表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

旅立つ恋のエキストラ(2)

金曜の夜は、理由もなく胸が躍る。


父と母の時代では花金と言ったらしい。

その感覚が、最近少しわかるようになってきた。

今日の講義が終わったので、土日は休み。

しかも今週はバイトもない。

自由が、ちゃんと二日分ある。


そして俺には――自由な二日間を、自由に使う手段がある。


つまり、車中泊だ。


前回は一日だけだったし、初めてということもあって近場にした。

でも今回は時間がある。

地図や口コミを眺めながら、妙にワクワクしている自分に気づいた。


調べた結果、電源付きのオートサイトが見つかった。

電源を必要としているわけじゃないのだが、“堂々とそこに停めていられる場所”があるというのはありがたい。


一泊数千円。

この自由を買えるなら、安いものだと思った。


「え、どういう事?」


準備をしているとリビングから不穏な空気が漂ってくる。


「待って、聞いてないって!」


妹が誰かと電話しているらしい。

自室があるんだから、そこでやればいいのに。


「パパ、テレビ消して」


いや、お前が部屋に行けよと言いたくなったが、やめた。

我が家のヒエラルキーは、妹、母、俺、父。

父はすでに悟りの境地に達しているので、無言でテレビを消す。


「うん、私はあやかの味方だよ……でも、さすがにそれは……」


あやか、という名前が聞こえた瞬間、少しだけ、手が止まった。

先日、送ってあげたカップルの彼女の方だ。


「でも、そんなの……寂しいよ」


母がちらりとこちらを見る。

“何か知ってる?”と訊くような目。

当然知らないので、肩をすくめて返す。


こっちはこっちで忙しいのだ。


「車中泊か」


父がぼそりと声を落とす。

普段から寡黙な人だが、今日はいつもよりさらに小さな声だった。


「うん。良い場所があったから、行こうかなって」

「そうか……来週の水曜、車借りてもいいか」

「水曜?」


少し考える。水曜は講義が詰まっている。


「わかった。電車で行くよ」

「すまんな。必要だったら送るぞ」


父が、ほんの少しだけ申し訳なさそうに言う。

その声を聞くと、買ったときのことを少し思い出した。


あのとき、俺が用意できたのは代金の半分より…ほんの少し多いくらい。

ローンにしようか迷っていたら、父が出すと言ってくれた。学生がローンなんて借りれるのかもわからなかったので、正直助かった。


“人を乗せることもあるし、お前の車なら丁度いい”


そう言っていたけど、本当は“出してやる理由”をわざわざ作ってくれただけなのだと思う。


母も、習いごとの送迎で使えるから、なんて言っていた。

父と母に気遣ってもらった格好だ。


でも、それを全部ありがたく受け取るのが、今の俺の立場だ。


勤労学生は、案外、肩身が狭い。

ただ、バイト漬けだった日々のおかげで、それなりの貯金は残った。


「うん。わかった。行くね」


妹の電話が終わったらしい。

重たい空気がようやくほどけて、リビングに少しだけ呼吸が戻る。


「出かけるの?」


母が心配そうに妹を見る。

時計を見ると、すでに八時を回っていた。

高校生が今から出歩くのは、遅い――と言い切れるほど早くもない、微妙な時間。


「うん、あやかに会ってくる」


軽く言うわりに、声の奥が少し沈んでいた。


お出かけらしい。いってらっしゃい。

そう思った瞬間、


「お兄。送ってって」


……は?


理解に数秒かかる。


「ああ、お兄ちゃんが送ってくれるなら安心ね」


母の、その何気ない一言が、追い打ちをかけてきた。


いやちょっと待て。

俺がさっきからせっせと荷物を車に運び込んでいるの、見えてるよな?


思わず母の顔を凝視する。

母は、当然のようにニコニコしていた。


***


暗い夜道を、ヘッドライトが細く切り裂いていく。


荷物を全部積み込んでいなかったのは、不幸中の幸い。

後ろには妹と、いくつかの荷物だけ。


スマホをタップする小さな音が、後部座席から一定のリズムで聞こえてくる。

声は出さず、でも確かに誰かと繋がっている気配。

良いご身分だな、と思う。

……言わないけど。


しばらく走ると、目的のファミレスのネオンが見えてきた。

夜だけど、まだ店は光を放ち、人の気配もある。


我が家は駅から少し離れた場所にある。

お陰で静かだし、敷地が広いので駐車には困らない。


だが、高校生の妹にとっては移動が不便だと思う。

ここまでに来るのに車で十分かかった。自転車で来るとなれば三十分はかかってしまう。


「着いたぞ。入口でいいか?」


恐らくスマホに視線を落としているであろう妹に声をかける。


「え? あそこ空いてるじゃん。停めなよ」


指さされたのは駐車場の端。

つまり、俺も一緒に降りろということらしい。


帰って準備したかったんだけど――

父さんに迎えを頼めばいいよな、これ。


……とは口に出せず、ウインカーを出して車を停めた。


「あやかが待ってるから早く」


どうやら俺も行くことが確定したらしい。

スライドドアを閉めた時には、妹はもう入口近くにいた。

待つという概念が存在しないらしい。昔からそうだ。


店内に入ると、空調の冷たい空気が肌を撫でた。

少し前まで肌寒かったのに、もう夏の気配がある。

車中泊を考えるなら、そろそろ季節との戦いになるだろう。


そんなことを考えながら店内を見渡すと、窓際のボックス席に、制服姿の女の子が一人座っていた。あやかちゃんだった。


気づいた彼女が、軽く会釈する。

妹と違い一つ一つの仕草が可愛らしい。

こういう妹が良かったな。


「ごめんね。遅くに。待たせちゃったよね」

妹が申し訳なさそうに言う。


「ううん。待ってないから大丈夫だよ」

あやかちゃんが顔の前で手を振る。


「……さっきの話は本当なんだよね?」

「……うん」

「いつ行くの?」

「……来週」


あやかちゃんの言葉に妹が何かを言いかけて飲みこむ。


「すぐだね……」

「うん……」


誰も声を出さなくなった。

ファミレスの照明は明るいはずなのに、二人の席だけ影が落ちているように見えた。


めちゃくちゃ空気が重い。


お取込み中で申し訳ないんですが――注文してもいいだろうか。どうせ入ったのなら何か食べたい。

メニュー表に手を伸ばそうとした瞬間、妹に、無言で睨まれた。


……空気というのは、物理的に止まることがあるらしい。


妹は無言でメニュー表を掴むと、こちらに乱暴に押しつけてきた。

――注文の許可は下りたらしい。


「で、どこに行くの?」


さっきまで俺を睨んでいた目つきとは違い、妹はあやかちゃんに向ける声と視線だけ、妙に柔らかかった。


「……イギリス」


あやかちゃんは、少し迷うように言葉を置いてから続けた。

「……一年。状況次第では……伸びるかもしれない」

「そっか……」


妹の声も、今までよりずっと静かだった。


どうやら、あやかちゃんは留学するらしい。

こんな年齢で、一年も海外に行く人間が、本当に存在するんだな、と思った。


俺とは、歩いている道そのものが違う。

羨ましいとか、そういう感情とも少し違う。

純粋にすごいなと思った。


一週間後に海外留学。

打ち明けるには遅すぎる気もする。


人には見えない事情が多くある。

余計な事は言わないでおこうと口を固く結んだ。


――あ、このパスタ。期間限定か。


「卒業式には間に合うの?」

「……わからない。戻ってきたいとは思ってるけど」


よし、パスタにしよう。限定だしな。

視線をタッチパネルに向けたところで――


……また睨まれる位置じゃん。


どうしたものかと手を止めたら、妹がこちらに気づき、また睨む。からの――


無言でタッチパネルを差し出してきた。


「ドリンクバー二つね」


……了解です。


「黙っててごめんね」


あやかちゃんが、泣き出しそうな声で言う。

目元は笑っているのに、声だけが震えていた。


「ううん。むしろ言ってくれて、ありがとう」


妹は、何かをこらえるみたいに笑う。

少しだけ、声が掠れていた。


海外留学なんて、今からでもできるのかというのが正直な感想だ。

期が変わる四月とか、そういうタイミングが普通だと思う。

 

よく考えれば日本と世界の時間は違うのだ。

始業式とかも日本とは違うと聞いた気がする。


「寂しいけど、ずっと会えないわけじゃないもんね! 連絡は……手紙とかなのかな?」


妹が、ほんの少し大げさに声を上げる。

空元気という言葉が、頭をよぎった。


手紙。

今どき手紙なんて、書く人いるのだろうか?

……今の時代、テレビ通話とかできるだろう。


「うん。連絡するね」

「絶対だよ?」


二人が頷き、手を取り合う。

険悪な空気にならないようで一安心だ。


そんな空気の中で食べるパスタの味なんて想像したくもない。


「……この話って宮本君は知ってるの?」


妹の言葉に、空気が完全に止まった。

俺の懸念が現実のものになった。


俺はこの日食べたパスタの味を覚えていない。


***


車の中は、空気がやけに重たかった。


店内ではまだごまかせた空気も、この狭い密閉空間では誤魔化しようがない。

あやかちゃんを送り届けてから、妹はずっと窓の外を見たまま、一言も言葉を発していない。


「――私なら耐えられないと思う」


ようやく妹が口を開いた。声は怒っているというより、少し掠れていた。


「だって、好きな人と一年以上、会えなくなるんだよ? そんなの、絶対に寂しいよ」


それは、あやかちゃんが話していたことの続きを、妹なりに噛み砕いた言葉。


あやかちゃんは最初は言うか迷ったらしい。

言ったら、迷ってしまうから。苦しくなるから。


でも、言った。


“あやかはどこでもうまくやれるよ。頑張っておいで”

宮本くんは、そう言ったらしい。


「……どうして、そんなふうに言えるんだろうね」


妹の声は小さい。

けど、その小ささは怒鳴るよりずっと強かった。


「“行かないで”って言っちゃいけないの? 引き止めたら、ダメなの?」


そう言われても困る。

言う、言わないは本人次第だろう。


「本当はあやかの事なんてどうでもいいのかな……」


なぜ、そうなる。


「そんなことないだろ」

さすがに宮本君をフォローした。


「じゃあ、なんで。“頑張っておいで”なんて言えるの? 会えなくなるのに。寂しいくせに。……なんで、黙って送り出せるの?」


お気に召さなかったらしい。

物理的には会えなくはなるが、テレビ通話もあるから会えないってわけではないと思う。


「寂しくても、笑って送りたかったとか……そういう感じなんじゃないの?」


引き留めることだけが、愛の形ってわけでもない。


妹は、しばらく黙っていた。

車内の信号機の明かりが、窓越しに赤く揺れる。


「……お兄は恋をしたことないから、わからないんだよ」


過去の思い出がフラッシュバックする。

あのとき――

俺は、恋をしていたんだろうか。


相手を尊重したい、幸せでいてほしいと思った。

それは確かにあった。

でもそれが“恋”と呼べるものなのかと言われたら、俺は何も言えない。


もう一度、沈黙が落ちた。


真っ暗な夜道を、車は一定の速度で進んでいく。

それなのに、家に着くまでの数分が、やけに遠く感じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ