大阪・天満『提灯の迷い子と太閤の酒』
一、逢魔が時の迷宮
逢魔が時、と古人はよく言ったものだ。昼と夜の境界線が曖昧になり、人の顔が判別しづらくなる黄昏時。魔物が潜み、あるいは神隠しに遭うとされる時刻。
大阪市北区、天神橋筋商店街。日本一長いとされるこのアーケード街にも、等しく夕闇は訪れていた。だが、ここにあるのは静寂や恐怖ではない。揚げ油の爆ぜる音、自転車のブレーキ音、呼び込みの威勢のいい声、そして無数の提灯が生み出す、圧倒的な「生活の熱量」だ。
その喧騒の中を、一人の男がふわふわと歩いている。安木 亮。三十二歳。身長一八〇センチを超える長身だが、猫背気味のせいで威圧感はない。丸メガネの奥の瞳は、常に焦点が合っているようで合っていない。今日の装いは、淡い藍色のスタンドカラーシャツに、裾がひらつくワイドパンツ。その上から、古着屋で見つけたという鳶色の羽織をカーディガンのように引っ掛けている。
亮は、商店街の真ん中で立ち止まった。目の前には、一軒の古びた古本屋。その軒先に吊るされた、風に揺れる風鈴を見つめている。
「……チリン、と鳴らぬのが、またいとをかし」
亮は独りごちた。風鈴の舌はとうに失われており、ガラスの覆いだけが虚しく、しかし健気に揺れている。
「『音にのみ きくの白菊 夜をへて 霜も結ばぬ 袖の上の露』……。古今集にあるように、音にしか聞こえないものにこそ、実体以上の情趣が宿るのかもしれませんねえ。ねえ、猫さん」
亮が視線を落とした先には、室外機の上で香箱座りをしている三毛猫が一匹。
「君もそう思いますか。……おや、何かくれるのですか?」
猫の足元には、誰かが落としたであろう、ひしゃげた銀杏が一つ転がっていた。亮はそれを、天からの啓示のように拾い上げ、ハンカチに包んでポケットに入れた。
「さて。直君との待ち合わせは『扇町』の改札前でしたか。扇……末広がりの縁起良き名です。私は南へ向かっていたはずですから、このまま進めば……」
亮は自信満々に踵を返した。彼が向いたのは「北」。扇町駅とは正反対、天神橋筋六丁目、通称「天六」のさらに奥深くへと続く道である。
亮の体内コンパスは、磁北ではなく「情緒」を指して回転する。昭和の残り香が漂う細い路地、錆びついたトタン屋根、そして何より「あっちに行くと何か面白いものがありそう」という根拠のない直感。それらが彼を、目的地から遠ざかる方向へ、遠ざかる方向へと誘い続けていた。
三十分後。亮は、完全に見たことのない住宅街の真ん中にいた。
「おや……。ここはどこでしょう。先ほどまで香っていたタコ焼きのソースの匂いが、いつの間にか線香の香りに変わっています。……はっ、まさかここは冥府?」
彼が呆然と立ち尽くしていると、路地の向こうから、恐ろしい形相でアスファルトを蹴る男の姿が現れた。
「亮ぉおおおおおおおッ!!」
怒号と共に現れたのは、湯達 直。チャコールグレーの細身のスーツを完璧に着こなし、革靴をカツカツと鳴らすその姿は、この下町情緒溢れる路地裏にはあまりに不釣り合いな「できるビジネスマン」そのものだ。
だが、その表情は鬼気迫っていた。手にはスマートフォン。画面には、亮の居場所を示す点滅信号(GPS)が表示されている。
「お前……! なんで天満で飲む言うてんのに、長柄の方まで来とんねん! 川超える気か!? 淀川渡って十三まで行く気か!?」
直は亮の胸倉を掴む勢いで詰め寄った。整えられた髪が、疾走のせいで少し乱れている。
「あ、直君。奇遇ですね。こんなところで会うなんて」
「奇遇ちゃうわ!捜索や!遭難救助や!待ち合わせ時間から四十分過ぎとるぞ!」
亮は悪びれもせず、ふわりと微笑んだ。
「まあまあ。怒ると血圧が上がりますよ。見てください、この見事な夕焼け。まるで茜の染料をぶちまけたような……」
「そんなもんは店の窓から見たらええねん! 店、予約取り消されかけたわ! 走るぞ!」
「ええ? 走るのですか? 私は下駄なのですが……」
「知らん! 担いででも連れて行く!」
直は亮の腕を掴むと、強引に引っ張り始めた。司書と営業マン。凸凹な二人の影が、長く伸びて路地裏に溶けていく。
二、歴史と古典の交差点
直に回収され、二人は再び天神橋筋商店街へと戻ってきた。時刻は十九時前。アーケードの中は仕事帰りのサラリーマンや、夕飯の買い物客でごった返している。
「はぁ、はぁ……。ようやく、文明社会に戻ってきたな」
直がネクタイを少し緩め、額の汗を拭う。
「亮、お前、今度から俺と会うときは三時間前に家を出ろ。いや、いっそ前泊しろ」
「大げさですねえ。……でも直君、この商店街は歩くだけで楽しい。見てください、あそこの看板。『天満』の文字が踊っています」
亮が指差したのは、古めかしい和菓子屋の看板だった。
「天満。美しい響きです。天に満ちる、と書く。私はこの地名を見るたびに、菅原道真公の無念と、それを鎮めようとした人々の祈りを感じるのです」
亮のスイッチが入った。歩くペースが少しゆっくりになる。
「道真公が大宰府へ左遷される途中、この地にあった大将軍社に立ち寄り、旅の無事を祈った。彼の死後、その霊を慰めるために建てられたのが大阪天満宮です。……『東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな』。京の都を追われた彼の心が、この土地の底に沈殿しているようで……切ないですねえ」
直は、歩きながらスマホで店の空席状況を確認しつつ、亮の話に耳を傾けていた。呆れているようでいて、実はこの時間が嫌いではない。
「お前の話はいつも湿っぽいな。情緒があるのは認めるけど」
直はスマホをポケットにしまい、キリッとした表情で商店街の天井を見上げた。
「俺から言わせれば、天満は『祈りの街』である以前に、『戦略と物流の街』や」
「戦略、ですか?」
「そうや。地図を思い出してみろ。天満は大阪城の北西、乾の方角にある。ここは大阪城の防衛ライン、いわゆる鬼門や。秀吉公はここに天満宮を整備し、寺を集めて寺町を作った。これは、北からの敵に対して宗教勢力を壁にするための軍事的な都市計画なんや」
直の口調に熱がこもる。営業トークで見せる爽やかさとは違う、歴史オタク特有の早口だ。
「それに、すぐそこには大川が流れとるやろ? 江戸時代、全国から集まる物資は全部あの川を通って大阪に入ってきた。天満青物市場があったのも、ここが物流の大動脈やったからや。……ええか亮、この賑わいはな、道真公の怨念だけやない。商人の『銭儲けしたる!』という欲望と、秀吉公の『城を守るんや!』という執念が作り上げた、ハイブリッドなエネルギーなんや」
亮は、ほほう、と感心したように眼鏡の位置を直した。
「直君の目には、アスファルトの下に石垣と小判が見えているのですね」
「お前の目には、梅の花と幽霊が見えてるんやろ?」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。同じ景色を見ても、見えている世界はまるで違う。枯れた情緒を愛でる男と、血の通った歴史を愛する男。その二つの視点が重なる時、ただの飲み屋街は、奥行きのある物語の舞台へと変貌する。
「……ま、なんにせよ」
直が足を止めた。
「難しい話はここまでや。到着したぞ。今日の戦場はここや」
直が指差したのは、路地裏にひっそりと、しかし力強く灯る赤提灯だった。店の前にはビニールシートがカーテンのように垂れ下がっている。中からは、すでに出来上がった客たちの笑い声と、たまらない出汁の香りが漏れ出していた。
三、琥珀色の誘惑と、絶品のアテ
店内に足を踏み入れると、熱気と湿気が眼鏡を曇らせた。カウンター席の隅、予約していた二席に滑り込む。丸椅子はお世辞にも座り心地が良いとは言えないが、この狭さが逆に心地よい。
「大将! 生中一つと、こっちは……日本酒、何がある?」
直が手慣れた様子で注文する。ねじり鉢巻の大将が、焼き場から顔を出してニカッと笑った。
「兄ちゃんら、ええとこ来たな。今日は能勢の『秋鹿』が入ってるで。純米吟醸の無濾過生原酒や」
「『秋鹿』か……! ええな、大阪の北の山奥で作ってる、硬派な酒や」
直が亮を見る。「亮、お前も最初から日本酒でいくか?」
「はい。郷に入っては郷に従え。太閤さんの膝元ですから、地元の水で醸されたものをいただきましょう」
すぐに、分厚いガラスの徳利と、底の浅い平杯が運ばれてきた。
トクトクトク……。
酒を注ぐ音が、周囲の雑音を切り裂いて、澄んだ音色として耳に届く。
亮は、なみなみと注がれた表面張力の盛り上がりを、うっとりと見つめた。
「……美しい。まるで、春の小川の水面のようです」
まずは亮が一口。唇を濡らし、舌の上で転がし、喉へと送る。
「……んんっ」
亮の喉仏が小さく上下し、ほう、と熱い息が漏れた。
「……いとをかし。最初はキリッとしていて、まるで若武者のような荒々しさがあるのに、喉を通るときの余韻は、熟れた果実のように甘い。……直君、これは危険です。この透明な液体の中に、四季が詰まっています」
直も自分のグラスを煽る。
「くぅぅぅ……! 効く! この酸味! このコシの強さ! 軟弱な酒とは違う、骨太な大阪の男の味がするわ!」
そこに、頼んでおいたアテが到着した。天満名物、『どて焼き』だ。白味噌ベースのタレで、牛スジ肉がトロトロになるまで煮込まれている。小皿の上で震えるスジ肉には、刻んだ青ネギと一味唐辛子がパラリと振られている。
「いただきましょう」
亮が箸を伸ばす。煮込みを一切れ口に含んだ瞬間、彼の目が丸くなり、次いで細められた。
「……あぁ。溶けました。噛む必要がありません。味噌の甘みと、牛の脂の甘みが、口の中でワルツを踊っています。……そこに、この『秋鹿』を……」
追いかけるように酒を含む。脂の甘みを、酒の酸味が洗い流し、また次の一口を欲させる。無限の円環。
「マリアージュ、なんて気取った言葉じゃ足りんわな」
直は串カツ(紅生姜)をかじりながら、満足げに頷いた。
「これはもう、合戦や。味噌という軍勢と、日本酒という軍勢が、口の中で関ヶ原の戦いを繰り広げてるんや。そして勝者は……俺たちや」
一杯、また一杯。徳利が空になり、二本目、三本目が運ばれてくる頃、夜は更け、二人の理性はゆっくりと、しかし確実に崩壊の序曲を奏で始めていた。
四、狂乱の太閤と、純真なポエマー
一時間が経過した。テーブルの上には、空になった徳利が五本転がっている。
亮の顔は熟したトマトのように真っ赤になり、眼鏡が少しズレていた。彼は天井のシミを見上げながら、虚空に向かって話しかけている。
「……ねえ、直君。あそこのシミ、平安時代の貴族が烏帽子を被っているように見えませんか? ほら、あんなに寂しそうな顔をして……。きっと、恋文の返事を待っているんですよ。……待つわ、いつまでも待つわ……」
亮は完全に「ポエマー・モード」に突入していた。箸袋の裏に、持参した万年筆で謎の和歌を書きなぐっている。
『焼き鳥の 煙にまかれ 君思う タレより甘き その横顔よ』 (※君=さっき食べたつくねのこと)
一方、直の変化はもっと劇的だった。ネクタイは完全に解かれ、ワイシャツのボタンは第二ボタンまで開いている。彼は、店の大将に向かって、ビシッと指を突きつけていた。
「大将! そこで終わるんか!? その出汁巻き卵は、そこが限界なんか!? もっと巻け! もっと大きく、もっと高く! 大阪城の石垣のように積み上げるんや!!」
「兄ちゃん、これ以上巻いたらフライパンから溢れるがな」
「溢れさせろ! 秀吉公はな、金の茶室を作る時に予算なんか気にせんかった! 派手にいけ、派手に! 大阪の心意気を見せたらんかい!」
歴史マニアの理性が酒に溶かされ、残ったのは「太閤秀吉への過剰なリスペクト」と「謎の天下統一願望」だけだった。
「おい亮! お前もなんか言うたれ! 我ら天下の凸凹コンビとして、この店に爪痕を残すんや!」
話を振られた亮は、とろんとした目で直を見つめ、ふにゃりと笑った。
「……直君。君の後ろに、大きな金の瓢箪が見えます……。あ、瓢箪から馬が出ました。パカパカ」
「アホか! 瓢箪から出るのは駒や! 馬そのものが出るかい!」
その時だった。隣のテーブルで一人、黙々と焼酎を飲んでいた、いかつい男がドスンとグラスを置いた。スキンヘッドにサングラス。着ているのは高そうな刺繍入りのスカジャン。どう見ても「カタギ」の雰囲気ではない。
「……おい、兄ちゃんら。やかましいぞ」
店内の空気が凍りついた。大将も手を止める。しかし、今の直には「恐怖」という概念が欠落している。
「なんやと……? やかましい? ……おっちゃん、あんたわかってへんな」
直がふらりと立ち上がり、その男の席へ近づく。
「大阪の酒場はな、静かに飲む場所ちゃうねん。ここは『市』や。楽市楽座や。身分も年齢も超えて、魂をぶつけ合う場所なんや! ……あんた、そのスカジャンの虎、ええ顔してるな。でもな、今のあんたは虎ちゃう。借りてきた猫や!」
「な、なんやと……!」
男がこめかみに青筋を立てて立ち上がる。身長は一九〇センチ近い。
一触即発。
誰かが警察に通報しようとスマホを取り出した、その時。
するり。
亮が、男の懐に入り込んでいた。
「……うわぁ。すごい。ピカピカです」
亮は、男のスキンヘッドを、まるで満月を愛でるかのように、両手で優しく包み込んだ。
「……温かい。おじさま、頭から後光が差していますよ。まるで、奈良の大仏様のようです。……ありがたや、ありがたや」
亮は恍惚とした表情で、男の頭を撫で回し、あろうことかその頭に頬ずりをした。
「……すべすべしていて、気持ちいい……。これは、極楽浄土の手触りですね……」
男は固まった。怒りで固まったのではない。あまりの事態に、思考が追いついていないのだ。直が、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「見ろ! ツレも言うとる! あんたは大仏や! いや、もはや大仏殿や! ……社長! いや、将軍! 一緒に飲もうや! 俺たちの天下統一はここからや!」
「……ぶっ、ガハハハハハ!!」
男が突然、腹を抱えて爆笑した。
「おもろい! 久しぶりにこんな命知らずな若造を見たわ! ワシの頭を大仏扱いしたのは、オカン以来や!」
男はサングラスを外した。意外にも、その瞳は笑っていた。
「ワシは近くで運送屋やっとるもんや。気に入った! 今日はワシの奢りや! 兄ちゃん、その『秀吉公の話』、もっと聞かせろ!」
「おうよ! 聞け! そもそも墨俣の一夜城っていうのはな……」
「……おじさま、頭に熱燗乗せてもいいですか?」
「それは熱いからやめとき、坊主」
こうして、天満の夜は更けていった。歴史談義を怒鳴り散らす営業マンと、強面社長の頭を撫で続ける司書。そのカオスな光景は、間違いなくこの夜一番の「アテ」として、店中の客の記憶に刻まれたのだった。
五、祭りのあと、朝の光
翌朝。雀の鳴き声がやけにうるさい。
JR大阪環状線、天満駅のホーム。直はベンチに座り込み、両手で頭を抱えていた。頭の中で、数千人の足軽が鐘を叩いているような激痛が走っている。
「……うぅ。……俺、昨日、ちゃんと家帰ったか?」
「はい。タクシーに押し込みました。『俺はまだ城に帰らん!』と叫んでいましたが、運転手さんが『はいはい、城まで行きますよ』と上手にあしらっていましたね」
隣には、亮が涼しい顔で立っていた。二日酔いの気配は微塵もない。手にはコンビニのおにぎりを持ち、美味しそうに頬張っている。
「……なんでお前はケロッとしてんねん」
「私は三合目からは記憶がありませんから。気づいたら家の布団でした。夢の中で、とても大きなタコ焼きの精霊に撫でられる夢を見ました」
「……それ、たぶんあの運送屋の社長やぞ」
直は深いため息をついた。ポケットを探ると、名刺が一枚出てきた。昨日の社長のものだ。『代表取締役 前田 慶次郎』とある。 「……名前まで戦国武将みたいやないか。お前、気に入られて今度家に遊びに来いって言われてたぞ」
「あら、それは楽しみですね。手土産は『たわし』でいいでしょうか」
「菓子折りを持っていけ、菓子折りを!」
電車がホームに入ってくる。日常への扉が開く音だ。
「……まあ、楽しかったですよ。直君」
亮がふと、真面目な顔で言った。
「君の語る歴史の話、半分も覚えていませんが、とても熱かったことだけは覚えています。あの場所が、昔から人の熱気で出来ていたのだと、肌で感じました」
直は少しだけ口元を緩め、痛む頭を振った。
「……そうかよ。次はもうちょっと静かなところで飲むぞ」
「はい。では次は、京都の伏見なんてどうでしょう。酒蔵巡りをして、坂本龍馬の足跡を……」
「伏見か……。ええな。寺田屋で襲撃された龍馬が、命からがら逃げた材木小屋跡……語れることは山ほどある」
直の目に、再び怪しい光が宿る。
「よし、次は京都や。……亮、絶対に迷うなよ。京阪電車に乗れよ。間違っても阪急に乗って神戸に行くなよ」
「ふふ。善処します」
亮は空を見上げた。天満の空は、昨夜の喧騒など嘘のように、どこまでも高く、澄み渡っていた。千鳥足の旅は、まだ始まったばかりだ。次はどの街で、どんな酒と、どんな歴史に出会うのか。
(第一話 了)




