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旅立つ恋のエキストラ(3)

我が家では、家族全員がリビングに集まるのが習慣だ。

それぞれの部屋はあるし、別にここにいなきゃいけない理由なんてない。

でも、気づけば全員が同じ場所で過ごしている。昔からそうだった。


今日も例外ではない。

俺はソファに寝転び、スマホを適当にスクロールしていた。


日曜。外は雲ひとつない快晴。

風も穏やかで、まさにお出かけ日和。


……つまり、人も車も多いということだ。

出かけないという選択肢も、ある意味では“賢い判断”と言えなくもない。


と、まあ、自分を慰めてみたものの、虚しさはあまり軽くならなかった。

本来なら今頃、車中泊を終えて撤収の準備でもしているはずだ。


今回行く予定だった場所は川が近くて、串に刺した川魚の塩焼きが絶品と噂のお店があった。

俺はああいう素朴な焼き魚がやたら好きだ。

――まあ、食べられないんだけど。


そんな未練を反芻していると、階段を降りてくる足音がした。


“何かあったら送ってほしいから、週末は家にいてね”


妹が、悪びれもなく放った一言。

その瞬間、俺の週末の予定は全て吹き飛んだ。


無視する、という選択肢もあった。

理不尽な要求だし、飲む理由なんてどこにもない。


……でも、もし無視して出かけていたら、帰ってからの方がもっと面倒くさい。

それは過去の経験から、身にしみている。


車中泊は、別にいつでもできる。

だけど、妹の機嫌を損ねると――

二週間は、家の空気が最悪になる。


俺は静かにスマホを胸に乗せて、天井を見上げた。

……焼き魚、食べたかったな。


リビングのソファは、暗黙のうちに妹の特等席になっている。


別にルールがあるわけじゃない。

ただ、父も母も、自然とそこを空けるような動きをする。

結果として、ソファの“真ん中”は妹の縄張りみたいなものだ。


普段なら、それで構わない。

ソファに強い思い入れがあるわけでもないし。


――だが、今日は話が別だ。


こいつのせいで、俺の週末の予定は全部吹き飛んだ。

ささやかな抵抗くらいしても罰は当たらないはずだ。


そう思って、ソファに足を伸ばしたまま陣取ってみた。

“ここは俺の席だ”と言わんばかりに。


……が。


そんなアピールなど存在しなかったかのように、妹はどすん、と俺の伸ばした足の上に座ってきた。


「お、おい……」


少し痛い。

そして、想像以上に重い。


文句の一つでも言おうと思ったが、妹は夢中でスマホをいじっていて、こちらのことなど完全に無視だった。


こういう時に口を開いても意味がないことは、経験上よく知っている。


俺はソファに体を預け直し、まるで世界から締め出されたみたいに天井を見上げた。


……もう寝よ。


そう心の中で呟いて、ふて寝を決め込んだ。


***


ぼんやりと視界に映ったのは、いつもの天井だった。

どうやら、本当に眠ってしまっていたらしい。


体を起こすと、ブランケットが落ちる。

妹はいなくなっていて、代わりに母がテーブルに座っていた。


「あら、起きた?」

「今、何時?」

「もう十七時を過ぎたところ。お父さんもそろそろ帰ってくるわよ」


窓の向こうはまだ明るいが、昼とは違う静けさがある。

日曜の夕方特有の、どこか取り残されたような空気。


喉が渇いて冷蔵庫を開けたが、飲みたいものがなかった。

お茶でもいいが、今の喉はどうしても炭酸を欲しがっている。


……買いに行くか。


父が帰ってくれば飲み物は手に入る。

けれど、このだるさと空気を振り払う為に、体を動かしたほうがいい気もした。


起き抜けの散歩がてら、近くのコンビニに行くことにした。


玄関で靴を履いていたとき――

ふと、人の気配がした。


「宮本くんと駅で会う」


妹が、そこに立っていた。

唐突な言い方に文句の一つでも言おうと妹の顔を見るが、珍しく殊勝というか……どこか思い悩んでいるような表情をしていた。


「駅に送ってけばいいのか?」


俺の問いに、妹は小さく頷いた。

仕方がない、という思いをため息に乗せて吐き出す。


鍵と財布、スマホだけを手に取り車を出そうとしたその時、ちょうど父が帰ってきた。

年季の入ったセダンが家の前に止まり、父が降りてくる。


「出掛けるのか」


後部座席には買い物袋がいくつか積まれている。


「コンビニ行こうとしてたんだけど、駅まで送れってさ」

「そうか」


父は袋を抱え直しながら玄関へ向かう。

その手には赤と黒のラベルが印象的なペットボトルが数本。


「ああ、安かったから買ってみた」


国民的炭酸飲料。


その瞬間、俺の目に父が天使のように見えた。


父にもらった炭酸を飲みながら駅へ向かう。


ロータリーで妹を降ろすと、

「そこの喫茶店だから」

とだけ告げて、さっさと歩いていった。


つまり――お前も来い、という意味だ。


仕方なく近くの駐車場に車を停め、喫茶店へ向かう。


扉を開けると、カランという懐かしい音が鳴った。

駅前が綺麗に生まれ変わっても、この店だけは昔のまま。

変わるものが多い中で、こういう存在は妙に安心する。


店内は静かで、コーヒーの香りがゆっくり漂っていた。

カウンターには不愛想な店主と、いつも穏やかな奥さん。

子どもの頃、両親に連れられてよく来た場所だ。


妹がここを多用していると知った時は少し驚いた。

高校生には敷居が高い気がしたが、壁の張り紙を見て納得する。


“平日 一杯二百五十円”


……そりゃ来るわ。


気になるが、今は立ち止まれない。

あまり待たせると妹が機嫌を悪くする。

紙に未練を感じつつ、店の奥へ向かった。


「あ……こんちわ」


宮本くんが小さく会釈してきた。


「ごめんね。わざわざ来てもらって」


俺が挨拶する前に、妹が口を開く。


「いや……大丈夫」


宮本くんは目を伏せ、そして短く言った。


「……あやかのこと、聞いた」


どうやら、いきなり核心から入るらしい。


「……そっか」

「……あやか、泣いてた」

「……うん、知ってる」


妹が何かを言いかけて飲みこむ。

傍から見ても、かなり自制しているのがわかる。


こう見えて妹も成長しているのだ。

……ぜひ、家でもそうであってほしい。


「あやかのことは応援してる。でも、やっぱり、寂しいよ」


妹の言葉に、宮本くんは俯いたままだった。

たしか、あやかちゃんは来週にはイギリスに行くと言っていた。

つまり、残された時間はもうほとんどない。


であれば、宮本くんをここに呼ぶのは酷なんじゃないだろうか。

二人きりにしてあげたほうがよくない?


「見送りに行くの?」

「……行かない。昨日、会った」


ぎゅっと、妹の手が机の下で握られるのが見えた。

すごい。耐えたらしい。


「……いいの? それで」


絞り出すような声。

第三者がどうこう言う問題ではない――とは思いつつ、あまりにも空気が重すぎて、注文はさすがにできそうもない。


「……仕方がないよ」


その言葉が落ちた瞬間、

テーブルの上に小さな沈黙が広がった。


「仕方なくなんてない!!」


店内に響くほどの声だった。


思わず、妹を凝視する。

宮本くんもぽかんと目を見開いていた。

……びっくりしたよね?


「どうして、そんなに冷静でいられるの?」


妹の目には涙が滲んでいた。

むしろ、お前はどうしてそんなに熱いんだ。


視線を感じて周りを見ると、店主と奥さんが心配そうにこちらを見ていた。

俺は反射的に、すいませんと軽く頭を下げる。


――なぜ、俺がこの場で一番気まずい思いをしなければならないのか。


そう思いながら、俺は水を一口飲んだ。

まあ、アイスコーヒーを頼めたので良しとしよう。


「もう、会えなくなっちゃうんだよ?」

「……そんなの寂しいに決まってるだろ」

「なら、どうして言わないの? “頑張って来いよ”なんて、どうして冷静でいられるの?」


宮本くんは黙り込んだ。


「宮本くんがあやかに伝えたい言葉って、それなの? 本当に……本当に伝えたい気持ちはないの?」


その問いに、宮本くんはゆっくりと顔を上げる。


「俺だって……本当は行ってほしくなんてない。……でも、言ったら、あいつの迷惑になる」


「迷惑かもしれない。でも、それ以上に伝えたいことって、あるんじゃないの?」


宮本くんの喉が、小さく震えた。


「……あるよ」


出てきた声は、今にも消えそうなほど弱かった。


「じゃあ、それを伝えなきゃ!」

「もう……遅いよ」

「どうして!?」

「今頃、空港にいる」


重い沈黙が落ちた。


“来週”というのは月曜のことだったらしい。

つまり、今日のうちに空港へ行き、明日の朝に出発する――というわけだ。


まあ、来週と言うのは嘘じゃない。

急だけど、嘘ではない。


でも携帯はある。

言おうと思えば、言える。

顔を見て言いたいならビデオ通話という手もある。

……良い時代になったもんだ。


その沈黙の中で、誰かが小さく息を呑んだ。


「……間に合うよ」


その声は、妹のものだった。

電車で行く気か。


まあ、今は夕方十七時半だ。

海外なら成田か。間に合う距離ではある。

片道二、三千円。往復で五千円と言ったところか。

高校生にしてはなかなかの出費だが、ここはケチる場面ではない。


「……え? でも、どうやって」

宮本くんは困惑した表情だった。

電車だよ。ちょっと考えればわかるだろう。


「お兄。行くよ」


……はい?


妹は立ち上がると、膝で俺の膝をぐいっと押した。

その圧に負けて俺もつられて席を立つ。


するりと俺の脇を抜けて入口へと足早に向かっていく背中が見えた。


……ちょっと待て。

このアイスコーヒー三つ、結局、俺の財布から出るのか?

しかもほとんど手を付けてない。

ここは冷静になってコーヒーを飲もうよ。


テーブルの上では、三人分のグラスが汗をかいていた。


「早く。外で待ってる」


妹が店の入口から俺に向かって言う。


俺はおもむろにグラスを持ち、残ったアイスコーヒーを一気に飲みほした。

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