「君を愛するつもりはない」とは言われたが!
「君を愛するつもりはない」
「はぁ、そうですか」
第二王子の妻として輿入れした少女は、王子から初夜の寝所で膝をつき合わせた状態からこの一言を聞かされて、目をぱちりと瞬かせた。
王子は今年で35歳。王族の、初婚としては少々年が行き過ぎている。
対する少女は、17歳。多少年が離れているが、これには色々と事情があった。
「……一応、僕たちは夫婦な訳だが、僕には他に愛する人が居る」
「なるほど」
「そういうわけだから、寝所も分けたい」
「はい、分かりました。ご随意にどうぞ」
「……そちらからなにか質問や、要望は? こちらも我意を通すのだ、そちらの意思も多少は汲もう」
少女が特に口答えをするでもなく詰るでもなく淡々と受け答えするのに、王子の表情がじわりと動いた。罪悪感がにじみ出てくるのに、少女はふふ、と小さく笑った。何というか、本当にこの方は――変わらない、と思って。
「でしたら、部屋に書棚を置かせてくださいませ」
「書棚?」
「はい。実家から蒐集しました書を持ち込みます。王宮の図書庫も大変良い取りそろえですが、やはり――」
「いや待て、僕は『質問は?』と聞いたのだが。君は僕が愛する人のことなどには興味がないのか?」
言葉を遮られ、少女は頬に手を添えて首を傾げた。何を言っているのか、の意思表示だ。
「ないですねぇ……というか、存じておりますもの」
「……知っている? 親族の誰かから聞いたのか? 僕の醜聞を?」
「姉二人があなたに振られ、最後の砦のわたくしですもの。事情はある程度言い含められておりました。別にあなたが誰を愛そうとも、それはそれでよろしいのでは?」
王子には、思い人がいる。――いた。その人は王子の側から遠ざけられた。王子自身の政略婚の為だった。その為に、その人は命を落とした。当時の王子の嘆きは、それはもう手が付けられない程だったという。今も時折人の口に上るほどには、語り草となっていた。
王子の最初の相手は上の姉だった。断られた。けんもほろろだったと言う。これは王子が二十歳の頃だから、今からおおよそ15年前。
次は下の姉だったが、彼女も振られた。こちらは、姉の方が全く心を寄せようとしない王子の様子に耐えかねて、他の男に逃げてしまった。これが10年ほど前のことだ。
現在は上の姉も下の姉も別の男と結婚し、幸せな夫婦生活を営んでいる。なお下の姉が結婚したのは王子との婚約時に関係した男との添い遂げだった。
「お相手のことをお話されたいのでしたら、お付き合いは致しますよ。わたくしにも、愛している方がおりますもの。お互いの思い人について語り合う間柄、というのも、なかなかにオツなものではございませんか?」
「君も、誰か想う人がいるのか」
「ええ。なおわたくしの相手は存命ですが――わたくしの言葉は、きっとその方には届きませんので」
「生きているのに?」
「生きていても」
まっすぐに自分の目を見つめる少女に、王子が相好を崩した。そうして、片手を彼女に差し出した。
「白い結婚であれば、相応の年数さえ経てば君を解放してやれる。そうしたら、その者と添い遂げられるよう、僕も僕に出来るかぎりの力で君のことを応援しよう」
「まぁ、ありがとうございます。けれどそれはご遠慮申し上げますわ。だってわたくしでは、その方の好みから完全に外れてしまっておりますもの。『脈』というものが、まったく、欠片もないのですわ」
カラリと笑って、少女は王子の手を取った。彼女も王子同様に、ふわりと相好を崩し、笑った。嬉しそうに、少しだけかなしそうに。
「そんなことはないだろう。君は若くて可愛らしい女性じゃないか」
「だから、ですわ。わたくしの思う方は、『年上』の、『男性』がお好きな方なのですもの」
「……そうか、あなたも僕と同じなのか」
「ですのでどうぞお気になさらず! それよりあなたの思う方のこと、教えてくださる?」
「――うん。その、僕の思う人は、僕の家庭教師をしてくれていた人でね――」
◇◇◇
7歳で出会い、15歳までの8年間を師事した教師だった。
穏やかで優しい人柄で、少しだけふくよかな体格の、愛らしい人だった。
語学が堪能で、専攻は史学だった。地政学と歴史を彼からは学んだ。
どういう訳か一目見て好きになり、以降8年、彼に愛を告げ続けた。初めは冗談だと思われていたが、年を経てようやく想いが届き、彼もまたそれに応えて手を取ってくれようとした――矢先に、彼は隣国との境で始まった戦に駆り出され、命を落とした。
彼をその地へ赴かせたのは自分の母の親族で、王子の政略婚の妨げになると遠ざけるための人事だった。
愛した人を、自分のせいで死なせてしまった。知ったのは婚約者として宛がわれようとしていた女の口からだった。なかなか首を立てに振らない彼に業を煮やしたのだろう、あなたがそんなだからあの家庭教師は戦地へと送られたのだと――
婚約は当然断った。その報復か、母やその親族達によって送り込まれていた侍女などにより、大切に保管していた筈のあの人からの手紙や残されたものは悉く処分されてしまった。
荒れた。
親族はそんな自分に、再び女を宛がおうとした。自分よりもいくつも年下の女だった。甘い菓子と歌劇場が大好きなふわふわとした愛らしい少女だった。全く話は合わなかったし合わせる気もなかったし、そもそも迎え入れるつもりはなかった。初めから最後まで冷たく接し、やがて彼女は他の男と恋に落ちその男と結ばれた。心の中でそっと祝福した。
放っておいて欲しかった。
ただ静かにあの人を弔いながら余生を過ごさせて欲しかった。王子としての仕事はちゃんとやっているじゃないかと言いたかった。そもそも兄のスペアである自分などは、妻を得て子を成す必要があまりない。兄には既に男児も幾人か生まれているのだ。兄が即位の後は王弟として彼を影から支えられればそれで良かった。野心などは全くないのだ。むしろ色気を出している母の親族がうっとうしかった。
それから随分時間が経って、再び親族は自分に女を用意した。今度はえらく若い少女だ。
彼女の評判は、少しだけ聞いている。何でも語学に長けた才女だとかで、学園でも話題に上がっていたはずだ。兄の子と同年で、その子の婚約者にどうかと一時は王宮でも名前が聞かれた。しかしその話がどう流れたのか、彼女の相手として自分が決まった。そうは言っても年も離れている上に自分は女性に興味もない。
だがしかし、あまりにも婚約者をないがしろにしすぎたことから、父から強制的に結婚を命じられた。
王命だ。断れない。……少女には可愛そうなことをしてしまった。立ち消えてくれることを願っていたのに。
仕方がないので、白い結婚として流そうと思い立った。
幸い少女も思い人がいるらしい。それも、想いの届かない人だそうだ。年上の男を好むということは、相手は同年代の女性だろうか。……思いが届かないというのは、辛いよな。分かる。
出来る限りの力添えをしようと誓った。若い時間を幾年も浪費させてしまうのだ。
幸い、少女の興味は学問で、それも歴史や地政学を好んでいた。自分もかつて愛した人の修めた学問と言うことで、長年ずっと暇を見つけては研究し学んできた分野だ、彼女と話すのは楽しく、時を忘れる程だった。――あの人と議論を交わしたあの頃を思い出した。
彼女が部屋に持ち込んだ書棚のコレクションも見事だった。あの人の書棚を彷彿とさせる並びだった。あの人は、独特な分類のしたかをする人だった。普通ならばシリーズ毎に並べるものも、それらを全てない交ぜにして、内容毎に纏めるのだ。だから例えばこの書棚のように、見た目はひどくバラバラでまとまりのないものに――…………
「どうされましたの?」
「――……どうもしないよ。少し、懐かしい気がして」
「なにか気になる本がありましたら、どうぞお持ちくださいな。読み終わりましたら、感想戦を致しましょう!」
「うん、そうだね」
そうだなぁ、それならば、どの本が良いだろうか。そうして指が辿った先に、懐かしい本を見つけた。師の本だった。嬉しさに震える指先で、取り出した本をパラパラとめくった。写本としての出来も素晴らし――ちょっと待て、これは、原本か!? 巻末にサインが入っている、間違いない!
――まさか、またこの本を手にすることが出来るなんて。思わず浮かびかけた涙を必死で堪えた。
「これにしよう」
「そちら――……ですか」
「なにか不都合が?」
「いいえ、特には。どうぞお持ちください」
懐かしさに顔がほころぶ。そう言えばさっきまで何か大切なことを考えていたような気がしたけれど――……まぁ良いか。
久方ぶりで目にする師の文字に、心がひどく浮き立っていた。十数年ぶりに見る彼の文字が愛おしくて。
ただ、少しだけ、なにかが――引っかかった。割と最近、自分はこれによく似た字を見なかっただろうか――?
◇◇◇
愕然としました。なんであの子、まだ結婚してないんだよ、と。
わたくしはとある伯爵家の三女として生を受けました。ちなみに前世の記憶持ちです! 信じられないかも知れないけれど、どうしてか前世の記憶がちゃーんとあります!
前世はしがない学者でした。学問しか能がなく、いろいろな仕事を家族から紹介されてもどれもこれも全く以てうまく熟せず、結局最後の最後に好きな学問にちなんだものならどうだろうと、第二王子殿下の家庭教師に宛がわれました。
教師も、うまく出来たとは言いがたかったのです。わたくしは、そこで、王子殿下から愛の告白を頂きました。勿論すぐに断りました。だって年齢が全然違う。当時のわたくしは27歳。王子殿下はなんと7歳! 親子か! という年齢差です。
しかし、王子殿下は諦めませんでした。それから8年、一途にわたくしを想い、慕い、言葉を捧げ続けてくれたのです。しまいにはわたくしもすっかりほだされ、その手を取ってしまい――全てはそこから、運命の歯車が狂ってしまったのです。
わたくしは、ずっと、どれだけ思われようとも、彼の手を取ってはいけなかった。わたくしの辛抱が足りなかったばっかりに、王子殿下を不幸にしてしまったのです。
前線に送られたわたくしは、まぁ武の心得などまるでなかったこともあり、割とあっさり戦死しました。
……色々、ありましたけどね。前線ですから。しかしそれは今更言うようなことでもないでしょう。
死んで――けれど次に目覚めた時、わたくしは女児として伯爵家に生まれておりました。なんということでしょう、前世の記憶付きです!
まだうんと幼い頃に上の姉と王子殿下の婚約がならなかったことを侍女の陰口から知りました。
ようやく家庭教師が付いた頃に、下の姉と王子殿下の婚約がならなかったことを家庭教師から聞かされて知りました。
なにやってんですか、殿下、と思いました……。本当に、何をやっていらっしゃるのか。
妹の目から見ても、姉たちは容姿も優れ、気質だって悪くはなかった。さぞや良き妻となったでしょうに。
わたくしなど、小太りで見目も良くない、学問しか能のない年かさの男だったでしょうに。
ようやく成人し、遠目に見たあの方は、わたくしが見知っていたあの方とはまるで変わっておりました。あの頃よりずっと背も伸びて、男らしく頼もしい体格になられて、目つきだって鋭くなって――あの頃は何をしてても幸せそうに笑っていらしたお顔が、まるで嘘みたいに、いつも辛そうな顔をなさっていた。
成人の後に婚約者として引き合わされたときもそうでした。ぶっきらぼうで、こちらの事など見ようとさえなさらなかった。
婚約はしたけれど、その後もまるでなしのつぶて。それとなく色々忍ばせてお手紙をしたためてもお返事はなかった。陛下から命じられ婚儀を上げても変わらなかった。ずっと、ずっと、あなたはかつての家庭教師を、想いを寄せた男のことを思い続けているのでしょう。
嬉しいよりも、困惑が勝りました……。なるほど、年上の男が好きだったのか……? と思い、ある程度納得出来ました。
ならば今のこの姿では、あの方の目にはとまらないのも当然です。ここはスパッと諦めましょう。
初夜の寝台の上で言われた言葉にも、今更動揺は致しません。あなたは年上の男が好き! よし!
ならばわたくしはあなたの次に大好きな勉学に打ち込みましょう! 公務以外は好きにして良いと言われて了承した婚約でもありましたし!
……そして、ひっそりと、あなたを思い続けましょう。
実はね、少しだけ浮かれていたのですよ。わたくしと会えば、あなたはわたくしと気付いてくださるかもしれないと。けれどまるきり他人を見る冷たい目で見つめられて、わたくしはすっかり萎縮してしまった。名乗り上げてそれでもその目が変わらなかったらと思うとそれだけで恐ろしくて、それならば、密やかに思うだけの方が良いと、諦めてしまったのでした。
そう割り切ってお付き合いすれば、王子はあの頃と何も変わらぬ、心優しい青年でした。
どうやらこちらを嫌っているわけでもなさそうなので、これ幸いとあれこれ学術談義に花を咲かせ、蔵書を増やすのも協力して貰いました。よいパトロンを手に入れました。
どうやら彼もかつて私がお教えした学問を好んでいてくれたようで、専門的な内容にまで踏み込んだ大変有意義な会話を交わせます。次第に良き友のような間柄になって行きました。
「なにか気になる本がありましたら、どうぞお持ちくださいな。読み終わりましたら、感想戦を致しましょう!」
「うん、そうだね」
そんなある日、彼がわたくしの書棚から1冊の本を持ち出されました。その本を見て、思わず一瞬「うっ」となったのは内緒です。その本は、古書店の主から少々強引に譲り受けたものでした。かつてのわたくしの書いた本で、王子殿下にお送りしたものだったのです。王子はご存じなかったでしょうが、わたくしは本など記せる身分ではありませんでしたが、どうしても最後に王子殿下に私の著書をお贈りしたくて、戦地に旅立つ前に必死の思いで書き上げたものだったのです。
古書店でそれを見かけたときにはよもやと思いました。きっと彼はそれを大切に持っていてくれていると信じていたからです。だってずっとわたくしのことを思い続けてくれている――と言っていたのですから。
それなのにどうしてと、わたくしはその本を店主から半ば無理矢理に買い上げて、自身の蔵書へと加えたのでした。
それを、よりによって王子殿下が借りて行く。なんの冗談でしょうか……。しかし断ることなど出来ません。
仕方がないのでそのままお貸ししました。
◇◇◇
さて、その夜のこと。
王子は妻の部屋を訪れた。
手にしていたものは、借り受けた蔵書と、彼女が王子へとしたためた幾通もの手紙だった。
彼と彼女の間でどのような話がなされたのか、それは夫婦二人だけの秘密である。
その夜以降、二人の仲睦まじい様子はそれまでよりいっそう深まったようであったし、一年後、新たな命が誕生することになるのだが――それはまた、別の物語。