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今宵も、君と千鳥足  作者: 花曇り


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15/31

和歌山・高野山~白浜『天空の精進料理と、幻の魚クエの泥酔』

一、天空へのケーブルカーと偽の弘法大師

 三月某日。南海電鉄・極楽橋駅。ここから急勾配のケーブルカーに乗り換え、標高約900メートルの山頂を目指す。行き先は、弘法大師・空海が開いた日本仏教の聖地、高野山。

 午前十時。湯達 直は、ケーブルカーの窓から見える杉の木立を見つめていた。

「……空気が変わっていくな。俗世の汚れが削ぎ落とされるようや」

 直は今日、山上の寒さに備えてダウンジャケットを着込んでいる。ふと横を見ると、相棒の安木 亮が、数珠をジャラジャラといじっていた。今日の亮は、白衣に輪袈裟、手には金剛杖、頭には網代笠。完全なる「お遍路さん」スタイルである。

「……南無大師遍照金剛なむだいしへんじょうこんごう……」

 亮がブツブツと唱えている。

「直君、静粛に。私たちは今、現世から浄土へと昇っているのです。私の計算では、あと五分で解脱します」

「解脱が早すぎるわ! お前の煩悩の塊は、そんな短時間じゃ消えへんぞ」

 ケーブルカーが高野山駅に到着すると、そこは別世界だった。ひんやりとした冷気、漂う線香の香り。バスに乗り換え、街の中心部へ。山の上に忽然と現れた宗教都市の姿に、圧倒される。

「……すごい」

 亮が笠を少し上げる。

「山の上にこんな街があるなんて。……まさに天空都市ラピュタ。いや、曼荼羅の世界です」

 大門の巨大な仁王像を見上げ、二人は深く一礼した。

「お邪魔します、お大師様」

「……お邪魔します。美味しい精進料理を期待しています」

「不純な動機で門をくぐるな」


二、奥之院・一千年の杉と即身成仏

 まずは聖地中の聖地、奥之院へ。一の橋から弘法大師御廟まで続く約二キロの参道には、樹齢数百年から千年の杉並木が続き、その下には織田信長や豊臣秀吉など、歴史上の偉人たちの墓所が二十万基以上並んでいる。

 静寂。  

 砂利を踏む音だけが響く。

「……空気が重い、いや、濃いです」

 亮が珍しく真面目な顔で歩く。

「歴史の重みですね。敵も味方も、宗派も超えて、みんなここでお大師様の近くに眠りたがった……。ワンチームですね」

「表現が軽いけど、まあそうや。ここは『死』の場所やけど、不思議と怖くない。むしろ『癒やし』を感じるな」

 御廟橋の手前で、二人は衣服を正し、一礼した。ここから先は聖域。撮影禁止、脱帽、飲食厳禁だ。

 弘法大師が今も瞑想を続けているとされる御廟。お坊さんが、毎日二回、お大師様に食事を運ぶ「生身供」の儀式が行われている。

 参拝を終え、戻ってきた亮は、少し目が潤んでいた。

「……直君。お大師様は、まだ生きて私たちを見守ってくれているんですね」

「そう信じられとるな」

「……私、聞こえました。『よく来たな。今日はたらふく飲みなさい』と」

「絶対言うてへん。それはお前の心の声や」


三、精進料理・ごま豆腐のプルプル革命

 正午。宿坊(しゅくぼう・寺の宿泊施設)の一つ『蓮華院』で昼食をとることにした。美しい庭園を眺める座敷でいただくのは、精進料理。肉や魚を一切使わない、仏教の戒律に基づいた料理だ。

「……直君、肉がありません」

 亮が御膳を見て少し寂しげな顔をする。

「私は草食動物になるのでしょうか」

「アホか。精進料理は『もどき料理』も含めて、めちゃくちゃ手が込んでるんや。……ほら、これが高野山名物『ごま豆腐』や」

 白い四角い豆腐の上に、わさびがちょこんと乗っている。箸を入れる。  

 ……むにゅん。

 強い弾力。

「……! 粘ります」

 亮が口に運ぶ。

「……んんッ!!」

 目を見開く。

「……濃厚! なんですかこれは! 豆腐というより、濃厚なクリームです! 白ごまの香ばしさと、葛の滑らかさが、口の中でねっとりと絡みつく……。これはスイーツです! 和のババロアです!」

「せやろ。修行僧の貴重なタンパク源やから、魂込めて練り上げられとるんや」

 そして、直は小声で仲居さんに尋ねた。

「あの……『般若湯』はありますか?」

 仲居さんはニッコリ笑って

「はい、ございますよ」

 と熱燗を持ってきた。仏教ではお酒は「不飲酒戒」で禁じられているが、僧侶たちの間では隠語で「般若湯(知恵の湯)」と呼んで、百薬の長として嗜まれていたのだ。

 お猪口に注がれた透明な液体。  

 乾杯。

「……くぅーッ……」

 亮が染み入るように唸る。

「……効きます。清らかな体(精進料理で浄化済み)に、アルコールがダイレクトに回ります。……これは酒ではありません。知恵です。私は今、猛烈に賢くなっています」

「ただの酔っ払いや。……でも、野菜の煮物も天ぷらも、出汁が深くて酒に合うな」

 高野豆腐の煮含めを噛むと、じゅわっと出汁が溢れる。

「……優しい。お母さんの味……いや、観音様の味です」


四、大移動・山から海へ、パンダの楽園

 精進料理で心を洗った二人は、一気に下山し、レンタカーで南へ走った。目指すは、和歌山県南部のリゾート地・南紀白浜。山岳宗教都市から、陽光あふれるビーチリゾートへ。この高低差こそ和歌山の魅力だ。

 午後三時。「アドベンチャーワールド」に到着。ここは日本一のパンダ飼育数を誇る、パンダの聖地だ。

「……パンダ!」

 亮がゲートをくぐるなり叫ぶ。いつの間にかお遍路スタイルから、アロハシャツに着替えている。適応力が高い。

「直君、知っていますか? パンダの配色は『陰陽』を表しています。白と黒。つまり彼らは動く太極図なのです」

「理屈っぽいな! 普通に『可愛い』でええやん!」

 「パンダラブ」エリアに行くと、笹をムシャムシャと食べるジャイアントパンダがいた。無心に食べ、ゴロンと寝転がり、また食べる。

「……師匠」

 亮がガラス越しに手を合わせる。

「あの脱力感。あのマイペースさ。……あの方こそ、悟りの境地に達した『生き仏』です。高野山の修行の成果が、ここで繋がりました」

「パンダを拝むな。でもまあ、見てるだけで癒やされるな……」

 直も仕事のストレスが溶けていくのを感じた。

「俺も来世はパンダになりたい。営業ノルマのない世界で、笹食って寝てたい」

「直君、パンダも生存競争は大変ですよ。可愛さを維持する努力が必要です」


五、崎の湯・荒波と裸の付き合い

 夕刻。白浜といえば温泉。日本三古湯の一つ、白浜温泉へ。選んだのは、万葉集にも詠まれた歴史ある露天風呂「崎の湯」。太平洋に突き出した岩場にあり、波しぶきがかかるほどの近さが売りだ。

 服を脱ぎ、岩場の湯船へ。硫黄と潮の香りが混ざり合う。

「……あつッ! でも気持ちええ!」

 直が湯に浸かる。

「海と一体化してるわ。……おい亮、お前も早く入れ」

 亮はタオル一枚で岩の上に仁王立ちしていた。

「……海よ! 我を受け入れよ!」

 ザッバーン!!

 その瞬間、大きな波が岩場に打ち寄せ、亮に冷たい海水を浴びせた。

「ひゃあッ! 冷たッ! ……しょっぱい!」

 亮が慌てて湯船に飛び込む。

「……直君、自然は厳しいですね。温かいお湯と、冷たい海水。……これが『アメとムチ』ですか」

「ただのドジや。……見てみろ、あの夕陽」

 水平線に沈む夕陽が、海面を黄金色に染めていく。湯気越しに見る絶景。二人は並んで、ぼんやりと海を眺めた。

「……和歌山、ええとこやな」

「はい。山も海も、全力で私たちを癒やしにかかってきます」


六、幻の高級魚クエ・しこなる美食

 夜。いよいよ今回の旅のメインイベントだ。白浜の料理旅館『海楼』の個室。テーブルの中央には、土鍋と、美しく薄造りにされた白身魚の大皿が鎮座している。

 クエ(九絵)。

 「幻の魚」と呼ばれ、フグよりも美味いと称される大型のハタ科の魚だ。その見た目はグロテスクだが、味は繊細かつ濃厚。

「……これが、クエ」

 亮がゴクリと喉を鳴らす。

「一見、ただの白身に見えますが、脂の乗り方が尋常ではないオーラを放っています」

「よし、まずは薄造りからや」

 直が箸を伸ばす。「ポン酢ともみじおろしで……」

 パクり。

 モグモグ……。

「……!!」

 直が箸を止める。

「……なんやこれ。弾力がすごい。フグみたいにコリコリしてるけど、噛んだ瞬間に広がる脂の甘みが段違いや! 濃厚! でも臭みゼロ!」

 亮も一口。

「……おおお……。口の中で魚が暴れています。……いや、抱きしめてきます。この脂、コラーゲンの塊ですね。明日、私のお肌はパンダよりツルツルになっていることでしょう」

 合わせる酒は、和歌山の名酒『紀土』の純米大吟醸。フルーティーで優しい口当たりが、クエの強い旨味を包み込む。

「……合う。合いすぎる」

 亮がお猪口を空ける。

「クエの脂を、紀土の酸味がスッと切ってくれる。……無限機関の完成です」

 そして、メインの「クエ鍋」へ。骨付きのアラを鍋に投入する。クエは「皮と身の間」が一番美味いと言われる。ゼラチン質が溶け出し、スープが白濁していく。

 熱々のアラにかぶりつく。

「……はふッ、あつッ! ……うまいッ!!」

 直が叫ぶ。

「この皮のトロトロ感! プルプルや! 唇がくっつくくらい濃厚なゼラチン質! 身はホクホクで、鶏肉みたいに味が濃い!」

 亮は、目をつぶって身震いした。

「……直君、クエの顔を見たことがありますか? 岩のようにゴツゴツして、決してイケメンではありません。しかし、その内面(味)はこんなにも美しい……。これは教訓です。『人は見かけによらぬ』、いや『魚は見かけによらぬ』!」

「説得力あるような無いような……。とにかく酒や! 次は『黒牛』頼むぞ!」

 雑炊まで完食した頃には、二人は完全に出来上がっていた。高級魚の魔力と日本酒の力で、千鳥足レベルはマックスに達していた。


七、和歌山ラーメンと早すしの誘惑

 旅館を出て、夜の白浜の街をふらふらと歩く。満腹のはずだが、飲んだ後の「シメ」は別腹だ。これが旅の、そして酔っ払いの悪い癖である。

 赤提灯に吸い寄せられるように入ったのは、和歌山ラーメン(中華そば)の店『丸高』。店内は豚骨醤油の強烈な匂いが漂っている。

「……この匂い。獣の匂いです」

 亮が鼻をひくつかせる。

「クエという海の王者を倒した後は、陸の王者が私を呼んでいます」

 注文したのは「中華そば」。茶褐色のスープに、黄色いストレート麺、チャーシュー、メンマ、そして蒲鉾。

「……この蒲鉾が和歌山ラーメンの印や」

 直がスープを啜る。

「……濃い! 豚骨のコクと醤油のキレがガツンと来る! でも見た目ほど脂っこくないんや」

 亮は、テーブルの上に置いてある「早すし」(鯖の押し寿司)に手を伸ばした。和歌山のラーメン屋では、テーブルにゆで卵と早すしが置いてあり、食べた分だけ自己申告で支払うシステムだ。

「……ラーメンを待つ間に寿司を食う。これぞ和歌山のファストフード文化です」

 亮が鯖寿司を頬張る。

「酢飯の酸味が、豚骨スープの口直しに最高です。……寿司、ラーメン、寿司、ラーメン。……炭水化物の二重奏デュエット!」

「お前、さっき雑炊食ったばっかりやろ! 胃袋どうなっとんねん!」

「ブラックホールです。パンダと同じ白黒(酢飯と海苔)ですから」 「意味不明や!」


八、白良浜・月の砂漠と二人の約束

 店を出ると、日付が変わる頃だった。二人は、真っ白な砂浜が広がる白良浜へ出た。ハワイのワイキキビーチと姉妹浜というだけあって、砂が驚くほど白く、サラサラしている。

 月明かりに照らされた白い砂浜。波音だけが響く。

「……綺麗やな」

 直が砂の上に座り込む。

「昼間の賑やかさが嘘みたいに静かや」

 亮は靴と靴下を脱ぎ、波打ち際へ走った。

「……アハハ! 砂が! 砂が小麦粉のようです!」

 一人ではしゃぎ、千鳥足でステップを踏んでいる。

「♪月が~とっても~青い~から~」

 直はその姿を見て、ふと笑いがこみ上げてきた。

「……ほんま、飽きんやつやな」

 亮が戻ってきて、直の隣に座った。

「直君。高野山の静寂も良かったですが、この波音もまた、一種の読経ですね」

「すぐ仏教につなげるな」

「今回の旅で気づきました。聖と俗、静と動、山と海。人生には両方が必要なんですね」

「……珍しくまともなこと言うやん」

「つまり、平日は真面目に働き(聖)、週末はこうして泥酔する(俗)。このバランスこそが、私たちの『中道』なのです」

「結局、飲むことを正当化したいだけか!」

 直は立ち上がり、砂についた汚れを払った。

「さあ、帰って寝るぞ。明日は『とれとれ市場』で土産買わなあかんしな」

「はい! 私はパンダのぬいぐるみを買います。直君の分も」

「要らんわ! 30過ぎのおっさんがお揃いのパンダ持ってたら通報されるわ!」

 夜の白浜に、二人の笑い声が響く。白い砂浜には、二人のふらふらとした足跡が、長く長く続いていた。それはまるで、終わりのない旅路を描いているようだった。


(第15話 了)

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