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今宵も、君と千鳥足  作者: 花曇り


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10/31

奈良・大和路『大仏様の掌(てのひら)と、万葉の酔い人』

一、時をかける改札口

 二月某日。近鉄奈良駅の改札を抜けた瞬間、空気の密度が変わった気がした。大阪・難波から快速急行でわずか四十分。トンネルを抜けて生駒の山を越えると、そこはもう「まほろば」の国である。

 午前十時。湯達 直は、駅前の行基ぎょうき菩薩の噴水前で、深呼吸をした。

「……空気が違うな。大阪の空気がソースの匂いやとしたら、奈良の空気は線香と土の匂いや」

 直は今日のガイドブックとして、分厚い歴史専門書を抱えている。服装は、寺社巡りに敬意を表して、落ち着いたグレーのツイードジャケットだ。

「さて、亮。今日は忙しいぞ。興福寺、東大寺、春日大社。1300年の歴史を一日で駆け抜けるんや。……おい、亮?」

 視線を巡らせると、相棒の安木 亮は、商店街の入り口で立ち止まっていた。今日の亮は、どこで見つけてきたのか、生成り色の麻の着物に、首からは勾玉まがたまのネックレス、頭には烏帽子えぼしのような帽子を被っている。完全に「古代人」のコスプレである。

「……あをによし、奈良の都は、咲く花の……」

 亮は空を見上げ、朗々と万葉集を詠じている。

「直君、聞こえますか。いにしえの風の音が。私たちは今、令和から天平てんぴょうの時代へとタイムスリップしたのです」

「お前の格好がタイムスリップしすぎや! 職質される前に帽子取れ!」

 直がツッコミを入れるが、亮は動じない。

「直君、奈良において時間は直線ではありません。円環なのです。過去も未来も、この場所では同時に存在している……。あ、あそこに『中谷堂』の高速餅つきが見えます! 現代のテクノ(高速ビート)と伝統の融合!」

「情緒があるんか無いんかどっちや! ……行くぞ、まずは興福寺や」


二、神の使いとの遭遇戦

 駅から少し歩くと、視界が開け、芝生の広がる奈良公園に出た。そして、彼らはそこにいた。  

 鹿。

 神の使いとされる、奈良の主たちである。

「……おお」

 亮が感動の声を上げる。

「鹿さんです。なんて澄んだ瞳……。彼らは悟りを開いていますね」

 亮は売店で「鹿せんべい」を一束買った。

「さあ、神の使いよ。私の捧げ物を受け取りたまえ……」

 亮が恭しくせんべいを差し出した瞬間。

 ザッ、ザッ、ザッ!

 周囲にいた十数頭の鹿が、一斉に亮を取り囲んだ。

「え? ……ちょ、ちょっと待って。順番に……ああっ! 服を引っ張らないで! そこは帯です! 解けます! あーれー!」

 亮はあっという間に鹿の群れに揉みくちゃにされた。烏帽子がズレ、着物が乱れ、手にしたせんべいは瞬殺された。

「直君! 助けて! 彼らは神の使いではありません! 飢えた野獣です! 礼儀作法を知りません!」

「アホか。鹿せんべいを持った人間は、彼らにとって『歩く食堂』なんや。せんべいを頭上に掲げて『もう無いぞ』ポーズをせんかい!」

 直が的確な指示を出し、亮を救出した。ボロボロになった亮は、濡れた瞳で一頭の小鹿を見つめた。

「……君たち、可愛い顔をして、なかなかの武闘派ですね。平城京の護衛は任せられます」

 気を取り直して、興福寺へ。猿沢池の向こうに、五重塔が凛とそびえ立っている。

「……見事や」

 直が眼鏡を光らせる。

「藤原氏の氏寺として栄えた興福寺。この五重塔は何度も焼失しては再建された。今の塔は室町時代のものやけど、そのシルエットは天平の美を伝えている」

「水面に映る塔もまた、幻想的ですね」

 亮が池を覗き込む。

「……直君、この池には『采女うねめ』が入水した伝説があります。恋に破れた悲しみ……。私も、先ほどの鹿さんへの片思いが破れて、胸が痛いです」 「それは鹿にどつかれた物理的な痛みや」


三、大仏殿・宇宙を感じるスケール

 さらに奥へ進み、東大寺へ。南大門を見上げると、運慶・快慶らによる金剛力士像が、凄まじい形相で仁王立ちしている。

「……すごい迫力です」

 亮が阿形像を見上げる。

「血管の一本一本、筋肉の筋まで……。これは彫刻ではありません、魂の爆発です。直君、私には彼らがロックバンドのボーカルに見えます」

「鎌倉時代のリアリズムやな。……さあ、いよいよ大仏殿や。世界最大級の木造建築やぞ」

 大仏殿に入ると、その巨大な空間に圧倒される。そして、中央に鎮座する、盧舎那仏るしゃなぶつ――大仏様。

「……」

 二人は言葉を失った。高さ約十五メートル。その大きさもさることながら、全てを包み込むような静謐せいひつなオーラ。

「……大きい」

 亮がポツリと呟く。

「ただ大きいだけではないですね。宇宙そのものが、あそこに座っているようです」

「そうや」

 直が静かに解説する。「聖武天皇はな、疫病や反乱で混乱する国を、仏教の力で救おうとしたんや。『動物も植物も、すべての生き物が共に栄えるように』という願いを込めて、この大仏を作った。……当時の人口の半分近くが建設に関わったと言われとる一大プロジェクトや」

 亮は、大仏様の掌を見つめた。

「あの手……。あの上に、私たちが何人乗れるでしょうか。……直君、私たちはあの掌の上で、泣いたり笑ったり、右往左往しているだけなのかもしれませんね」

「……西遊記の孫悟空みたいにな。ま、俺たちがどんなにジタバタしても、仏様から見たら誤差みたいなもんか」

 二人は大仏様の前で、深く頭を下げた。

 (直:『どうか、心が広くなりますように。あと、部下のミスを笑って許せる度量をください』)

 (亮:『どうか、美味しいお酒がたくさん飲めますように。あと、鹿さんと和解できますように』)

 大仏殿の裏手にある柱には、大仏様の鼻の穴と同じ大きさの穴が開いている。子供たちが次々と通り抜けていく(通り抜けると無病息災のご利益がある)。

「……行きます、直君」

 亮が着物をまくり上げて挑戦しようとした。

「やめとけ! おっさんが詰まったらレスキュー隊が出動する騒ぎや! 国宝を破壊する気か!」


四、柿の葉寿司と古代のチーズ

 昼食は、奈良公園のベンチでピクニック気分と洒落込んだ。直が用意したのは、奈良名物「柿の葉寿司」。鯖や鮭の切り身を乗せた酢飯を、柿の葉で包んで発酵させた保存食だ。

「……美しい包みですね」

 亮が葉を開く。爽やかな柿の葉の香りが漂う。

「この葉っぱ一枚が、天然のラップであり、殺菌作用を持ち、香り付けもする。……先人の知恵ですね」

 一口食べる。酢飯の酸味がまろやかになり、魚の旨味が熟成されている。

「……んんっ。深い味わいです」

 亮が目を閉じる。

「海のない奈良で、いかに美味しく魚を食べるか。その執念と工夫が、芸術の域に達しています。……直君、これは『待つこと』の美味しさですね」

「せやな。運ばれてくる時間をかけて、味が馴染む。……さて、もう一つ面白いもんがあるぞ」

 直が取り出したのは、小さな塊。淡いベージュ色をしている。

「これ、なんやと思う?」

「……キャラメルですか? それとも消しゴム?」

「これは蘇や」

「ソ?」

「飛鳥・奈良時代に作られていた、日本最古のチーズみたいなもんや。牛乳を煮詰めて作る高級食材で、貴族しか食えんかった」

 亮が恐る恐る口に入れる。

「……!」

 目を見開く。

「……甘い。砂糖の甘さではなく、ミルクそのものが凝縮された自然な甘み。食感はサクサクとして、口の中でねっとりと溶ける……。直君、これはシルクロードの味がします! ペルシャの風が吹いています!」

「牛乳を十分の一になるまで煮詰めるらしいからな。濃厚なはずや。……これは後で日本酒と合わせたら最高やぞ」


五、春日大社・万灯籠の幽玄

 午後は、原生林の緑が濃くなる春日大社かすがたいしゃへ。参道には、苔むした石灯籠が延々と続いている。その数、約二千基。さらに回廊には釣灯籠が千基。

「……異界への入り口のようです」

 亮が静かに歩く。「朱色の社殿と、緑の森。そして無数の灯籠。……ここでは、人間の存在が希薄になりますね。森の精霊たちに見られている気がします」

「春日山原始林は、神域として千年以上も斧が入ってないからな。この森自体がご神体みたいなもんや」

 特別参拝で、暗闇の中で灯籠に明かりが灯された「万燈籠」の再現部屋に入った。漆黒の闇に、無数の灯りが揺らめく。

「……綺麗……」

 亮が息を呑む。

「魂の行列のようです。直君、私たちは今、銀河鉄道に乗っているのでしょうか」 「幻想的やな。藤原氏の栄華と、人々の祈りがこの灯り一つ一つに込められとる」

 参拝を終える頃には、夕暮れが迫っていた。奈良の夜は早い。寺社の閉門と共に、街は静寂に包まれていく。しかし、ここからが「大人の奈良」の時間だ。


六、ならまち・清酒発祥の地の宴

 二人は、古い町家が残る「ならまち」エリアへと足を運んだ。格子戸の家々、軒先に下がる「身代わり申」の赤いお守り。風情ある路地裏にある、隠れ家のような日本酒バル『古都の雫』へ入店した。

 店内は、太い梁が見える古民家を改装したモダンな空間。カウンターには、奈良の地酒がずらりと並んでいる。

「いらっしゃいませ。奈良へようこそ」

 作務衣姿のマスターが静かに迎えてくれた。

「マスター、まずは……奈良の酒を。歴史を感じるやつをお願いします」

 直が注文する。

「それなら、まずは『風の森』からいかがでしょう。そして、歴史といえば『菩提酛ぼだいもと』造りのお酒も」

 直が亮に解説する。

「ええか亮、多くの人は知らんけど、奈良は日本清酒発祥の地なんや。室町時代、正暦寺というお寺で、今の酒造りの基礎が確立された。『南都諸白』と呼ばれて、室町幕府も愛飲した高級酒や」

 運ばれてきたグラス。微発泡の『風の森』。乾杯。

「……!」

 亮がグラスを見つめる。

「……驚きました。古都というから、重厚で古めかしい味かと思いきや……。なんとフレッシュ! なんとフルーティー! 梨やマスカットのような香りが弾けます。……直君、これは『万葉集』ではなく『現代詩』です」

「せやろ。奈良の酒は今、進化しとるんや。伝統を守りつつ、新しい味に挑戦してる。……美味い!」

 続いてのアテは、「奈良漬とクリームチーズ」。飴色に輝くうりの奈良漬の上に、白いチーズが乗っている。

「……禁断の出会いです」

 亮が一口で放り込む。

「カリッ、ポリッ……。酒粕の芳醇な香りと、チーズの酸味が、口の中で抱き合っています。和と洋の結婚マリアージュ。……これは酒が止まりません」

 直も頷く。

「奈良漬は何度も酒粕に漬け変えて、何年もかけて作る。その手間暇が、チーズのコクに負けん強さを生むんや。……そこに、このどっしりとした純米酒『春鹿はるしか』を合わせる!」

 宴は進む。大和野菜の天ぷら、大和肉鶏のタタキ。そして昼間に食べた「蘇」を炙ったもの。

 酒が回り、直はまた歴史モードに入った。

「平城京はな、七十四年しか続かんかった。短命の都や。でもな、その短い間に天平文化という花が咲き乱れた。……儚いからこそ、美しいんや」

 一方、亮は完全に「歌人」になっていた。筆ペン(なぜか持参)を取り出し、コースターの裏に一句したためている。

「……『酔いどれて 鹿の瞳に 恋をして 奈良の夜風に 千鳥足かな』」 「字余りもええとこや。しかも鹿への未練がましいわ」

 亮はマスターに絡み始めた。

「マスター、あなたは実は、遣唐使の生き残りではありませんか? その手つき、シルクロードの秘儀を感じます」

「いえ、ただの奈良県民です」

 さらに、隣の席に座っていた外国人観光客(フランス人カップル)にも話しかける。

「ボンジュール! ディス・イズ・ジャパニーズ・エンシェント・チーズ! 『SO』! プリーズ・イート!」

 亮は、自分の炙り蘇を彼らに振る舞い始めた。カップルは

「Oh, SO! Amazing!」

 と喜んでいる。

「コミュ力の化け物か、お前は……」

 直は呆れつつも、その光景を肴に酒を飲んだ。


七、猿沢池の月、静寂の帰路

 店を出ると、夜の九時。大阪ならまだ宵の口だが、奈良の夜は深い。観光客も減り、静まり返った街を、月明かりが照らしている。

 二人は再び、猿沢池のほとりへ戻ってきた。ライトアップも消え、暗闇の中に五重塔のシルエットが黒々と浮かんでいる。

「……静かですね」

 亮が、酔いを醒ますように夜風に当たる。

「大阪の賑やかさも好きですが、この静寂もまた、心に沁みます。……1300年前の人々も、こうして月を見上げていたのでしょうか」

「せやな。阿倍仲麻呂も、遠い異国の地で、この奈良の月を思って『天の原 ふりさけみれば……』と詠んだんや」

 直もしみじみと語る。

「変わらんのや。建物が変わっても、人が変わっても、月と、この空気感だけはずっとここにある」

 チャポン。

 池で鯉か亀が跳ねる音が響いた。

「直君」

「ん?」

「私、奈良が好きになりました。時間がゆっくり流れているから、私の迷子も、ここでは『優雅な散策』として許される気がします」

「……ま、そういうことにしておいたるわ。でも明日の朝は早いぞ。京都へ移動や」

「えっ、もう移動ですか? 私はもう少し、鹿さんと語らいたいのですが」

「また来ればええ。奈良は逃げへん。1300年待っててくれたんや、あと数年くらい待ってくれるわ」

 二人は笑い合い、近鉄奈良駅へと続く坂道を登り始めた。足取りは千鳥足だが、心は満月のよう満ち足りていた。

 背後で、夜の鹿が「キュイーン」と鳴いた。それは、酔っ払いの二人への別れの挨拶のように聞こえた。


(第10話 了)

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