滋賀・琵琶湖『湖上のペダルと、近江牛の深紅の誘惑』
一、マザーレイクは海である
三月某日。滋賀県、米原駅。新幹線も停まる交通の要衝に降り立った二人は、すぐにレンタサイクル店へ向かった。今日の天気は快晴。空の青と、目の前に広がる水面の青が溶け合っている。
午前十時。湯達 直は、本格的なクロスバイクのサドルを調整しながら、湖を見渡した。
「……デカい。何度見てもデカい。これ、対岸が見えへんぞ。海やん」
滋賀県民に「海ですか?」と聞くと「いいえ、湖です」と返される定番のやり取りを思い出す。滋賀県の面積の六分の一を占める琵琶湖は、関西一円の水を支える「マザーレイク」だ。
「直君、気合が足りませんよ」
背後から声がした。振り返ると、相棒の安木 亮が立っていた。直は今日のサイクリングのために、動きやすいスポーツウェアを着ている。しかし、亮は違った。黒い作務衣に、頭巾を被り、背中には風呂敷包みを背負っている。そして自転車は、カゴ付きの「ママチャリ」だ。
「……何その格好。泥棒か?」
「失礼な。甲賀忍者ですよ」
亮がシュシュッと手裏剣を投げる真似をする。
「滋賀といえば忍者。今日は『隠密サイクリング』です。風のように走り、影のようにグルメを盗み食いするのです」
「ママチャリで風になれるか! しかも変速ギアなしか! 死ぬぞ!」
「ふふ、私の脚力を見くびらないでください。……いざ、出陣! ニンニン!」
亮がフラフラと漕ぎ出した。直は溜息をつき、ペダルに足をかけた。目指すは、湖岸道路を南下し、長浜・彦根エリアを巡る「プチ・ビワイチ」だ。
二、彦根城・赤備えの猫と遭遇
湖岸道路は平坦で走りやすい。左手には伊吹山が雪を被って聳え、右手にはキラキラと輝く湖面。風を切って走る爽快感に、直の機嫌も良くなってきた。
「……気持ちええな! 車じゃわからん匂いや風を感じる!」
直がスピードを上げる。
数キロ走ると、後方から
「ハァ……ハァ……ござる……」
という荒い息遣いが聞こえてきた。亮がママチャリを立ち漕ぎしながら必死についてきている。
「……直君、待って……。忍法・足攣りの術が……発動しそうです……」
「自爆しとるやないか! ペース配分考えろ!」
なんとか彦根城に到着。国宝・彦根城。井伊直継・直孝によって築城され、天守が現存する貴重な城だ。急な石段を登り、天守前の広場へ。
そこには、彼がいた。ゆるキャラ界のレジェンド、ひこにゃんだ。兜をかぶった白い猫が、愛想を振りまいている。
「……おお!」
亮が息を吹き返す。
「あのお方こそ、彦根の守護神! 直君、見てください。あのモチモチとしたフォルム……。まるで大福餅に命が宿ったようです」
亮はひこにゃんの前に進み出ると、忍者のポーズで深々と頭を下げた。
「……御公儀の隠密、安木亮、ただいま参上つかまつった」
ひこにゃんは、ゆっくりと鈴を鳴らしてくれた。
チリーン。
「……! 直君、今、私と心が通じ合いました。『苦しゅうない、近江牛を食せ』とおっしゃいました」 「言うてへんわ。お前の腹が減ってるだけや」
天守閣からの眺めは絶景だった。眼下に広がる城下町と、その向こうに広がる琵琶湖。直が解説する。
「井伊家はな、徳川四天王の一つや。『井伊の赤備え』言うて、甲冑を全部赤色で統一した精鋭部隊やったんや」
「赤……。それはつまり、サシの入った赤身肉の色ですね」
「全部肉に結びつけるな!」
三、近江ちゃんぽん・野菜の山を越えろ
昼食。運動した体に塩分と炭水化物を補給すべく、滋賀県民のソウルフード「近江ちゃんぽん」の店『ちゃんぽん亭』へ。長崎ちゃんぽんとは違い、魚介ではなく、カツオや昆布の京風出汁がベース。そして具材は豚肉とたっぷりの野菜だ。
「……野菜の山です」
亮が丼を見つめる。キャベツ、もやし、キクラゲが富士山のように盛られている。
「直君、これは麺料理ではありません。サラダです。温野菜サラダの下に麺が隠れている、奥ゆかしい料理です」
スープを一口。黄金色の透き通ったスープだ。
「……! 優しい!」
亮が目を見開く。
「長崎のような白濁した豚骨のパンチとは違う、出汁の文化を感じます。……胃袋にスゥーッと染み渡る。これは疲れた忍者の回復薬です」
直も麺を啜る。
「うまい! 野菜の甘みが出汁に溶け出しとる。……そしてこれや!」
直は卓上の「お酢」を回しかけた。
「近江ちゃんぽんはな、途中で酢を入れて味変するのが流儀なんや」
亮も真似して酢を入れる。
「……酸味が加わって、味が締まりました! サッパリとして、無限に食べられそうです。……直君、お代わりしてもいいですか?」
「あかん。この後まだ走るんや。腹パンパンで自転車漕いだらリバースするぞ」
四、サラダパンと黒壁スクエア
午後は北上し、長浜エリアへ。途中のスーパー『平和堂』で、滋賀県民なら誰もが知るローカルパン「サラダパン」を購入し、湖岸のベンチで休憩した。コッペパンの中に、マヨネーズで和えた「たくあん」が入っているという、衝撃の一品だ。
「……たくあんですか?」
亮がパンを割る。
「パンと漬物。出会ってはいけない二人が、マヨネーズという仲人によって無理やり結婚させられたような……」
パクり。 ポリポリッ。
「……ん? ……意外とイケます」
亮が咀嚼する。
「たくあんの甘じょっぱさと、マヨネーズの酸味が、コッペパンの素朴さとマッチしています。……ポリポリという食感が、脳を刺激しますね。クセになる味です」
長浜に到着すると、「黒壁スクエア」を散策した。古い銀行や商家を改装した、ガラス工芸のショップやカフェが並ぶレトロな街並み。
亮はガラス細工の店で、繊細なガラスのぐい呑みを見つめていた。
「……美しい。この透明感、まるで私の心のようです」
「お前の心はもっと濁っとるわ。煩悩まみれや」
「直君、このぐい呑みを買います。今夜、これで滋賀の酒を飲むのです。……割らないように、忍法・風呂敷包みの術で守ります」
五、近江牛・深紅の王様とすき焼きの作法
夕暮れ時。西の空が茜色に染まり、琵琶湖が紫色に変わっていく。二人は自転車を返却し、長浜の老舗料亭『浜湖月』の暖簾をくぐった。
個室に通されると、そこには既に「戦場」が整えられていた。鉄鍋。生卵。そして……。
「……出た」
直が息を呑む。大皿に盛られた、近江牛のロース肉。鮮やかな紅色に、雪のようなきめ細かいサシ(脂肪)が入っている。それは肉というより、芸術的な織物のようだった。
「……神々しい」
亮が正座をし、手を合わせる。
「彦根城の赤備えよりも赤い。……直君、これは食べ物ではありません。信仰の対象です」
「拝むな、食うぞ。……ええか亮、近江牛は日本三大和牛の中でも一番歴史が古いんや。江戸時代、肉食が禁じられてた頃も『薬(反本丸)』として将軍家に献上されてたんやぞ」
仲居さんが鍋に牛脂を引く。
ジューッ……。
甘く、芳しい香りが部屋中に広がる。これだけでご飯三杯はいける香りだ。
関西風すき焼きは、割り下を使わない。 まずは肉だけを焼く。そして、砂糖と醤油を直接かけるのだ。
ジュワワワァァーーッ!!
醤油が焦げる香ばしい匂いと、砂糖の甘い匂いが爆発する。
「……ああっ! 音が! 香りが!」
亮が悶える。
「私の脳内でドーパミンとエンドルフィンがサンバを踊っています!」
仲居さんが「どうぞ」と、焼けたばかりの肉を、溶き卵の入った器に入れてくれた。
直は震える手で箸を持ち、肉を卵に絡める。口へ運ぶ。
「……ッ!!」
直が目を見開き、フリーズする。 数秒後、ゆっくりと口を開いた。
「……溶けた。……肉が、飲める。噛んだ瞬間に脂の甘みがジュワッと溢れて、醤油の塩気と卵のまろやかさが混ざり合って……。これはアカン。人をダメにする美味さや!」
亮も一口。
「……はふっ。……んん~……」
亮が恍惚の表情で天井を仰ぐ。
「……天国です。牛さんが、私の舌の上で優しく微笑んでいます。『よく頑張ったね、ママチャリで』と……。この脂、全くしつこくない。まるで上質なオリーブオイルのようです」
そこに、滋賀の地酒『七本鎗』を流し込む。キリッとした辛口の純米酒が、口の中の脂をスッと切っていく。
「……あうぅぅ……」
直が唸る。
「すき焼きの濃厚な甘辛さと、この力強い酒。……最強のタッグや。武田信玄と上杉謙信が手を組んだようなもんや」
野菜、焼き豆腐、そして滋賀名物の「赤こんにゃく」を投入し、宴は続く。赤こんにゃくは、織田信長が「派手なものが好きだから赤く染めさせた」という伝説がある。
「……プルプルです」
亮が赤こんにゃくを摘む。
「見た目はレバーみたいですが、味はこんにゃく。……直君、滋賀県民は遊び心がありますね」
六、鮒寿司・発酵の迷宮へようこそ
すき焼きで満腹になり、至福の時間を過ごしていた二人に、最後の試練が運ばれてきた。滋賀の郷土料理の王様、鮒寿司である。琵琶湖のニゴロブナを塩漬けにし、さらにご飯に漬け込んで一年以上発酵させた、なれずしの一種。その独特の香りは、「チーズのよう」とも「古靴下のよう」とも言われる。
「……来ましたね」
直が少し身構える。
「俺、これ実は苦手なんや……。匂いが強烈やろ?」
皿の上には、薄くスライスされた鮒寿司。見た目はオレンジ色の卵(子)を持っていて美しい。しかし、鼻を近づけると……ツン、と酸っぱい発酵臭が漂う。
「直君、これは匂いを楽しむものではありません。歴史を楽しむのです」
亮は平然としている。
「千年以上前から続く、保存食の知恵。日本の寿司のルーツ。……いただきます」
亮は一切れを口に入れ、ゆっくりと噛み締めた。そして、日本酒『松の司』をちびり。
「……!!」
亮が目を見開く。
「……直君! これは『和製ブルーチーズ』です! 確かに酸味は強いですが、噛めば噛むほど、魚の旨味と乳酸菌の深いコクが湧き上がってきます。……酒が進んで仕方がない!」
直も意を決して、一切れ口に入れた。
「……うっ、酸っぱ! ……ん? でも……」
モグモグ。
「……あれ? 臭くない。むしろ、クリーミーや。卵のプチプチした食感と、濃厚なチーズみたいな味が……。これ、酒にめちゃくちゃ合うやん!」
「でしょう? 偏見は舌を曇らせますよ」
亮が得意げに笑う。
「この酸味は、私たちが今日かいた汗と同じ、努力の結晶なのです(違う)」
結局、二人は鮒寿司をお代わりし、徳利が三本空いた。
七、湖畔の月と、終わらない旅
店を出ると、夜風が冷たかったが、アルコールで火照った体には心地よかった。二人は千鳥足で、長浜港の近くまで歩いた。
暗闇の中に、広大な琵琶湖が広がっている。波音は海のようにザザン、ザザンと響くが、潮の香りはしない。澄んだ水の匂いだ。 湖面に、満月が揺らめいている。
「……琵琶湖周航の歌、知ってますか?」
亮が突然歌い出した。
「♪我はうーみの子、さすらいの~……」
調子外れだが、不思議と哀愁がある。
「……ええ歌やな」
直が缶コーヒー(酔い覚まし)を開ける。
「滋賀は地味やと言われるけど、歴史も食も、めちゃくちゃ深かったな。……底なし沼や」
「ええ。近江商人の『三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)』。今日の旅は、まさに『三方よし』でした」
亮が月を見上げる。
「景色よし、味よし、そして……相棒よし」
「……何カッコつけてんねん。気持ち悪い」
直は照れ隠しに亮の背中を叩いた。
「明日は筋肉痛で動かれへんくせに」
「ふふ、明日のことは明日考えましょう。今はただ、この満腹感と、微かな鮒寿司の余韻に浸りたい……」
亮は懐から、昼間に買ったガラスのぐい呑みを取り出し、月にかざした。
「……月が、グラスの中に入りました。直君、飲み干せますか? この月を」
「お前は李白か! 溺れるぞ!」
二人の笑い声が、夜の湖畔に吸い込まれていく。マザーレイクは、そんな酔っ払い二人を、母のような広さで静かに見守っていた。
(第14話 了)




