兵庫・神戸『ハイカラ坂の探偵と、豚饅頭(ぶたまん)の迷宮』
一、北野の坂道は、紳士への登竜門
二月某日。大阪駅からJR新快速でわずか二十分。車窓に海が近づき、六甲の山並みが迫ると、そこはもう兵庫県・神戸市である。三ノ宮駅に降り立った瞬間、湯達 直は背筋を伸ばした。
「……あかん、猫背になっとる場合ちゃう。ここは神戸や。歩く人全員がモデルに見える街や」
直は今日の日のために、クリーニングしたてのトレンチコートを羽織り、革靴も磨いてきた。大阪の「安くて旨い」精神から、神戸の「高くても良いもの」精神への切り替えが必要だ。
「さて、亮。お前も今日はビシッと……おい、誰やその不審者は」
直の視線の先にいたのは、駅前の待ち合わせスポット「パイ山(さんきたアモーレ広場)」……ではなく、フラワーロードの花壇に埋もれるように立つ、一人の男。相棒の安木 亮だ。今日の彼の装いは、茶色のツイードジャケットに、チェック柄のハンチング帽、口元には(火のついていない)パイプをくわえ、手には虫眼鏡を持っている。
「……フム。このパンジーの花粉の付き具合……犯人は『春一番』ですね」
「何の設定や! シャーロック・ホームズか!」
直がツッコミを入れる。
「それとも、ただの怪しい植物マニアか!」
「おや、ワトソン君(直のこと)。遅かったですね」
亮がパイプを離してニヒルに笑う。
「神戸といえば異人館。異人館といえば英国。英国といえば名探偵でしょう。私は今、この街に潜む『謎』と『美味しい匂い』を捜査しているのです」
「匂いにつられとるだけやないか。……ほら行くぞ、まずは山側、北野異人館街や」
二人は北へ向かって歩き出した。神戸の地形は単純だ。海側が南、山側が北。しかし、その「山側」への道のりは、想像以上に過酷だった。
北野坂。お洒落なブティックやカフェが並ぶ優雅な通りだが、その勾配は登山レベルである。
「……ハァ、ハァ……。直君、話が違います」
亮が虫眼鏡を杖代わりにして喘ぐ。
「これは『散策』ではありません。『修行』です。神戸のマダムたちは、毎日この崖を登ってアフタヌーンティーを楽しんでいるのですか? 脚力がオリンピック選手級です」
「せやから神戸の人は足腰が強いし、スタイルがええんや。……ほら見ろ、あの緑色の洋館。あれがスターバックスやぞ。登録有形文化財や」
明治時代の洋館をそのまま利用したスタバの前で、二人は一息ついた。異国情緒あふれる街並み。レンガ造りの塀、風見鶏の回る屋根。
「……美しいですね」
亮が呼吸を整え、景色を見渡す。
「大阪のごちゃごちゃした路地も好きですが、この『余白』のある街並み……。空気が澄んでいます。直君、私の心の汚れも、このオシャンティな空気で浄化されそうです」 「お前の心の汚れは業務用洗剤でも落ちんわ」
さらに坂を登り、「風見鶏の館」へ。赤レンガの外壁が青空に映える。
「……直君、あの鶏は知っていますね」
亮が屋根の風見鶏を見上げる。
「風の向くまま、気の向くまま。あれは私です。私の前世は、あそこで回っている鉄の鶏だったのかもしれません」 「お前は風を読むんじゃなくて、流されてるだけや」
二、ビフカツ・赤き肉の誘惑
正午。坂を下り、トアロード周辺へ。神戸ランチといえば、やはり「洋食」である。明治の開港以来、西洋の料理人が住み着き、日本人の口に合うように進化させたハイカラな味。
二人が入ったのは、創業七十年の老舗洋食店『グリル・港』。赤いチェックのテーブルクロス、使い込まれた銀の食器。
「……この雰囲気。昭和モダンです」
亮がナプキンを首にかける。
「BGMのジャズが、空腹という楽器を弾いています」
「ええか亮。神戸で『カツ』言うたら、トンカツちゃうぞ。ビフカツ(ビーフカツレツ)や」
直がメニューを指差す。
「牛肉文化の極みや。今日は奮発して『ヘレビーフカツレツ』を行くぞ」
運ばれてきた皿の上には、芸術品が乗っていた。漆黒に近い濃厚なデミグラスソースがかかった、カツレツ。ナイフを入れる。サクッ、という軽快な音。断面を見ると――
「……赤い!」
亮が息を呑む。
「レアです! 真ん中がルビーのように輝いています! 直君、これは肉の宝石箱です!」
一口食べる。衣の香ばしさ、デミグラスのほろ苦さと甘み、そしてレアな牛肉の柔らかさ。
「……んん~~ッ!!」
亮がテーブルを叩く(軽く)。
「……反則です! 噛む必要がありません! 舌の上で肉が解けて、肉汁のスープになります。そしてこのデミグラスソース……。何日煮込んだのですか? 一週間? 一ヶ月? いや、これは『永遠』を煮込んだ味です!」
「食レポが大袈裟やけど……確かに美味い!」
直も夢中で頬張る。「このソースの深み、大阪のソースカツとはまた違うベクトルや。……ここに赤ワインを合わせるのが神戸流や」
昼間からグラスワインで乾杯。カツの脂を、タンニンが洗い流していく。
「……最高や。文明開化の音がする」
直がグラスを揺らす。
「福沢諭吉も、この味を知ってたら『学問のすゝめ』じゃなくて『ビフカツのすゝめ』を書いたはずや」
三、南京町・豚饅頭とパンダの罠
優雅なランチの後は、一転して喧騒の中へ。南京町。横浜、長崎と並ぶ日本三大中華街の一つ。「長安門」をくぐると、そこは赤と金色の世界。爆竹のような活気と、中国語と関西弁が飛び交うカオスな空間だ。
「……すごい熱気です」
亮がキョロキョロする。
「さっきまでの英国紳士の世界から、一瞬でアジアの市場へワープしました。直君、パスポートは要りませんか?」
「要らんわ。……ここに来たら、これや」
直が指差したのは、広場の中央にある「あずまや」の周りに伸びる長蛇の列。老舗『老祥記』の豚饅頭だ。
「並ぶぞ。これを食わずに神戸は語れん」 三十分並んで手に入れたのは、小ぶりな豚まん。皮は黄色がかっていて、麹で発酵させているためモチモチしている。
「……熱っ!」
直がハフハフしながら齧る。
「これや! 肉汁がドピュッと出るから気をつけろ! ……うめえ! 皮に独特の風味があって、中の餡が醤油ベースで濃いんや!」
亮も一口。
「……むぐッ。……ジューシー! これは小籠包と肉まんのハーフ&ハーフですね。……直君、私のシャツに肉汁が飛びました。これは『美味の勲章』として洗わずに取っておきます」 「洗え! 脂染みになるぞ!」
二人は、中華街を食べ歩きした。ゴマ団子、北京ダックのラップサンド、小籠包。
広場には、石造りの十二支の像が並んでいるが、なぜか「パンダ」もいる。
「……直君。十二支にパンダはいませんよね?」
亮がパンダ像に話しかける。
「君は、ネズミに騙されてレースに参加できなかった猫の代打ですか? それともただの客寄せパンダ……ハッ! 文字通り客寄せパンダ!」
「細かいことは気にするな。可愛ければええんや。それが関西のノリや」
そこへ、屋台の威勢のいいお兄ちゃんが声をかけてきた。
「兄ちゃんら! 美味しいフカヒレスープあるで! 飲んでってや!」
「お、いいねえ」
と直。
「ハウマッチ?」
と亮。
「三百円! 安いよ!」
熱々のとろみスープをすする。
「……あったまるなぁ」
直が息をつく。
「海風が冷たいから、このとろみが体に染みるんや」
四、メリケンパーク・震災の記憶と復興の塔
中華街を抜け、海側へ歩く。視界が広がり、潮の香りが強くなる。メリケンパーク。神戸のランドマーク、真紅の「神戸ポートタワー」と、帆船の帆をイメージした「海洋博物館」が並ぶ。
岸壁には、大きなモニュメント「BE KOBE」があり、若者たちが写真を撮っている。
「……海です、直君」
亮が手すりに寄りかかり、遠くを行き交う船を見つめる。
「大阪の海は『商売の海』という感じでしたが、神戸の海は『旅立ちの海』ですね。……どこか遠くへ行きたくなります」
「センチメンタルか。……でもな、この岸壁を見てみろ」
直が指差したのは「神戸港震災メモリアルパーク」。阪神・淡路大震災で崩れた岸壁が、そのまま保存されている一角だ。
直の表情が真剣になる。
「一九九五年一月十七日。俺たちはまだ子供やったけど、あの日のことは忘れられへん。……この街はな、一度壊滅したんや。でも、そこから立ち上がって、こんなに綺麗な街に戻った。……神戸の『お洒落』や『ハイカラ』の底には、ものすごい強さと優しさがあるんや」
亮は、傾いた街灯と崩れたコンクリートを静かに見つめた。そして、帽子を取り、深く頭を下げた。
「……痛みを知る街は、美しいのですね」
亮がポツリと言う。
「だから、この街の人は、今を楽しむことに貪欲なのかもしれません。美味しいものを食べ、お洒落をして、ジャズを聴いて……。一日一日を大切に生きている」
「……せやな。しんみりしてしもたけど、それが神戸の魂や」
海風が吹き抜け、カモメが鳴いた。二人はしばらく無言で、キラキラと光る海を見ていた。
「……よし! 暗なってきたし、その『魂』を注入しに行くぞ!」
直が手をパンと叩いた。
「神戸の夜はこれからや! ジャズと酒の時間や!」
五、ジャズバー・大人の階段を踏み外す
夜七時。二人は再び北野方面へ戻り、ハンター坂にある老舗のジャズバー『ミッドナイト・ブルー』の扉を開けた。神戸は、日本で初めてジャズバンドがプロとして演奏した「日本のジャズ発祥の地」でもある。
重厚な木の扉を開けると、そこは紫煙と紫色の照明が揺らめく大人の空間。ステージでは、ピアノトリオがスタンダードナンバー『Take Five』を演奏している。
「……カッコええ」
直が声を潜める。
「これや。大阪の居酒屋で『ガハハ!』と笑うのもええけど、神戸ではグラスを片手に指でリズムを刻むのが流儀や」
カウンターの隅に座る。バーテンダーが滑らかに近づいてきた。
「何になさいますか?」
「……『神戸ハイボール』を」
直が注文する。氷を入れず、キンキンに冷やしたウイスキーとソーダだけで作る、神戸スタイルのハイボールだ。
「私は……そうですね」
亮がメニューを見ずにキザに言う。
「このピアノの音色に似合う、とびきり切ないカクテルを。……色は、私の失恋した心のようなブルーで」
バーテンダーは微動だにせず、
「かしこまりました。ブルームーンですね」
と返した。プロだ。
乾杯。グラスが触れ合う音が、ピアノの音に溶ける。
「……くぅーッ!」
直が唸る。
「氷がないから薄まらん! ウイスキーの香りがダイレクトに来る! ……これが大人の階段か!」
亮はブルームーンを口に含み、目を閉じた。
「……スミレの香り。甘くて、でも度数が高い。……危険な女性のような味です」
演奏が終わり、拍手が起こる。酔いが回った亮は、何を思ったか「ブラボー!」と叫びながら、エア・サックスを吹き始めた。
「……ブオー! パラララ~♪ ピーヒョロロ~♪」
口でサックスの音を真似し、体をくねらせる。
「やめろ! 店の空気が凍っとるわ!」
直が止めるが、亮は止まらない。
「……私は今、ジョン・コルトレーンと交信しています。……降りてきました、ジャズの神が!」
意外にも、隣に座っていた白髪の老紳士が
「ほう、面白いスキャットだね」
と笑ってくれた。
「君、リズム感が独特だ。まるで千鳥足のリズムだ」
「ありがとうございます! 私の流派は『酔拳』ならぬ『酔奏』です!」
結局、老紳士に奢ってもらい、亮はステージの合間に飛び入りで(エア楽器ではなく)下手くそな歌を披露することになった。 曲は『Fly Me to the Moon』。しかし歌詞がうろ覚えで、
「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン……アンド・レット・ミー・イート・ブタマン……」
と替え歌になり、店内は大爆笑に包まれた。
六、一千万ドルの夜景と、帰りの電車
店を出ると、すっかり深夜。二人は千鳥足で、再び海側、ハーバーランドへ向かった。山に登る体力はもう残っていないが、ここから見る夜景も絶品だ。
モザイクのウッドデッキから見る対岸。ポートタワーが赤く輝き、海洋博物館が緑色にライトアップされ、背後の山には「錨山」や「市章山」の電飾が浮かんでいる。
「……一千万ドルの夜景や」
直が缶コーヒー(酔い覚まし)を握りしめる。
「昔は百万ドルやったけど、電気代も上がって値上がりしたんかな」
「直君、ロマンチックのかけらもありませんね」
亮は海風に吹かれ、コートの襟を立てた。
「……綺麗ですね。宝石箱をひっくり返したようです。……でも、少し寂しいです」
「何がや?」
「これだけ綺麗な街なのに、私の隣にいるのが直君だなんて」
「やかましいわ! 俺かて、隣が深田恭子やったらどんなに幸せか!」
二人は笑い合い、肩を組んだ。
「……でもまあ、悪くない夜やったな」
「はい。豚まんも、ビフカツも、ジャズも。神戸は『満腹』と『満足』のハーモニーでした」
帰りのJR神戸線。新快速のクロスシートに座った瞬間、二人は泥のように眠りに落ちた。夢の中で、亮はパンダと一緒にジャズを演奏し、直はポートタワーの上で営業成績一位の表彰を受けていた。
電車は東へ走る。日常という名の大阪へ向かって。しかし、その顔には、ハイカラな港町の余韻が、微かに残っていた。
(第12話 了)




