旅立つ恋のエキストラ(2)
金曜の夜は、理由もなく胸が躍る。
父と母の時代では花金と言ったらしい。
その感覚が、最近少しわかるようになってきた。
今日の講義が終わったので、土日は休み。
しかも今週はバイトもない。
自由が、ちゃんと二日分ある。
そして俺には――自由な二日間を、自由に使う手段がある。
つまり、車中泊だ。
前回は一日だけだったし、初めてということもあって近場にした。
でも今回は時間がある。
地図や口コミを眺めながら、妙にワクワクしている自分に気づいた。
調べた結果、電源付きのオートサイトが見つかった。
電源を必要としているわけじゃないのだが、“堂々とそこに停めていられる場所”があるというのはありがたい。
一泊数千円。
この自由を買えるなら、安いものだと思った。
「え、どういう事?」
準備をしているとリビングから不穏な空気が漂ってくる。
「待って、聞いてないって!」
妹が誰かと電話しているらしい。
自室があるんだから、そこでやればいいのに。
「パパ、テレビ消して」
いや、お前が部屋に行けよと言いたくなったが、やめた。
我が家のヒエラルキーは、妹、母、俺、父。
父はすでに悟りの境地に達しているので、無言でテレビを消す。
「うん、私はあやかの味方だよ……でも、さすがにそれは……」
あやか、という名前が聞こえた瞬間、少しだけ、手が止まった。
先日、送ってあげたカップルの彼女の方だ。
「でも、そんなの……寂しいよ」
母がちらりとこちらを見る。
“何か知ってる?”と訊くような目。
当然知らないので、肩をすくめて返す。
こっちはこっちで忙しいのだ。
「車中泊か」
父がぼそりと声を落とす。
普段から寡黙な人だが、今日はいつもよりさらに小さな声だった。
「うん。良い場所があったから、行こうかなって」
「そうか……来週の水曜、車借りてもいいか」
「水曜?」
少し考える。水曜は講義が詰まっている。
「わかった。電車で行くよ」
「すまんな。必要だったら送るぞ」
父が、ほんの少しだけ申し訳なさそうに言う。
その声を聞くと、買ったときのことを少し思い出した。
あのとき、俺が用意できたのは代金の半分より…ほんの少し多いくらい。
ローンにしようか迷っていたら、父が出すと言ってくれた。学生がローンなんて借りれるのかもわからなかったので、正直助かった。
“人を乗せることもあるし、お前の車なら丁度いい”
そう言っていたけど、本当は“出してやる理由”をわざわざ作ってくれただけなのだと思う。
母も、習いごとの送迎で使えるから、なんて言っていた。
父と母に気遣ってもらった格好だ。
でも、それを全部ありがたく受け取るのが、今の俺の立場だ。
勤労学生は、案外、肩身が狭い。
ただ、バイト漬けだった日々のおかげで、それなりの貯金は残った。
「うん。わかった。行くね」
妹の電話が終わったらしい。
重たい空気がようやくほどけて、リビングに少しだけ呼吸が戻る。
「出かけるの?」
母が心配そうに妹を見る。
時計を見ると、すでに八時を回っていた。
高校生が今から出歩くのは、遅い――と言い切れるほど早くもない、微妙な時間。
「うん、あやかに会ってくる」
軽く言うわりに、声の奥が少し沈んでいた。
お出かけらしい。いってらっしゃい。
そう思った瞬間、
「お兄。送ってって」
……は?
理解に数秒かかる。
「ああ、お兄ちゃんが送ってくれるなら安心ね」
母の、その何気ない一言が、追い打ちをかけてきた。
いやちょっと待て。
俺がさっきからせっせと荷物を車に運び込んでいるの、見えてるよな?
思わず母の顔を凝視する。
母は、当然のようにニコニコしていた。
***
暗い夜道を、ヘッドライトが細く切り裂いていく。
荷物を全部積み込んでいなかったのは、不幸中の幸い。
後ろには妹と、いくつかの荷物だけ。
スマホをタップする小さな音が、後部座席から一定のリズムで聞こえてくる。
声は出さず、でも確かに誰かと繋がっている気配。
良いご身分だな、と思う。
……言わないけど。
しばらく走ると、目的のファミレスのネオンが見えてきた。
夜だけど、まだ店は光を放ち、人の気配もある。
我が家は駅から少し離れた場所にある。
お陰で静かだし、敷地が広いので駐車には困らない。
だが、高校生の妹にとっては移動が不便だと思う。
ここまでに来るのに車で十分かかった。自転車で来るとなれば三十分はかかってしまう。
「着いたぞ。入口でいいか?」
恐らくスマホに視線を落としているであろう妹に声をかける。
「え? あそこ空いてるじゃん。停めなよ」
指さされたのは駐車場の端。
つまり、俺も一緒に降りろということらしい。
帰って準備したかったんだけど――
父さんに迎えを頼めばいいよな、これ。
……とは口に出せず、ウインカーを出して車を停めた。
「あやかが待ってるから早く」
どうやら俺も行くことが確定したらしい。
スライドドアを閉めた時には、妹はもう入口近くにいた。
待つという概念が存在しないらしい。昔からそうだ。
店内に入ると、空調の冷たい空気が肌を撫でた。
少し前まで肌寒かったのに、もう夏の気配がある。
車中泊を考えるなら、そろそろ季節との戦いになるだろう。
そんなことを考えながら店内を見渡すと、窓際のボックス席に、制服姿の女の子が一人座っていた。あやかちゃんだった。
気づいた彼女が、軽く会釈する。
妹と違い一つ一つの仕草が可愛らしい。
こういう妹が良かったな。
「ごめんね。遅くに。待たせちゃったよね」
妹が申し訳なさそうに言う。
「ううん。待ってないから大丈夫だよ」
あやかちゃんが顔の前で手を振る。
「……さっきの話は本当なんだよね?」
「……うん」
「いつ行くの?」
「……来週」
あやかちゃんの言葉に妹が何かを言いかけて飲みこむ。
「すぐだね……」
「うん……」
誰も声を出さなくなった。
ファミレスの照明は明るいはずなのに、二人の席だけ影が落ちているように見えた。
めちゃくちゃ空気が重い。
お取込み中で申し訳ないんですが――注文してもいいだろうか。どうせ入ったのなら何か食べたい。
メニュー表に手を伸ばそうとした瞬間、妹に、無言で睨まれた。
……空気というのは、物理的に止まることがあるらしい。
妹は無言でメニュー表を掴むと、こちらに乱暴に押しつけてきた。
――注文の許可は下りたらしい。
「で、どこに行くの?」
さっきまで俺を睨んでいた目つきとは違い、妹はあやかちゃんに向ける声と視線だけ、妙に柔らかかった。
「……イギリス」
あやかちゃんは、少し迷うように言葉を置いてから続けた。
「……一年。状況次第では……伸びるかもしれない」
「そっか……」
妹の声も、今までよりずっと静かだった。
どうやら、あやかちゃんは留学するらしい。
こんな年齢で、一年も海外に行く人間が、本当に存在するんだな、と思った。
俺とは、歩いている道そのものが違う。
羨ましいとか、そういう感情とも少し違う。
純粋にすごいなと思った。
一週間後に海外留学。
打ち明けるには遅すぎる気もする。
人には見えない事情が多くある。
余計な事は言わないでおこうと口を固く結んだ。
――あ、このパスタ。期間限定か。
「卒業式には間に合うの?」
「……わからない。戻ってきたいとは思ってるけど」
よし、パスタにしよう。限定だしな。
視線をタッチパネルに向けたところで――
……また睨まれる位置じゃん。
どうしたものかと手を止めたら、妹がこちらに気づき、また睨む。からの――
無言でタッチパネルを差し出してきた。
「ドリンクバー二つね」
……了解です。
「黙っててごめんね」
あやかちゃんが、泣き出しそうな声で言う。
目元は笑っているのに、声だけが震えていた。
「ううん。むしろ言ってくれて、ありがとう」
妹は、何かをこらえるみたいに笑う。
少しだけ、声が掠れていた。
海外留学なんて、今からでもできるのかというのが正直な感想だ。
期が変わる四月とか、そういうタイミングが普通だと思う。
よく考えれば日本と世界の時間は違うのだ。
始業式とかも日本とは違うと聞いた気がする。
「寂しいけど、ずっと会えないわけじゃないもんね! 連絡は……手紙とかなのかな?」
妹が、ほんの少し大げさに声を上げる。
空元気という言葉が、頭をよぎった。
手紙。
今どき手紙なんて、書く人いるのだろうか?
……今の時代、テレビ通話とかできるだろう。
「うん。連絡するね」
「絶対だよ?」
二人が頷き、手を取り合う。
険悪な空気にならないようで一安心だ。
そんな空気の中で食べるパスタの味なんて想像したくもない。
「……この話って宮本君は知ってるの?」
妹の言葉に、空気が完全に止まった。
俺の懸念が現実のものになった。
俺はこの日食べたパスタの味を覚えていない。
***
車の中は、空気がやけに重たかった。
店内ではまだごまかせた空気も、この狭い密閉空間では誤魔化しようがない。
あやかちゃんを送り届けてから、妹はずっと窓の外を見たまま、一言も言葉を発していない。
「――私なら耐えられないと思う」
ようやく妹が口を開いた。声は怒っているというより、少し掠れていた。
「だって、好きな人と一年以上、会えなくなるんだよ? そんなの、絶対に寂しいよ」
それは、あやかちゃんが話していたことの続きを、妹なりに噛み砕いた言葉。
あやかちゃんは最初は言うか迷ったらしい。
言ったら、迷ってしまうから。苦しくなるから。
でも、言った。
“あやかはどこでもうまくやれるよ。頑張っておいで”
宮本くんは、そう言ったらしい。
「……どうして、そんなふうに言えるんだろうね」
妹の声は小さい。
けど、その小ささは怒鳴るよりずっと強かった。
「“行かないで”って言っちゃいけないの? 引き止めたら、ダメなの?」
そう言われても困る。
言う、言わないは本人次第だろう。
「本当はあやかの事なんてどうでもいいのかな……」
なぜ、そうなる。
「そんなことないだろ」
さすがに宮本君をフォローした。
「じゃあ、なんで。“頑張っておいで”なんて言えるの? 会えなくなるのに。寂しいくせに。……なんで、黙って送り出せるの?」
お気に召さなかったらしい。
物理的には会えなくはなるが、テレビ通話もあるから会えないってわけではないと思う。
「寂しくても、笑って送りたかったとか……そういう感じなんじゃないの?」
引き留めることだけが、愛の形ってわけでもない。
妹は、しばらく黙っていた。
車内の信号機の明かりが、窓越しに赤く揺れる。
「……お兄は恋をしたことないから、わからないんだよ」
過去の思い出がフラッシュバックする。
あのとき――
俺は、恋をしていたんだろうか。
相手を尊重したい、幸せでいてほしいと思った。
それは確かにあった。
でもそれが“恋”と呼べるものなのかと言われたら、俺は何も言えない。
もう一度、沈黙が落ちた。
真っ暗な夜道を、車は一定の速度で進んでいく。
それなのに、家に着くまでの数分が、やけに遠く感じた。




