奈良・古都『大仏様の掌と、一三〇〇年の微酔い』
奈良・古都『大仏様の掌と、一三〇〇年の微酔い』
一、近鉄奈良駅・時をかけるおっさん
三月某日。大阪難波から近鉄特急に揺られること約四十分。トンネルを抜けると、車窓の風景は現代的なビル群から、瓦屋根の続くしっとりとした町並みへと変わった。近鉄奈良駅。ここは、古都・奈良の玄関口である。
午前十時。湯達 直は、地上への階段を上がりながら深呼吸をした。
「……空気が違う。名古屋の味噌と油の熱気とは真逆の、線香と土の匂いがする」
直は今日、古都に敬意を表して、ベージュのチノパンにモスグリーンのジャケットという、アースカラーでまとめた「大人の休日」スタイルだ。一方、隣を歩く相棒・安木 亮は、またしても時空を歪めていた。
「……日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや……」
亮は、紫色の冠(聖徳太子がかぶっているアレ)を頭に乗せ、手には「笏」を持ち、あごには付け髭を蓄えている。そして、なぜか右手に一万円札(聖徳太子の旧札のコピー)の扇子を持っていた。
「……おい、太子。お前、時代設定が飛鳥時代やぞ。奈良時代よりちょっと前や」
直が冷ややかな視線を送る。
「フッ……直君。細かいことは『和を以て貴しと為す』ですよ」
亮が笏で直の肩を叩く。
「私は今日、十七条の憲法ならぬ、十七条の酒法を制定しに来たのです。第一条、酒は飲むべし。第二条、ツマミは残すべからず……」
「制定せんでええ。あと、その付け髭ズレてるぞ」
駅前の行基広場に出ると、噴水の上に行基菩薩の像が立っている。待ち合わせの人々でごった返す中、亮のコスプレは異彩を放っていたが、奈良県民は慣れているのか、あるいは「また変な観光客が来た」と悟っているのか、生温かい目で見守っていた。
「さあ、参りましょう直君。平城京の風が私を呼んでいます」
二、奈良公園・神の使いとの仁義なき戦い
東へ向かって緩やかな坂を登ると、そこはもう奈良公園だ。広大な芝生、鬱蒼とした木々。そして、そこかしこに我が物顔で歩く鹿たち。彼らはただの野生動物ではない。春日大社の神様の使いとして、天然記念物に指定されている「神鹿」なのだ。
「……おお、友よ!」
亮が鹿の群れを見つけ、駆け寄る。
「久しぶりだな! 元気にしていたか!」
一頭の牡鹿が、亮の紫色の冠をじっと見つめ、鼻を鳴らした。
フンッ。
「……直君、彼が『そのダサい帽子は何だ、よこせ』と言っています」
「言うてへんわ。エサくれって言うてるだけや」
二人は露店で「鹿せんべい」を購入した。その瞬間だった。それまで大人しく草を食んでいた鹿たちの目の色が変わった。彼らは「せんべいの束」という名の現金輸送車を見る強盗団のような目つきで、二人を取り囲んだ。
「……囲まれた。完全にロックオンされとる」
直が身構える。
亮は余裕の笑みで、一枚のせんべいを取り出した。
「焦るな、直君。鹿との対話には『礼』が必要です。こうやって……」
亮が鹿の前でお辞儀をする。すると、鹿もペコリと首を下げてお辞儀をした。
「……見ましたか!これぞ礼節の国、日本! さあ、どうぞ……うわああっ!!」
亮がせんべいを差し出そうとした瞬間、横から別の鹿が突進し、亮の脇腹に頭突きを食らわせた。さらにお尻を噛まれる亮。
「痛っ! 痛い! ちょ、待って! 順番! 聖徳太子だよ!? 偉いんだよ!?」
鹿たちに容赦はない。亮の着物の袖を引っ張り、一万円札の扇子をかじろうとする。
「やめろ! それは紙だ! 食べられない! ああっ、私の笏が!」
結局、亮はせんべいを空中にばら撒いて逃走した。
「……ハァ、ハァ……。直君、彼らは神の使いではありません。奈良のギャングです」
「お前がトロいからや。……でもまあ、服がボロボロになって、より一層、落ちぶれた貴族感が出とるで」
三、東大寺・宇宙を感じる大伽藍
鹿との死闘を終え、二人は東大寺へ。巨大な南大門を見上げる。運慶・快慶らによって作られた金剛力士像が、凄まじい迫力で睨みを利かせている。
「……デカい。何度見ても圧倒される」
直が口を開けて見上げる。
「鎌倉時代の木造建築が、こうして残っていること自体が奇跡やな」
亮も付け髭を直しつつ、神妙な顔つきになった。
「……直君。あの筋肉の隆起、血管の浮き上がり……。あれはプロテインを飲んだ体ではありません。修行と信念によってビルドアップされた、精神の筋肉です」
「筋肉に精神とかあるんか知らんけど、まあすごい迫力や」
そして、いよいよ大仏殿へ。世界最大級の木造建築。その中に鎮座する、高さ約十五メートルの「奈良の大仏様」こと、盧舎那仏。
堂内に足を踏み入れると、ひんやりとした静寂と、古い木の香りに包まれる。見上げれば、金色の光を鈍く放つ巨大な仏様。
「……」
二人は言葉を失い、ただただ見上げた。その掌は、人間数人が乗れるほどの大きさだという。
「……直君」
亮が小声で囁く。
「あの大仏様は、宇宙そのものだそうです」
「宇宙?」
「はい。一本の髪の毛(螺髪・らほつ)の中にすら、無数の世界が存在するという……。つまり、私たちが今悩んでいる『今夜の店選び』なんて、大仏様の鼻息一つで吹き飛ぶ塵のようなものです」
「……せやな。ちっぽけな悩みや。でも、そのちっぽけな悩みが俺らにとっては大事なんや」
大仏様の裏手に回ると、有名な「柱の穴くぐり」がある。大仏様の鼻の穴と同じ大きさの穴が柱に空いており、くぐり抜けると無病息災のご利益があるという。子供たちが楽しそうにくぐっている。
「……行きますか、太子」
「……いえ、やめておきましょう。今の私の腹回り(ビール腹)では、詰まって抜けなくなり、消防隊を呼ぶことになりかねません。歴史的建造物を破壊しては申し訳ない」
「賢明な判断や」
二人は手を合わせ、深く一礼した。
(どうか、今夜も美味しいお酒と巡り会えますように。そして、二日酔いが軽くなりますように)
これほど不純で切実な祈りが、かつて大仏様に捧げられたことがあっただろうか。
四、柿の葉寿司・発酵の森と三輪そうめん
正午。広大な境内を歩き回り、腹が減った。奈良公園の近くにある老舗『平宗』の別館で昼食をとることにした。奈良の郷土料理といえば、「柿の葉寿司」である。
運ばれてきたのは、鮮やかな緑色の柿の葉に包まれた、直方体のお寿司たち。海のない奈良県で、貴重な魚を保存するために生まれた知恵の結晶だ。
「……美しい」
亮が一つ手に取る。
「葉っぱに包まれているだけで、なぜこうも神聖に見えるのでしょう。まるで森からの贈り物です」
葉を開くと、酢で締められた鯖が現れた。ふわりと、柿の葉の爽やかな香りが漂う。
パクり。モグモグ……。
「……!!」
直が目を閉じる。
「……しみじみと美味い。シャリに魚の旨味と塩気が染み込んで、一体化しとる。酢の角が取れて、まろやかや……。派手さはないけど、永遠に食える味や」
亮は鮭の方を口にした。
「……葉の香りが、鼻から脳へと抜けていきます。これは森林浴です。食べているのに、深呼吸しているような気分になる。……直君、ここに冷酒があれば、私は俳人になれる気がします」
そして、セットで頼んだのが「三輪そうめん」の温かい「にゅうめん」だ。そうめん発祥の地・奈良県桜井市三輪で作られる、極細かつコシの強い麺。
透き通った出汁の中に、白い絹糸のような麺が泳いでいる。
ズズッ。
「……細ッ! なのにコシがある!」
直が驚く。
「噛むとプツプツと心地よい弾力が返ってくる。優しいお出汁が、疲れた体に染み渡るわ……。名古屋のきしめんも良かったけど、この繊細さは奈良ならではやな」
亮は出汁を飲み干し、ふぅと息をついた。
「……直君。奈良の料理は『水』ですね。派手な味付けではなく、水と素材の力が直接語りかけてくる。……私の汚れた心が浄化されていきます」 「すぐ汚れるけどな」
五、ならまち・清酒発祥の地のプライド
午後は、古い町家が残る「ならまち」エリアを散策した。格子戸の家々、細い路地、軒先に吊るされた赤い「身代わり申」。タイムスリップしたような風景の中を歩く。
そして、二人が目指したのは酒蔵『春鹿』の醸造元だ。実は、奈良は「日本清酒発祥の地」と言われている。室町時代、奈良の正暦寺で、現代の酒造りの基礎となる技術(諸白・もろはく)が確立されたのだ。
「……直君、ここが聖地です」
亮が酒蔵の暖簾の前で正座しようとする。
「今の私たちが透明で美味しいお酒を飲めるのは、奈良の僧侶たちのおかげなのです。彼らは読経の合間に、バイオテクノロジーの研究をしていたのです」
五百円で利き酒ができるコーナーへ。オリジナルのグラスを購入し、五種類の日本酒を試飲する。
まずは、辛口の純米酒「超辛口」。
クイッ。
「……キレる!」
直が唸る。
「水のように入ってきて、喉を通った瞬間にカッと熱くなる。でも口の中には雑味が残らない。……これが『諸白』の伝統か。刀のような切れ味や」
次は、純米大吟醸。
「……華やかです」
亮が香りを楽しむ。
「フルーティーですが、派手すぎない。奥ゆかしさがある。……万葉集の歌人が、月を見ながら詠んだ歌のような、深みのある甘さです」
さらに、「奈良漬」の燻製をつまむ。酒粕に何度も漬け替え、数年かけて作られる奈良漬。
カリッ、ポリッ。
「……うわ、酒が進む!」
直が目を見開く。
「この奈良漬、燻製にすることで香ばしさが加わって、チーズみたいになっとる! これは反則や。無限に飲める」
亮はすっかり上機嫌になり、店員さんに絡み始めた。
「……あのお、このお酒は、万葉集で言うとどの歌ですかね? やはり額田王ですか?」
店員さんは困った笑顔で
「ええ、まあ、そんなイメージで……」
と流してくれた。
六、大和野菜と鶏の宴
夕闇が迫り、興福寺の五重塔がシルエットになって浮かび上がる頃。二人はならまちの路地裏にある居酒屋『蔵』へ入った。築百年の古民家を改装した、太い梁が印象的な店だ。
今夜のテーマは、「大和野菜」と「大和肉鶏」。古くから奈良盆地で育てられてきた伝統野菜と、地鶏の競演だ。
「……落ち着くなあ」
直が掘りごたつの席に座る。
「この薄暗い照明、木のぬくもり。やっぱり奈良は『陰翳礼讃』の世界やな」
まずは「大和まな」と油揚げの煮浸し。
青菜のシャキシャキ感と、出汁の旨味。
「……滋味深い」
亮が一口食べて呟く。
「野菜の味が濃い。土の力が強いんでしょうね。……私の細胞が喜んでいます」
そして、メインディッシュの「大和肉鶏のすき焼き」が登場。鉄鍋で、鶏肉を焼く。
ジューッ……。
香ばしい匂いが立ち上る。
「……いい音や」
直が箸を伸ばす。
「大和肉鶏は、軍鶏の血を引いてるから、歯ごたえがすごいらしいぞ」
溶き卵にくぐらせて、パクり。
ギュッ、ギュッ。
「……!!」
直が咀嚼しながら目を見開く。
「……すごい弾力や! 噛めば噛むほど、肉の旨味が湧き出てくる! 柔らかいだけの鶏とは違う、野生の味や! 脂も甘いけど、しつこくない!」
亮は、熱燗にした地酒『風の森』を合わせた。
「……ふぅぅ……」
亮がため息をつく。
「鶏の脂を、温かい酒が溶かしていく……。直君、これは『温浴』です。胃袋が温泉に入っています」
さらに、「奈良漬とクリームチーズの和え物」を追加。これがまた、危険な食べ物だった。
「……これ、発明品やな」
直がクラッカーに乗せて食べる。
「奈良漬の独特のアルコール臭と甘みが、クリームチーズの酸味で中和されて、極上の珍味になっとる。……ワインにも合いそうやけど、やっぱり日本酒や」
亮は、奈良漬をかじりながら、とろんとした目で語り出した。
「……直君。奈良漬は、野菜のミイラではありません。野菜の『転生』です。酒粕というベッドで数年眠り、全く別の高貴な存在として生まれ変わる……。私たちも、酒というベッドで眠れば、明日は高貴な人間に生まれ変われるでしょうか?」
「生まれ変わらんわ。ただの二日酔いのおっさんになるだけや」
酒が進むにつれ、二人の会話は歴史談義から、どうでもいい人生論へと移っていった。
「……結局、聖徳太子も酒が好きやったんかな?」
「間違いありません。十七条の憲法の裏には、幻の十八条『酒は楽しく飲むべし』があったはずです」
「そんなもんないわ」
七、猿沢池・水面に映る月と塔
店を出ると、夜の九時を回っていた。観光客の姿は消え、町は深い静寂に包まれている。二人は千鳥足で、猿沢池へ向かった。
池のほとりのベンチに座る。水面には、ライトアップされた興福寺五重塔が逆さに映り込み、その横に満月が揺らめいている。 絵葉書のような、完璧な夜景だ。
「……綺麗やな」
直が缶ビール(まだ飲むのか)を開ける。
「一三〇〇年前の人も、この月と塔を見てたんやろな」
亮は、冠を脱いで膝の上に置いた。
「……ええ。阿倍仲麻呂も、鑑真和上も、みんなこの月を見上げた。……彼らの悩みや希望が、この池の底には沈んでいるのかもしれません」
風が吹き、水面が揺れると、逆さの塔がゆらゆらと崩れた。
「……諸行無常ですね」
亮が静かに言う。
「形あるものはいつか崩れる。でも、また水面が静まれば、塔は姿を現す。……私たちの記憶や酔いも、そうやって揺らめきながら続いていくんでしょうね」
「……お前、酔うと詩人になるな。普段は変人やのに」
直は笑って、ビールを一口飲んだ。
池の亀が、ポチャンと音を立てた。
「あ、亀だ」
亮が身を乗り出す。
「おーい、浦島太郎を乗せた亀の末裔か? 私を竜宮城へ連れて行ってくれ。あそこには飲み放題プランはあるか?」
「やめろ、落ちるぞ!」
直が亮の襟首を掴む。
静かな古都の夜。大仏様の掌の上で遊ばせてもらったような、不思議な安心感があった。鹿の鳴き声が、遠くで「キュイーン」と響く。それは、酔っ払い二人への「そろそろ帰って寝ろ」という合図のように聞こえた。
「……帰るか、太子」
「はい、帰りましょう。……でも直君、明日は京都です。奈良の静寂から、千年の都の雅へ。……私たちの肝臓に休息はありませんよ」
「望むところや。かかってこい」
二人の影が、月明かりに長く伸びる。一三〇〇年の時を超えても変わらない、酒飲みたちの至福の夜が、静かに更けていった。
(第18話 了)




