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今宵も、君と千鳥足  作者: 花曇り


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12/31

兵庫・神戸『ハイカラ坂の探偵と、豚饅頭(ぶたまん)の迷宮』

一、北野の坂道は、紳士への登竜門

 二月某日。大阪駅からJR新快速でわずか二十分。車窓に海が近づき、六甲の山並みが迫ると、そこはもう兵庫県・神戸市である。三ノさんのみや駅に降り立った瞬間、湯達 直は背筋を伸ばした。

「……あかん、猫背になっとる場合ちゃう。ここは神戸や。歩く人全員がモデルに見える街や」

 直は今日の日のために、クリーニングしたてのトレンチコートを羽織り、革靴も磨いてきた。大阪の「安くて旨い」精神から、神戸の「高くても良いもの」精神への切り替えが必要だ。

「さて、亮。お前も今日はビシッと……おい、誰やその不審者は」

 直の視線の先にいたのは、駅前の待ち合わせスポット「パイ山(さんきたアモーレ広場)」……ではなく、フラワーロードの花壇に埋もれるように立つ、一人の男。相棒の安木 亮だ。今日の彼の装いは、茶色のツイードジャケットに、チェック柄のハンチング帽、口元には(火のついていない)パイプをくわえ、手には虫眼鏡を持っている。

「……フム。このパンジーの花粉の付き具合……犯人は『春一番』ですね」

「何の設定や! シャーロック・ホームズか!」

 直がツッコミを入れる。

「それとも、ただの怪しい植物マニアか!」

「おや、ワトソン君(直のこと)。遅かったですね」

 亮がパイプを離してニヒルに笑う。

「神戸といえば異人館。異人館といえば英国。英国といえば名探偵でしょう。私は今、この街に潜む『謎』と『美味しい匂い』を捜査しているのです」

「匂いにつられとるだけやないか。……ほら行くぞ、まずは山側、北野異人館街や」

 二人は北へ向かって歩き出した。神戸の地形は単純だ。海側が南、山側が北。しかし、その「山側」への道のりは、想像以上に過酷だった。

 北野坂きたのざか。お洒落なブティックやカフェが並ぶ優雅な通りだが、その勾配は登山レベルである。

「……ハァ、ハァ……。直君、話が違います」

 亮が虫眼鏡を杖代わりにして喘ぐ。

「これは『散策』ではありません。『修行』です。神戸のマダムたちは、毎日この崖を登ってアフタヌーンティーを楽しんでいるのですか? 脚力がオリンピック選手級です」

「せやから神戸の人は足腰が強いし、スタイルがええんや。……ほら見ろ、あの緑色の洋館。あれがスターバックスやぞ。登録有形文化財や」

 明治時代の洋館をそのまま利用したスタバの前で、二人は一息ついた。異国情緒あふれる街並み。レンガ造りの塀、風見鶏の回る屋根。

「……美しいですね」

 亮が呼吸を整え、景色を見渡す。

「大阪のごちゃごちゃした路地も好きですが、この『余白』のある街並み……。空気が澄んでいます。直君、私の心の汚れも、このオシャンティな空気で浄化されそうです」 「お前の心の汚れは業務用洗剤でも落ちんわ」

 さらに坂を登り、「風見鶏かざみどりの館」へ。赤レンガの外壁が青空に映える。

「……直君、あの鶏は知っていますね」

 亮が屋根の風見鶏を見上げる。

「風の向くまま、気の向くまま。あれは私です。私の前世は、あそこで回っている鉄の鶏だったのかもしれません」 「お前は風を読むんじゃなくて、流されてるだけや」


二、ビフカツ・赤き肉の誘惑

 正午。坂を下り、トアロード周辺へ。神戸ランチといえば、やはり「洋食」である。明治の開港以来、西洋の料理人が住み着き、日本人の口に合うように進化させたハイカラな味。

 二人が入ったのは、創業七十年の老舗洋食店『グリル・みなと』。赤いチェックのテーブルクロス、使い込まれた銀の食器。

「……この雰囲気。昭和モダンです」

 亮がナプキンを首にかける。

「BGMのジャズが、空腹という楽器を弾いています」

「ええか亮。神戸で『カツ』言うたら、トンカツちゃうぞ。ビフカツ(ビーフカツレツ)や」

 直がメニューを指差す。

「牛肉文化の極みや。今日は奮発して『ヘレビーフカツレツ』を行くぞ」

 運ばれてきた皿の上には、芸術品が乗っていた。漆黒に近い濃厚なデミグラスソースがかかった、カツレツ。ナイフを入れる。サクッ、という軽快な音。断面を見ると――

「……赤い!」

 亮が息を呑む。

「レアです! 真ん中がルビーのように輝いています! 直君、これは肉の宝石箱です!」

 一口食べる。衣の香ばしさ、デミグラスのほろ苦さと甘み、そしてレアな牛肉の柔らかさ。

「……んん~~ッ!!」

 亮がテーブルを叩く(軽く)。

「……反則です! 噛む必要がありません! 舌の上で肉が解けて、肉汁のスープになります。そしてこのデミグラスソース……。何日煮込んだのですか? 一週間? 一ヶ月? いや、これは『永遠』を煮込んだ味です!」

「食レポが大袈裟やけど……確かに美味い!」

 直も夢中で頬張る。「このソースの深み、大阪のソースカツとはまた違うベクトルや。……ここに赤ワインを合わせるのが神戸流や」

 昼間からグラスワインで乾杯。カツの脂を、タンニンが洗い流していく。

「……最高や。文明開化の音がする」

 直がグラスを揺らす。

「福沢諭吉も、この味を知ってたら『学問のすゝめ』じゃなくて『ビフカツのすゝめ』を書いたはずや」


三、南京町・豚饅頭とパンダの罠

 優雅なランチの後は、一転して喧騒の中へ。南京町なんきんまち。横浜、長崎と並ぶ日本三大中華街の一つ。「長安門」をくぐると、そこは赤と金色の世界。爆竹のような活気と、中国語と関西弁が飛び交うカオスな空間だ。

「……すごい熱気です」

 亮がキョロキョロする。

「さっきまでの英国紳士の世界から、一瞬でアジアの市場へワープしました。直君、パスポートは要りませんか?」

「要らんわ。……ここに来たら、これや」

 直が指差したのは、広場の中央にある「あずまや」の周りに伸びる長蛇の列。老舗『老祥記』の豚饅頭だ。

「並ぶぞ。これを食わずに神戸は語れん」  三十分並んで手に入れたのは、小ぶりな豚まん。皮は黄色がかっていて、麹で発酵させているためモチモチしている。

「……熱っ!」

 直がハフハフしながら齧る。

「これや! 肉汁がドピュッと出るから気をつけろ! ……うめえ! 皮に独特の風味があって、中のあんが醤油ベースで濃いんや!」

 亮も一口。

「……むぐッ。……ジューシー! これは小籠包と肉まんのハーフ&ハーフですね。……直君、私のシャツに肉汁が飛びました。これは『美味の勲章』として洗わずに取っておきます」 「洗え! 脂染みになるぞ!」

 二人は、中華街を食べ歩きした。ゴマ団子、北京ダックのラップサンド、小籠包。

 広場には、石造りの十二支の像が並んでいるが、なぜか「パンダ」もいる。

「……直君。十二支にパンダはいませんよね?」

 亮がパンダ像に話しかける。

「君は、ネズミに騙されてレースに参加できなかった猫の代打ですか? それともただの客寄せパンダ……ハッ! 文字通り客寄せパンダ!」

「細かいことは気にするな。可愛ければええんや。それが関西のノリや」

 そこへ、屋台の威勢のいいお兄ちゃんが声をかけてきた。

「兄ちゃんら! 美味しいフカヒレスープあるで! 飲んでってや!」

「お、いいねえ」

 と直。

「ハウマッチ?」

 と亮。

「三百円! 安いよ!」

 熱々のとろみスープをすする。

「……あったまるなぁ」

 直が息をつく。

「海風が冷たいから、このとろみが体に染みるんや」


四、メリケンパーク・震災の記憶と復興の塔

 中華街を抜け、海側へ歩く。視界が広がり、潮の香りが強くなる。メリケンパーク。神戸のランドマーク、真紅の「神戸ポートタワー」と、帆船の帆をイメージした「海洋博物館」が並ぶ。

 岸壁には、大きなモニュメント「BE KOBE」があり、若者たちが写真を撮っている。

「……海です、直君」

 亮が手すりに寄りかかり、遠くを行き交う船を見つめる。

「大阪の海は『商売の海』という感じでしたが、神戸の海は『旅立ちの海』ですね。……どこか遠くへ行きたくなります」

「センチメンタルか。……でもな、この岸壁を見てみろ」

 直が指差したのは「神戸港震災メモリアルパーク」。阪神・淡路大震災で崩れた岸壁が、そのまま保存されている一角だ。

 直の表情が真剣になる。

「一九九五年一月十七日。俺たちはまだ子供やったけど、あの日のことは忘れられへん。……この街はな、一度壊滅したんや。でも、そこから立ち上がって、こんなに綺麗な街に戻った。……神戸の『お洒落』や『ハイカラ』の底には、ものすごい強さと優しさがあるんや」

 亮は、傾いた街灯と崩れたコンクリートを静かに見つめた。そして、帽子を取り、深く頭を下げた。

「……痛みを知る街は、美しいのですね」

 亮がポツリと言う。

「だから、この街の人は、今を楽しむことに貪欲なのかもしれません。美味しいものを食べ、お洒落をして、ジャズを聴いて……。一日一日を大切に生きている」

「……せやな。しんみりしてしもたけど、それが神戸のソウルや」

 海風が吹き抜け、カモメが鳴いた。二人はしばらく無言で、キラキラと光る海を見ていた。

「……よし! 暗なってきたし、その『魂』を注入しに行くぞ!」

 直が手をパンと叩いた。

「神戸の夜はこれからや! ジャズと酒の時間や!」


五、ジャズバー・大人の階段を踏み外す

 夜七時。二人は再び北野方面へ戻り、ハンター坂にある老舗のジャズバー『ミッドナイト・ブルー』の扉を開けた。神戸は、日本で初めてジャズバンドがプロとして演奏した「日本のジャズ発祥の地」でもある。

 重厚な木の扉を開けると、そこは紫煙と紫色の照明が揺らめく大人の空間。ステージでは、ピアノトリオがスタンダードナンバー『Take Five』を演奏している。

「……カッコええ」

 直が声を潜める。

「これや。大阪の居酒屋で『ガハハ!』と笑うのもええけど、神戸ではグラスを片手に指でリズムを刻むのが流儀や」

 カウンターの隅に座る。バーテンダーが滑らかに近づいてきた。

「何になさいますか?」

「……『神戸ハイボール』を」

 直が注文する。氷を入れず、キンキンに冷やしたウイスキーとソーダだけで作る、神戸スタイルのハイボールだ。

「私は……そうですね」

 亮がメニューを見ずにキザに言う。

「このピアノの音色に似合う、とびきり切ないカクテルを。……色は、私の失恋した心のようなブルーで」

 バーテンダーは微動だにせず、

「かしこまりました。ブルームーンですね」

 と返した。プロだ。

 乾杯。グラスが触れ合う音が、ピアノの音に溶ける。

「……くぅーッ!」

 直が唸る。

「氷がないから薄まらん! ウイスキーの香りがダイレクトに来る! ……これが大人の階段か!」

 亮はブルームーンを口に含み、目を閉じた。

「……スミレの香り。甘くて、でも度数が高い。……危険な女性のような味です」

 演奏が終わり、拍手が起こる。酔いが回った亮は、何を思ったか「ブラボー!」と叫びながら、エア・サックスを吹き始めた。

「……ブオー! パラララ~♪ ピーヒョロロ~♪」

 口でサックスののようなものを真似し、体をくねらせる。

「やめろ! 店の空気が凍っとるわ!」

 直が止めるが、亮は止まらない。

「……私は今、ジョン・コルトレーンと交信しています。……降りてきました、ジャズの神が!」

 意外にも、隣に座っていた白髪の老紳士が

「ほう、面白いスキャットだね」

 と笑ってくれた。

「君、リズム感が独特だ。まるで千鳥足のリズムだ」

「ありがとうございます! 私の流派は『酔拳』ならぬ『酔奏』です!」

 結局、老紳士に奢ってもらい、亮はステージの合間に飛び入りで(エア楽器ではなく)下手くそな歌を披露することになった。  曲は『Fly Me to the Moon』。しかし歌詞がうろ覚えで、

「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン……アンド・レット・ミー・イート・ブタマン……」

 と替え歌になり、店内は大爆笑に包まれた。


六、一千万ドルの夜景と、帰りの電車

 店を出ると、すっかり深夜。二人は千鳥足で、再び海側、ハーバーランドへ向かった。山に登る体力はもう残っていないが、ここから見る夜景も絶品だ。

 モザイクのウッドデッキから見る対岸。ポートタワーが赤く輝き、海洋博物館が緑色にライトアップされ、背後の山には「いかり山」や「市章山」の電飾が浮かんでいる。

「……一千万ドルの夜景や」

 直が缶コーヒー(酔い覚まし)を握りしめる。

「昔は百万ドルやったけど、電気代も上がって値上がりしたんかな」

「直君、ロマンチックのかけらもありませんね」

 亮は海風に吹かれ、コートの襟を立てた。

「……綺麗ですね。宝石箱をひっくり返したようです。……でも、少し寂しいです」

「何がや?」

「これだけ綺麗な街なのに、私の隣にいるのが直君だなんて」

「やかましいわ! 俺かて、隣が深田恭子やったらどんなに幸せか!」

 二人は笑い合い、肩を組んだ。

「……でもまあ、悪くない夜やったな」

「はい。豚まんも、ビフカツも、ジャズも。神戸は『満腹』と『満足』のハーモニーでした」

 帰りのJR神戸線。新快速のクロスシートに座った瞬間、二人は泥のように眠りに落ちた。夢の中で、亮はパンダと一緒にジャズを演奏し、直はポートタワーの上で営業成績一位の表彰を受けていた。

 電車は東へ走る。日常という名の大阪へ向かって。しかし、その顔には、ハイカラな港町の余韻が、微かに残っていた。


(第12話 了)

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