作らせた。なんでかわかるか? 大阪と京都を結ぶ物流の大動脈を作るためや。江戸時代になっても、三十石船が行き交い、人や米、酒を運びまくった。ここはな、当時の日本の『高速道路』のインターチェンジやったんや」

 直は、川沿いに建つ一軒の旅籠はたごの前で足を止めた。  

『寺田屋』

坂本龍馬が襲撃され、お龍が入浴中に裸で駆け上がって急を知らせたという、あの伝説の場所だ。

「見ろ、亮。あそこには、今も弾痕や刀傷が残ってる。日本の夜明け前、若い志士たちがここで命を削り合ってたんや。……熱いな。俺たちの営業成績も、これくらいの命がけで勝ち取りたいもんや」

「直君、営業の話になると急に殺伐とします音ね。……でも、わかりました。この水辺には、柔らかい酒の魂と、硬い剣の魂が、同居しているのですね」

「そういうことや。……よし、喉が渇いた。歴史の勉強は終わりや。実践のみに行くぞ」


三、神聖なる「仕込み水」と、酒粕の魔法

 二人が暖簾をくぐったのは、古い酒蔵を改装したダイニングバーだった。高い天井には太いはりが走り、巨大な仕込み樽がテーブルとして再利用されている。照明は薄暗く、ジャズが静かに流れているが、空気には凛とした緊張感があった。

「いらっしゃいおし」  

 カウンターの中に立っていたのは、和服に割烹着を着た、眼光の鋭い妙齢の女性だった。白髪交じりの髪をきっちりと束ね、無駄のない所作でグラスを磨いている。ただならぬオーラだ。

「……大将、じゃなくて女将おかみさんか。ええ雰囲気やな」  

 直が少し声を潜める。

「ここ、創業三百年の酒蔵直営らしいで」

 二人は樽のテーブルにつき、まずは「利き酒セット」を注文した。運ばれてきたのは、三つのガラス猪口ちょこ。純米大吟醸、特別本醸造、そして「しぼりたて生原酒」。

「まずは、お水からどうぞ」  

 女将さんが、ガラスの瓶に入った水を置いていった。

「『和らぎやわらぎみず』どす。うちの仕込み水。これを飲みながらやないと、悪酔いしますえ」

 亮はまず、その水を口にした。

「……んっ。……甘い」  

 亮が目を見開く。

「直君、これは水ですか? まるで絹の布を舌の上に乗せたような……抵抗が全くありません。喉に引っかからず、身体の中に溶けていきます」

「ほんまか。……おぉ、マジや。角がない。丸い。これが伏見の水か……!」  

 直も驚きの声を上げる。そして、メインの酒へ。亮は純米大吟醸を、そっと口に含む。

「……あぁ。咲きました」  

 亮の口元が緩む。

「口に含んだ瞬間、桃のような香りが広がりました。でも、決して主張しすぎない。はんなりとした、奥ゆかしい甘み。……昨日の大阪の酒が『太鼓の響き』なら、これは『琴の音色』ですね」

「うまい表現しよるな。……うん、うまい! スルスル入る! これはアカンやつや、無限に飲める水や!」  

 直は生原酒を煽り、唸った。

「こっちは少しフレッシュで、ピチピチしたガス感がある。まるで新入社員の時の俺のような、若さと野心を感じるわ!」

 そこへ、料理が運ばれてきた。  

酒粕さけかすおでん』と『さわらの西京焼き』

白濁した出汁の中で、大根や厚揚げが煮込まれている。

「酒粕おでん……。伏見ならではですね」  

 亮が大根を箸で割る。中まで真っ白に味が染みている。口に入れると、酒粕の芳醇な香りと、出汁の旨味が爆発した。

「……ふふ。幸せです。身体の芯から温まる。酒の母(酒粕)が、具材たちを優しく抱きしめているようです。これはもう、食べる毛布です」

「亮、食レポが独特すぎるぞ。……でも、これは酒が進む。西京焼きも最高や。味噌の甘みが、酒の甘みと共鳴リンクしとる!」

 伏見の酒は「女酒」と呼ばれる通り、口当たりが良い。スルスルと喉を通り、酔いが回るのも忘れて、二人のピッチは加速していった。


四、維新の嵐と、平成の光源氏

 一時間後。酒蔵バーの片隅で、奇妙な「同盟」が結ばれようとしていた。

 徳利とっくりは既に六本が空になっている。直はネクタイを頭に巻き、ワイシャツの袖をまくり上げていた。その目は、日本の未来を憂う志士のそれになっていた。

「ええか、亮! 今の日本には洗濯が必要なんや!」  

 直がバンとテーブルを叩く。

「営業日報? 経費精算? そんなちっぽけなことに縛られてどうする! 俺たちはもっと大きな海へ出るべきなんや! 世界のマーケットという大海原へ!」

「直君、声が大きいです。黒船が来てしまいますよ」

 亮は亮で、完全に「平安貴族」と化していた。女将さんから借りたのか、なぜか扇子を手に持ち、優雅に扇いでいる。顔は桜色だ。

「麻呂は……麻呂は思うのじゃ。この世はすべて夢幻ゆめまぼろし。直君の言う『あっぷる』や『ぐーぐる』といった異国の商人も、所詮はあずまえびす。……おや、あそこに美しき姫君がおる」

 亮の視線の先には、カウンターの中にいる、あの厳格な女将さんがいた。亮はふらりと立ち上がると、千鳥足でカウンターへ向かう。

「……姫よ。この美酒うまざけかもしたのは、そなたか?」

「……へぇ。うちらの蔵人くらびとたちが丹精込めて造りましたんや」  

 女将さんは表情を変えずに答えるが、少し警戒しているようだ。

「素晴らしい。……そなたの手は、魔法の手だ。水という名の無色の素材から、虹色の夢を紡ぎ出す。……あぁ、いとをかし。その割烹着姿、天女の羽衣に見えまする」

 亮はカウンター越しに身を乗り出し、女将さんの手元にある酒瓶を、まるで宝石のように見つめた。

「一首、詠みます。……『酒蔵の 香りに酔いし 旅人の 心をつなぐ 白き手指よ』」

 店内が一瞬、静まり返った。直が慌てて止めに入ろうとする。

「おい亮! 貴族ごっこはやめろ! お前はただの公務員や!」

 しかし。女将さんの鉄仮面のような表情が、ふっと崩れた。

「……ふふ。あんさん、えらいお上手やこと。今の歌、気に入りましたえ」

「なんと! では、褒美にこの酒粕を……」

「それは売り物どす。……その代わり、とっておきの『隠し酒』、出したげまひょか」

「なんですと!?」  

 直が反応した。

「隠し酒!? それはまさか、新選組も飲めなかったという幻の……!」

「そんな大層なもんやおへんけど、蔵の奥で眠らせてた『大古酒だいこしゅ』どす。琥珀色になってますえ」

 出された酒は、ウイスキーのように茶色く、カラメルのような香ばしい香りがした。直はそれを一口飲むなり、椅子から転げ落ちそうになった。

「……こ、これは……! 革命や! 味の明治維新や! 日本酒の概念がひっくり返った! ぜよ! ぜよーーッ!!」

 完全に坂本龍馬が憑依した直は、周囲の客(外国人観光客のグループ)に向かって演説を始めた。

「ヘイ! ガイズ! ディス・イズ・ジャパニーズ・ソウル! サムライ・スピリット! ドリンク・トゥゲザー! シェイク・ハンズ!!」

「Oh! Samurai! KAMPAI!」  

 外国人たちは大喜びで、直と肩を組んで乾杯し始めた。

 その横で、亮は女将さんと話し込んでいた。

「……それでね、姫。源氏物語の宇治十帖というのは、実に悲しいお話でして……」

「へぇ、へぇ。かおる君の優柔不断なところ、うちの旦那に似てますわぁ」

 カオスな夜だった。英語で「サツマ・チョウシュウ・アライアンス(薩長同盟)!」と叫ぶ営業マンと、女将さんの人生相談に乗り始める光源氏(自称)。伏見の夜は、水のように優しく、しかし確実に二人を飲み込んでいった。


五、朝霧の宇治川

 翌朝。京阪・中書島駅のベンチ。

 直は、死んでいた。サングラスをかけ、マスクをし、微動だにしない。手にはミネラルウォーター。

「……頭が割れる。誰か、俺の頭の中で寺田屋騒動を起こしてる奴がおる……」

「あら、直君。おはようございます。顔色が『青磁せいじ』の壺のようですよ」  

 亮は今日も元気だった。手には、昨日女将さんにお土産でもらった酒粕クッキーを持っている。

「……なんでお前は無事なんや。あんなに飲んだのに」

「伏見の水が守ってくれたのでしょう。それに、昨日はとても良い夢を見ました。天女様と和歌を詠み交わす夢です」

「それは現実や。お前、女将さんとLINE交換してたぞ」

「おや、みやびですね」

 直はガクリと項垂れた。

「……もうアカン。今日は直帰する。有休消化や」

「それは名案です。では、このまま宇治まで行きませんか? 『源氏物語ミュージアム』がありますよ」

「……行かん。帰って寝る」

「そうですか。では、私一人で……あ、直君。見てください。川霧が出ています。幻想的ですねぇ」

 駅のホームから見える宇治川の支流には、朝の光を受けて白い霧が立ち込めていた。それは昨夜の二人の記憶のように、曖昧で、美しく、そしてすぐに消えてしまう儚いものだった。

「……綺麗やな」  

 直がポツリと言った。

「ま、お前の言う『情緒』ってのも、悪くはないわ」

「でしょう? さあ、次はどこへ参りましょうか。海が見たいですね。神戸あたりで、異国情緒とワイン、なんていかがです?」

「ワインか……。ええな。神戸の開港の歴史、そして洋菓子のマーケティング戦略……語れるでぇ」

 懲りない二人である。直が立ち上がり、少しよろけたところを、亮が支えた。

「おっと。千鳥足は夜だけにしましょう、直君」

「うるさいわ。……行くぞ、相棒」

 電車が滑り込んでくる。二人の凸凹コンビは、次の街、次の酒、次の物語へと運ばれていく。  人生という名の、終わりのない旅路へ。


(第2話 了)

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