京都・嵐山~先斗町『竹林の貴公子と、湯豆腐の哲学』
一、渡月橋・平安ごっこは突然に
二月某日。古都、京都。西の山並みに朝霧がかかり、桂川の水面が鈍色に輝く。平安時代から貴族の別荘地として愛された景勝地、嵐山。
午前九時。湯達 直は、嵐山のシンボル「渡月橋」のたもとで、眉間を押さえていた。今日の彼は、京都の寒さに備えてタートルネックにウールのロングコート。シックな装いだ。
「……なんでや。なんで京都に来ると、あいつの病状(コスプレ癖)が悪化するんや」
直の視線の先――橋の欄干に、一人の男がもたれかかっていた。相棒の安木 亮である。今日の亮は、どこで調達したのか、薄紫色の着物に、その上から狩衣のような羽織りをまとい、手には蝙蝠扇。完全に「平安貴族(の休日)」である。
「……くま(隈)なき月の、渡るに似る……」
亮が扇子で川面を指し、うっとりと呟いている。
「直君、見てください。この橋の名は、亀山上皇が『月が橋を渡るようだ』と仰ったことに由来します。……なんと風流な。今の私には見えます。昼間ですが、月が見えます」
「幻覚や! 病院行け!」
直がツッコミを入れる。
「ほら、行くぞ。観光客が『変な人がいる』ってインスタに上げ始めてるぞ!」
「おや、直君。無粋ですね。ここでは時間を忘れるのがマナーですよ」
亮が優雅に歩き出す(着物の裾が長すぎて少しつまづいた)。
「今日は私も『光源氏』になったつもりで、恋の歌の一つでも詠もうかと……」
「お前は光源氏というより、それを覗き見してる『放免(下級役人)』や! さっさと歩け!」
渡月橋は、全長一五五メートル。木製の欄干が美しいこの橋は、嵐山の風景に溶け込んでいる。
「直君、知っていますか? この橋には『後ろを振り返ってはいけない』という伝説があります。十三参りの帰りに振り返ると、授かった知恵を返してしまうそうです」
「俺たちはもう三十過ぎや! 十三歳の知恵なんかとっくになくして、代わりに『営業スマイル』と『二日酔い』を手に入れたわ!」
二、竹林の小径・かぐや姫捜索隊
橋を渡り、天龍寺の北側へ抜けると、世界が一変した。竹林の小径。空を覆い尽くすほどの数万本の竹が、天に向かって伸びている。風が吹くたびに、ザワザワ、カサカサ……と葉擦れの音が響き、笹の香りが降り注ぐ。
「……異界です」
亮が立ち止まり、天を仰ぐ。「ここは現世ではありません。月の都への滑走路です」
観光客の喧騒も、竹林の深さに吸い込まれていくようだ。亮は、一本の太い竹に耳を押し当てた。
「……もしもし? 姫? いらっしゃいますか?」
「何しとんねん」
「かぐや姫を探しています。私の計算では、このあたりの竹が光るはずなのです」
「竹取物語か。残念やけど、かぐや姫は月に帰った後や」
「……なんと」
亮が膝から崩れ落ちる(演技)。
「では、私は誰にこの恋文を渡せばいいのでしょう……。直君、代わりに受け取ってくれますか?」
「いらんわ! 燃やすぞ!」
二人は、竹林の中にある野宮神社へ。ここは源氏物語にも登場する、縁結びと子宝の神様だ。黒木の鳥居が、古来の形式を伝えている。
「縁結び……」
亮が真剣な顔で絵馬を見つめる。
「直君、私は決めました。次こそは、人間とのご縁をお願いします。前回(奈良)は鹿でしたから」
「ハードル下げすぎやろ。……ま、俺も頼むわ。『優良な取引先』との縁をな」
神石(亀石)を撫でながら、二人は切実な祈りを捧げた。風が吹き、竹林がザワリと鳴いた。それは神の失笑のようでもあった。
三、湯豆腐・白い肌への情熱
散策を終え、正午。嵐山といえば、これしかない。湯豆腐である。かつて南禅寺周辺で発祥した精進料理だが、ここ嵐山でも名店が多い。
二人が入ったのは、桂川沿いにひっそりと佇む老舗『松籟』。日本庭園を眺める座敷に通された。
「……静寂。これぞ京都のランチです」
亮が正座をし、居住まいを正す。目の前には、土鍋がセットされ、昆布出汁が静かに温められている。
「ええか亮。京都の豆腐はな、水が命や」
直が眼鏡を外し、湯気に備える。
「地下水が豊富で軟水やから、大豆の甘みを最大限に引き出せる。……シンプルやけど、ごまかしが効かん料理や」
運ばれてきたのは、真っ白な絹ごし豆腐。土鍋の中で、昆布と共にゆらゆらと揺れている。
「……見てください、直君」
亮が箸を止める。
「豆腐が踊っています。……いや、これは舞です。白拍子の静御前が、出汁という舞台で舞っているのです」
「ええから食え。す(空洞)が入るぞ」
網杓子ですくい、特製のつけダレへ。薬味はネギ、紅葉おろし、そして柚子。
ハフッ。亮が口に含む。
「……!!」
亮が目を丸くし、天を仰ぐ。
「……消えました。雪解けのように。……舌の上で優しく崩れ、大豆の濃厚な香りが鼻に抜けていきます。……熱い! でも優しい! これは『母性』です、直君! 大地の母性そのものです!」
直も一口。
「……美味いッ! なんやこの滑らかさは! プリンか! そして出汁醤油の深み! 柚子の香りがアクセントになって、いくらでも食える……。これぞ『引き算の美学』や!」
そこに、熱燗をきゅっとやる。京都の酒『玉乃光』。
「……五臓六腑に染み渡るとはこのことや」
直がため息をつく。
「精進料理やけど、酒が進むというのはどういうバグや。僧侶も裏で飲んでたんちゃうか」
コースには、生麩の田楽もついていた。もっちりとした粟麩と蓬麩に、甘い味噌がかかっている。
「……この食感! 耳たぶです!」
亮が叫ぶ。
「最愛の人の耳たぶを噛んでいるような……。背徳的かつ官能的な弾力です」
「例えが気持ち悪いわ! 黙って食え!」
四、トロッコ列車と保津川の絶景
腹ごしらえを済ませた二人は、嵯峨野トロッコ列車に乗り込んだ。かつての山陰本線の廃線跡を利用した、渓谷沿いを走る観光列車だ。窓ガラスのないオープン車両「ザ・リッチ号」を確保。
ガタン、ゴトン。ディーゼル機関車が動き出すと、眼下にはエメラルドグリーンの保津川が流れる。
「……絶景かな、絶景かな!」
亮が石川五右衛門の台詞を叫ぶ。
「風が! 風が平安の香りを運んできます!」
保津川下りの船が見えると、亮は身を乗り出して手を振った。
「おーい! 庶民のみなさーん! 元気ですかー! 私は元気でーす!」
船の客たちも、笑って手を振り返してくれる。
「直君、見てください。民が私を祝福しています。やはり私は高貴な生まれなのかもしれません」 「ただの陽気な観光客同士の交流や! 勘違いすな!」
列車はトンネルを抜け、鉄橋を渡る。ゴウゴウという轟音と、冷たい風。直は童心に帰っていた。
「……やっぱええな、鉄道は。この振動、この匂い。……営業車で回るのとは違う『旅』の実感がここにある」
「直君、狸の置物が並んでいますよ。彼らも私たちを見ています」
線路沿いには、信楽焼の狸たちがズラリと並んでいる駅がある。
「……彼らは、かつて人間だったのかもしれません。トロッコに乗り遅れた旅人の成れの果て……」
「ホラーにするな! 縁起物や!」
五、先斗町・千鳥のマークといちげんさん
夕暮れ時。二人は嵐山を後にし、京都市中心部・河原町へ移動した。目指すは、鴨川と木屋町通りの間に挟まれた、細長い花街・先斗町。
幅二メートルほどの狭い路地の両側に、お茶屋や飲食店がひしめき合う。「先斗町」のシンボルマークは「千鳥」。まさに『今夜も、君と千鳥足。』のためにあるような街だ。
「……ここです、直君」
亮が提灯の明かりに照らされた路地を見通す。
「千鳥の提灯が揺れています。私たちのホームグラウンドですね」
「せやな。千鳥足の本場や」
石畳の路地を歩く。三味線の音や、お座敷遊びのざわめきが、どこからともなく漏れ聞こえてくる。
「……一見さんお断り、の札がありますね」
亮が緊張した面持ちになる。
「直君、私たちは大丈夫でしょうか。私の顔パスは効くでしょうか」
「お前の顔パスは交番でしか効かんわ! ……今日は予約してある店に行くぞ」
直が連れて行ったのは、路地の奥にある京料理とおでんの店『洛中の鍋』。古い町家を改装した店内は、カウンター越しにおでん鍋の湯気が立ち上り、出汁の良い香りが充満している。
「おこしやす」
京言葉の女将さんが迎えてくれた。
「……『おこしやす』。いい響きです」
亮が骨抜きにされる。
「『いらっしゃいませ』の三倍、歓迎されている気がします」
カウンターに座り、まずはビール……ではなく、ここは日本酒だろう。京都・伏見の酒『英勲』を冷酒で。
そして料理は、京野菜を使った「おばんざい」の盛り合わせ。万願寺とうがらしの炊いたん、茄子の煮浸し、九条ネギのぬた。
「……色が綺麗や」
直が箸を伸ばす。
「京都の料理は目でも楽しむもんやな。……万願寺とうがらし、甘い! 辛くない! 肉厚でジューシーや!」
亮は「九条ネギのぬた」を口へ。
「……! シャキシャキとした食感と、酢味噌のまろやかさ。……これは、大人の味ですね。子供にはわからない、酸いも甘いも噛み分けた大人の……そう、直君のような哀愁の味がします」
「誰が哀愁や! まだフレッシュマンのつもりでおるわ!」
メインは、冬の京都のご馳走「おでん」。ただし、ただのおでんではない。透き通るような京出汁だ。大根、厚揚げ、そして「ひろうす(がんもどき)」。
「……ひろうす。中には銀杏や百合根が入っています」
亮がひろうすを割る。
「宝箱ですね。出汁をたっぷりと吸い込んだスポンジ……。噛むと、じゅわっ! と京都の地下水が溢れ出します」
酒が進む。隣の席には、舞妓さんらしき姿も見え隠れする(実際は観光客の体験舞妓かもしれないが、酔っ払いには本物に見える)。
亮のテンションがおかしくなってきた。
「……直君。あの方が私を見ています。きっと前世での恋人、夕霧太夫に違いありません」
「絶対違う。メニュー見てるだけや」
「……よし、ここは私が一曲」
亮は懐から扇子を取り出し(まだ持っていた)、即興で舞い始めた。
「……祇園精舎の鐘の声~、諸行無常の響きあり~……、あ、おでんの大根、おかわりくださ~い♪」
「歌詞が食欲に負けとるがな! 座れ!」
六、鴨川のカップルと等間隔の法則
店を出ると、夜風が火照った頬に心地よい。二人は鴨川の河川敷へと降りた。夜の鴨川といえば、カップルが等間隔に座ることで有名だ(「鴨川等間隔の法則」)。
直と亮は、その法則を乱すように、カップルの隙間に座り込んだ。
「……直君。愛し合う二人が、一定の距離を保って並んでいる。これは『斥力』と『引力』のバランスですね。物理学的にも興味深いです」
「ただ単に、隣の話が聞こえんように距離取ってるだけやろ」
直が缶チューハイ(コンビニで買った追い酒)を開ける。
プシュッ。
「……京都。ええ街やな」
直が川面を見つめる。
「歴史があって、伝統があって、でも新しいもんも受け入れる。……俺もな、そういう営業マンになりたいもんや」
「直君、酔うと真面目になりますね」
「うるさいわ。……お前はどうなんや。平安貴族にはなれたんか?」
亮は夜空を見上げた。街明かりで星は見えにくいが、月は綺麗だ。
「……なれませんでしたね。私はやはり、現代の迷子です。でも……」
亮が笑う。
「直君となら、どこの時代でも楽しめそうです。地獄の釜茹ででも、きっと『いい湯加減ですね』と言えるでしょう」
「地獄には行きたくないわ!」
その時、川向こうの南座(歌舞伎劇場)の明かりが消えた。夜が更けていく。
「……さて、そろそろ帰るか。それとも、もう一軒、祇園のバーでマティーニでも決めるか?」
直が立ち上がる。
「いいですね。私は『雪国』を所望します。……あ、直君。下駄の鼻緒が切れました」
「ええっ!? ここで!? ほら、不吉な予感しかせえへん!」
「おんぶしてください」 「嫌や! ……しゃあない、肩貸したるから歩け!」
京都の夜、千鳥足の二つの影が、鴨川沿いをよろめきながら歩いていく。背後で、千鳥が「チチチ」と鳴いた気がした。
(第11話 了)




