京都・伏見『水と刀と、革命の夜明け』
一、酒蔵の迷宮と、貴族の漂流
京都、伏見。かつて豊臣秀吉が城を築き、坂本龍馬が駆け抜け、そして何より、日本有数の銘水が湧き出る「酒どころ」である。
京阪電車「中書島」駅。改札を出れば、そこはもう酒の匂いが漂う街……のはずだった。
時刻は午後五時。湯達 直は、改札前で仁王立ちしていた。完璧なスーツ姿だが、その眉間には深くシワが刻まれている。スマホの画面には、例によって安木 亮のGPS信号が表示されているのだが、その動きがおかしい。
「……なんでや。なんで川の中におるんや」
信号は、駅から少し離れた「宇治川派流」――つまり、運河の中をゆっくりと移動していた。
直は走り出した。柳の木が並ぶ風情ある通りを、革靴で踏み荒らすように疾走する。
「あのアホ、まさか入水したんちゃうやろな! 太宰治にはまだ早いわ!」
運河沿いに到着すると、そこには観光用の「十石舟」が優雅に川面を滑っていた。そして、その舟の舳先。観光客たちに混じり、一人だけ明治時代の書生のような恰好(いつもの着物風ファッションに、今日はなぜかハンチング帽を合わせている)の男が、川岸に向かって優雅に手を振っていた。
「あぁ、みなさん、ごきげんよう。川面を渡る風が、古の和歌を運んでくるようです……」
亮だった。彼は完全に舟の上の人となり、岸辺の柳に話しかけている。
「亮ぉおおお!! 降りろ! お前はどこへ行くつもりや!!」
直が橋の上から叫ぶと、亮はゆっくりと見上げ、穏やかな笑顔で応えた。
「おや、直君。見てください。私は今、紀貫之となって、土佐へ帰る旅の途中です」
「そこは伏見や! 土佐は四国や! 逆や、そもそも海に出られへんぞ!」
「えぇ? でも船頭さんが『夢の国へ行けますよ』と……」
「それは比喩や! 次の船着き場で降りろ! 即座に降りろ!」
十分後。船着き場で回収された亮は、なぜか大量の「酒粕飴」を抱えていた。同乗していたおば様方から
「あらやだ、ハンサムな文豪さん」
と気に入られ、貢がれたらしい。
「直君、お待たせしました。川の流れに身を任せていたら、時を忘れてしまいました。『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』……無常ですね」
「無常なのは俺の有給残高や。午後休取ってまで来たのに、もう夕暮れやないか」
直は亮の背中を叩き(埃を払うついでに強めに)、伏見のメインストリートへと促した。
二、伏せ水と、動脈としての川
気を取り直して、二人は伏見の街を歩き始めた。白壁の土蔵、格子戸の町家、そして風に揺れる「酒」と書かれたのぼり旗。どこからともなく、蒸した米の甘い香りが漂ってくる。
「……ふぅ。良い香りです」
亮が深呼吸をする。
「伏見の空気は、少し湿り気を帯びていて、柔らかいですね」
「そらそうや。ここら辺は『伏水』って書くくらい、地下水が豊富なんやから」
直が、先ほどまでの怒りを忘れて解説モードに入る。
「御香宮神社の御香水をはじめ、この辺りは掘ればどこでも名水が出ると言われとる。カリウムやカルシウムのバランスが良い『中硬水』や。これが伏見の酒を、女酒と呼ばれる、きめ細かくてまろやかな味にするんや」
「女酒、ですか。……なるほど。灘の『男酒』に対して、優美な伏見の酒。まるで光源氏を取り巻く姫君たちのような華やかさを感じますね」
亮がうっとりとしていると、直は川沿いの柳を指さした。
「文学的にはそうかもな。でも、歴史的に見れば、ここはゴリゴリの『男たちの野望の跡』や」
直の目が鋭くなる。
「秀吉公が伏見城を築いた時、宇治川の流れを無理やり変えて、この運河を作らせた。なんでかわかるか? 大阪と京都を結ぶ物流の大動脈を作るためや。江戸時代になっても、三十石船が行き交い、人や米、酒を運びまくった。ここはな、当時の日本の『高速道路』のインターチェンジやったんや」
直は、川沿いに建つ一軒の旅籠の前で足を止めた。
『寺田屋』
坂本龍馬が襲撃され、お龍が入浴中に裸で駆け上がって急を知らせたという、あの伝説の場所だ。
「見ろ、亮。あそこには、今も弾痕や刀傷が残ってる。日本の夜明け前、若い志士たちがここで命を削り合ってたんや。……熱いな。俺たちの営業成績も、これくらいの命がけで勝ち取りたいもんや」
「直君、営業の話になると急に殺伐とします音ね。……でも、わかりました。この水辺には、柔らかい酒の魂と、硬い剣の魂が、同居しているのですね」
「そういうことや。……よし、喉が渇いた。歴史の勉強は終わりや。実践に行くぞ」
三、神聖なる「仕込み水」と、酒粕の魔法
二人が暖簾をくぐったのは、古い酒蔵を改装したダイニングバーだった。高い天井には太い梁が走り、巨大な仕込み樽がテーブルとして再利用されている。照明は薄暗く、ジャズが静かに流れているが、空気には凛とした緊張感があった。
「いらっしゃいおし」
カウンターの中に立っていたのは、和服に割烹着を着た、眼光の鋭い妙齢の女性だった。白髪交じりの髪をきっちりと束ね、無駄のない所作でグラスを磨いている。ただならぬオーラだ。
「……大将、じゃなくて女将さんか。ええ雰囲気やな」
直が少し声を潜める。
「ここ、創業三百年の酒蔵直営らしいで」
二人は樽のテーブルにつき、まずは「利き酒セット」を注文した。運ばれてきたのは、三つのガラス猪口。純米大吟醸、特別本醸造、そして「しぼりたて生原酒」。
「まずは、お水からどうぞ」
女将さんが、ガラスの瓶に入った水を置いていった。
「『和らぎ水』どす。うちの仕込み水。これを飲みながらやないと、悪酔いしますえ」
亮はまず、その水を口にした。
「……んっ。……甘い」
亮が目を見開く。
「直君、これは水ですか? まるで絹の布を舌の上に乗せたような……抵抗が全くありません。喉に引っかからず、身体の中に溶けていきます」
「ほんまか。……おぉ、マジや。角がない。丸い。これが伏見の水か……!」
直も驚きの声を上げる。そして、メインの酒へ。亮は純米大吟醸を、そっと口に含む。
「……あぁ。咲きました」
亮の口元が緩む。
「口に含んだ瞬間、桃のような香りが広がりました。でも、決して主張しすぎない。はんなりとした、奥ゆかしい甘み。……昨日の大阪の酒が『太鼓の響き』なら、これは『琴の音色』ですね」
「うまい表現しよるな。……うん、うまい! スルスル入る! これはアカンやつや、無限に飲める水や!」
直は生原酒を煽り、唸った。
「こっちは少しフレッシュで、ピチピチしたガス感がある。まるで新入社員の時の俺のような、若さと野心を感じるわ!」
そこへ、料理が運ばれてきた。
『酒粕おでん』と『鰆の西京焼き』
白濁した出汁の中で、大根や厚揚げが煮込まれている。
「酒粕おでん……。伏見ならではですね」
亮が大根を箸で割る。中まで真っ白に味が染みている。口に入れると、酒粕の芳醇な香りと、出汁の旨味が爆発した。
「……ふふ。幸せです。身体の芯から温まる。酒の母(酒粕)が、具材たちを優しく抱きしめているようです。これはもう、食べる毛布です」
「亮、食レポが独特すぎるぞ。……でも、これは酒が進む。西京焼きも最高や。味噌の甘みが、酒の甘みと共鳴しとる!」
伏見の酒は「女酒」と呼ばれる通り、口当たりが良い。スルスルと喉を通り、酔いが回るのも忘れて、二人のピッチは加速していった。
四、維新の嵐と、平成の光源氏
一時間後。酒蔵バーの片隅で、奇妙な「同盟」が結ばれようとしていた。
徳利は既に六本が空になっている。直はネクタイを頭に巻き、ワイシャツの袖をまくり上げていた。その目は、日本の未来を憂う志士のそれになっていた。
「ええか、亮! 今の日本には洗濯が必要なんや!」
直がバンとテーブルを叩く。
「営業日報? 経費精算? そんなちっぽけなことに縛られてどうする! 俺たちはもっと大きな海へ出るべきなんや! 世界のマーケットという大海原へ!」
「直君、声が大きいです。黒船が来てしまいますよ」
亮は亮で、完全に「平安貴族」と化していた。女将さんから借りたのか、なぜか扇子を手に持ち、優雅に扇いでいる。顔は桜色だ。
「麻呂は……麻呂は思うのじゃ。この世はすべて夢幻。直君の言う『あっぷる』や『ぐーぐる』といった異国の商人も、所詮はあずま夷。……おや、あそこに美しき姫君がおる」
亮の視線の先には、カウンターの中にいる、あの厳格な女将さんがいた。亮はふらりと立ち上がると、千鳥足でカウンターへ向かう。
「……姫よ。この美酒を醸したのは、そなたか?」
「……へぇ。うちらの蔵人たちが丹精込めて造りましたんや」
女将さんは表情を変えずに答えるが、少し警戒しているようだ。
「素晴らしい。……そなたの手は、魔法の手だ。水という名の無色の素材から、虹色の夢を紡ぎ出す。……あぁ、いとをかし。その割烹着姿、天女の羽衣に見えまする」
亮はカウンター越しに身を乗り出し、女将さんの手元にある酒瓶を、まるで宝石のように見つめた。
「一首、詠みます。……『酒蔵の 香りに酔いし 旅人の 心をつなぐ 白き手指よ』」
店内が一瞬、静まり返った。直が慌てて止めに入ろうとする。
「おい亮! 貴族ごっこはやめろ! お前はただの公務員や!」
しかし。女将さんの鉄仮面のような表情が、ふっと崩れた。
「……ふふ。あんさん、えらいお上手やこと。今の歌、気に入りましたえ」
「なんと! では、褒美にこの酒粕を……」
「それは売り物どす。……その代わり、とっておきの『隠し酒』、出したげまひょか」
「なんですと!?」
直が反応した。
「隠し酒!? それはまさか、新選組も飲めなかったという幻の……!」
「そんな大層なもんやおへんけど、蔵の奥で眠らせてた『大古酒』どす。琥珀色になってますえ」
出された酒は、ウイスキーのように茶色く、カラメルのような香ばしい香りがした。直はそれを一口飲むなり、椅子から転げ落ちそうになった。
「……こ、これは……! 革命や! 味の明治維新や! 日本酒の概念がひっくり返った! ぜよ! ぜよーーッ!!」
完全に坂本龍馬が憑依した直は、周囲の客(外国人観光客のグループ)に向かって演説を始めた。
「ヘイ! ガイズ! ディス・イズ・ジャパニーズ・ソウル! サムライ・スピリット! ドリンク・トゥゲザー! シェイク・ハンズ!!」
「Oh! Samurai! KAMPAI!」
外国人たちは大喜びで、直と肩を組んで乾杯し始めた。
その横で、亮は女将さんと話し込んでいた。
「……それでね、姫。源氏物語の宇治十帖というのは、実に悲しいお話でして……」
「へぇ、へぇ。薫君の優柔不断なところ、うちの旦那に似てますわぁ」
カオスな夜だった。英語で「サツマ・チョウシュウ・アライアンス(薩長同盟)!」と叫ぶ営業マンと、女将さんの人生相談に乗り始める光源氏(自称)。伏見の夜は、水のように優しく、しかし確実に二人を飲み込んでいった。
五、朝霧の宇治川
翌朝。京阪・中書島駅のベンチ。
直は、死んでいた。サングラスをかけ、マスクをし、微動だにしない。手にはミネラルウォーター。
「……頭が割れる。誰か、俺の頭の中で寺田屋騒動を起こしてる奴がおる……」
「あら、直君。おはようございます。顔色が『青磁』の壺のようですよ」
亮は今日も元気だった。手には、昨日女将さんにお土産でもらった酒粕クッキーを持っている。
「……なんでお前は無事なんや。あんなに飲んだのに」
「伏見の水が守ってくれたのでしょう。それに、昨日はとても良い夢を見ました。天女様と和歌を詠み交わす夢です」
「それは現実や。お前、女将さんとLINE交換してたぞ」
「おや、雅ですね」
直はガクリと項垂れた。
「……もうアカン。今日は直帰する。有休消化や」
「それは名案です。では、このまま宇治まで行きませんか? 『源氏物語ミュージアム』がありますよ」
「……行かん。帰って寝る」
「そうですか。では、私一人で……あ、直君。見てください。川霧が出ています。幻想的ですねぇ」
駅のホームから見える宇治川の支流には、朝の光を受けて白い霧が立ち込めていた。それは昨夜の二人の記憶のように、曖昧で、美しく、そしてすぐに消えてしまう儚いものだった。
「……綺麗やな」
直がポツリと言った。
「ま、お前の言う『情緒』ってのも、悪くはないわ」
「でしょう? さあ、次はどこへ参りましょうか。海が見たいですね。神戸あたりで、異国情緒とワイン、なんていかがです?」
「ワインか……。ええな。神戸の開港の歴史、そして洋菓子のマーケティング戦略……語れるでぇ」
懲りない二人である。直が立ち上がり、少しよろけたところを、亮が支えた。
「おっと。千鳥足は夜だけにしましょう、直君」
「うるさいわ。……行くぞ、相棒」
電車が滑り込んでくる。二人の凸凹コンビは、次の街、次の酒、次の物語へと運ばれていく。 人生という名の、終わりのない旅路へ。
(第2話 了)




