第2話
青春と部室(17)
カフェを出ると、ちょうど夕方のチャイムが鳴り終わるところだった。カラスが鳴くから帰りましょう──まだまだ遊び足りない高校生達が、連れ立って繁華街を目指している。
その忙しなげな足音を見送りながら、佐田岡は腕時計に目をやった。
「時間ないんだろ、大丈夫か?」
外の風にあたって少し落ち着きを取り戻した俺は、それでもまだ必死に平静を装って言った。
「いやいいよ、あとは帰るだけだから」ポケットを探り、スマホの電源を切る。「もう少し話がしたい」
そう、俺と佐田岡に必要なのは俺が消えた十年を、そして俺の知らないその前の十年間を埋めることだ。話がしたいんだ。
それなのに、かつて俺がそうしたように、今度は佐田岡が俺から逃げていこうとしている。
今ここで別れてしまったら。俺が逃げたとしても、お前が逃げたとしても、もう次はない。そんな気がするんだ。
「なら、山田んちまで歩きながら話すか」
「そうだなあ……」
バスで数駅の実家は歩ける距離ではあるのだが、この目立つガタイの二人がうろついていては、おばさま方に見つかったが最後『放蕩息子十年ぶりの帰還!』とご近所新聞の一面記事を飾ってしまう。
かといって、飯や酒の肴になるような話とも思えないし……。
考えあぐねていると、佐田岡がふと思いついたというように顔を上げた。
「じゃあ、学校にでも行ってみる?」
学校──俺と佐田岡の通った私立船木場高校。卒業以来、いや、同窓会の夜に梨花と忍び込んで以来の思い出の場所。
俺と佐田岡、俺と梨花、俺たちみんなの青春の住処。
行こう。頷いて、俺たちは駅から十五分ほどにある母校へと、二人で何度もなんども歩いた懐かしい道を今一度踏み出した。
◆
しばらくは仕事帰りのサラリーマンや部活を終えた高校生達の流れに逆行しながら、夕暮れ空に向かって会話もなく歩いていた。
そして駅前通りを過ぎ人並みが途切れたところで、佐田岡はひっそりと「さっきの続きだけど」と口を開いた。
「俺はゲイっていうか、男と付き合うのは森さんが初めてなんだよ」
よく見知った親友の口から、未知の世界の話が飛び出す。
「なんかよくわかんねえけど。バイってやつなの?」
「バイなのかなぁ。まあ正直なところ、俺は男でも女でもどっちでもいいんだ」
軽く笑って言う佐田岡の顔は、夕焼け色も手伝ってどこか寂しげに見えた。
もしかすると、どっちでもいいというのは、男でも女でもどうでもいいということなのだろうか。
今になって思えば、佐田岡から誰と付き合っただのどこへデートに出かけただのという恋話をされたことは、ほんの十分前に先生との交際を打ち明けられるまでついぞなかった。本人以外から伝え聞くには、星の数ほど彼女がいただろうに。
そういうお前だからこそ、俺も梨花とのことを打ち明けられなかったのかもしれない。
佐田岡は続けた。
「森さんは根っから男しかダメでさ」
思わず、へぇ、と喉の詰まったような声が出る。
「お前は高校の時から先生が……そうだって知ってたの?」
佐田岡はうぅんと少し考える素振りを見せた。
「確信はなかったけど、なんとなく気づいてはいたかなぁ。ノーマルなやつと目線が違うっていうか」
「目線?」
「うん、じっと見るってわけじゃないんだけど。無意識に視線を送る場所がやっぱり違うんだよな」
高校時代の森先生は比較的歳も近く、おちゃらけキャラいじられキャラで、女子にも男子にも割と人気の教師だったと思う。若い分俺たちとの距離が近かった気もするが、だからといって誰かを特別扱いするということもなく、当然セクハラがあったとも聞かない。特に不自然な挙動があった覚えもないが……。
ちょうどその時、狭い歩道上で母校の後輩達とすれ違った。
身体は避けながらも、つい無意識にミニスカートに吸い寄せられる俺の眼球──佐田岡はキャッキャとかしましく横を通り抜ける女子高生達に、ただ一瞥をくれるだけですぐにまた前を向いた。
なるほど、こういうことか。
俺が視線に気づくのはせいぜい目があった時くらいで、人の目の行方なんて気にしたことがないし、ましてそれを追っている奴がいるなんて思いもしなかった。
俺がなにを──誰を見ているのか、他の誰かが気にしていたなんて。
生足に気を取られた分を早足で追いかけながら、俺は今日何度目かわからないため息をついた。
「すげえなお前って。目線の違いなんて言われなきゃ一生気づかなかった。俺とお前が見てる世界って、同じものでも全然違うんだろうな」
「寂しいこと言うなよ」
佐田岡は少し困ったように笑う。
「いやいや、褒めてんだよ。俺ってホント、ぼんやり生きてるっていうか。なにも見えてねえんだなって」
「そんなことないよ、俺は山田のそういうところが──」佐田岡はパッと顔を輝かせ、そうかと思うとふいに言葉をつまらせた。
「──いいと思うけどな。先生だって自分がゲイだなんて、生徒に気づかれたくないだろ」
たしかに、そんな秘密は多感なガキの集団にとっちゃ格好のおもちゃでしかない。道徳の授業で教えられた通りには、心は動いてくれないもんだ。自分が梨花との交際を周りの誰にも告げずに、ひた隠しにしたように──まあ俺の場合はバレてはいたが。
そしてそれは、佐田岡にとっても同じだったのかもしれない。
互いを見つめ合いながら駅に向かう仲睦まじげな高校生カップル、彼らだって恋人には言えない秘密を抱えているのかもしれない。
「先生とはいつから?」
反対車線の歩道を歩く初々しいカップルを横目に、佐田岡の秘密を聞いてみる。
「十年前の同窓会に先生も来てただろ。その時、はじめて本人からゲイだってことを聞いてさ」
「もしかして、二次会でカミングアウトでもしたの?」
「まさか、こっそり俺にだけだよ」
「なんだ、衝撃発表があったのかと驚いちゃったよ」
冗談で茶化しはしたが、俺と梨花がやりあっていた裏で佐田岡と先生にそんな密談があったなんて。それこそ衝撃的な話だ。
森先生はなぜ、佐田岡に秘密を打ち明けたんだろう。
佐田岡はいま先生と付き合ってはいるが、男でも女でもどうでもいいのだと言う。先生は佐田岡の秘密に気がついたんだろうか(母校の男性教師と付き合う以上の秘密なんてあるのか?)。
十八の頃は『お付き合い』は互いに好き合って告白して告白されて、はじめて生まれるものだと思ってた。でも世の中そうでもない、むしろ好きだけではうまくやっていけないことを、歳をとるほどに思い知ってきた。
「それで、愚痴を聞いてもらったり相談したりしてるうちに、付き合おうかってなったんだ。だからそろそろ十年近くになるよ。まあ、お互い情みたいなもんかなぁ」と、言い切ったところで佐田岡は足を止めて俺を振り返った。「──もう着いちまった」
◆
三年間通い続けた高校の見慣れたはずの正門は、自分の記憶がもう朧げになっているのを確かめるには充分だった。
「校門ってこんなんだったっけ?」
こんな小さかったっけ、いや、むしろこんな大きかったのか? まじまじと見ればみるほど記憶が遠くなる。
「うん、改築はしてないと思うけど。塗り直しぐらいはしてるかな」
佐田岡は自分のデータと答え合わせをするように、口元に手を当てた。
梨花と来た時には暗く閉ざされていた門も、今は下校する在校生のために開け放たれている。
俺たちは彼らの不審者を見るような目を避けて、フェンスで囲まれた外周を時計回りに一周することにした。
門のそばの駐車場とロータリーを横目に、来た道を少し戻り、ほぼ正方形の敷地の一角を曲がる。フェンスと灌木の向こうに、グラウンドとそこに面した南校舎が見える。校庭ではサッカー部の子供たちが、高校生らしく賑やかに練習をしていた。
その姿を親心にも似たような気持ちで眺めながら、
「なあ、佐田岡って何組だったっけ? 三年の教室覚えてる?」と聞くと、
「お前はA組で、南校舎の三階の端だろ。俺はCでその二個隣」
佐田岡は即答して、校舎の一番夕陽に近いところを指差した。
「あ〜そうだった、下駄箱から遠いんで文句言ってたな。完全に忘れてたわ」
自分自身に言い訳をするならば、船高はクラスそのものは三年間持ち上がりだが、授業は選択制で毎時間移動していたので、自分の教室にいる時間がとても短かったのだ。まあ教室どころか、もはや教師の顔も名前も思い出せないのだけれど。
それでも佐田岡の言葉を切っ掛けに、朧げながらも遠い記憶が蘇る。
いつも佐田岡と同じ授業をとって机を並べていたこと、三好が学食のメニューを全制覇したこと、ごっつんの代返がバレて罰として便所掃除をさせられたこと、橋本たちと三階まで階段を駆け上がる競争をしていたこと、その時に流行りの腰パンをしていたラクダがズボンを下げすぎて裾を踏み盛大にすっ転んだこと──
遠い記憶から掘り起こせるのは、担任やクラスメイトよりも、野球部の連中と過ごした何気ない日々のことばかりだ。
懐かしさに昔話を楽しみながら、二つ目の角を曲がり校舎の裏手にまわると、昔からある古い体育館の横に、比較的新しい見覚えのない二階建てがあった。
「こんな建物あったっけ?」
「ああ、新しい部室棟だろ」
なるほど、十年前の夜には気づかなかったが、ここに建て替えていたのか。なに部があるかなとひょいと覗くと、壁際にいくつも室外機が連なっているのが見えた。
「マジかよ、現代っ子は部室までエアコン完備なの? いいなあ」
昔は校舎にさえ、よく故障する年代物のヒーターくらいしかなかったのだ。
「そういや俺たちの時は夏は暑くて冬寒かったなぁ。よくあんなとこ溜まり場にしてたもんだよ」
同意した佐田岡が笑う。
「暑いし寒いし、クセーしな」
一緒に笑いながら、なぜかふっと、冬の寒い日にクラスの女子のジャージを首に巻いて暖をとっていた佐田岡の姿を思い出した。あれ、いい匂いだったなあ。どういう人生を送れば、女子のジャージのズボンをマフラー代わりに貸して貰えるようになるんだろう? チクショー。
ふいに、背後からイチニ、ソーレの野太い掛け声が聞こえた。
声のした方を振り返ると、船高野球部らしき集団が角を曲がって走りくるところだった。
「野球部復活したんだなあ」
たしか十年前は廃部のままだったが、いつの間にかまた蘇っていたのか。なんだか自分のことのように嬉しい。
「うん、森さんが顧問やってるよ。相変わらず弱いけど、真面目な野球部だってさ」
佐田岡も目を細め、優しい声でそう応える。
「俺らだって真面目な野球部だったろ〜」
「どこがだよ」
佐田岡は鼻で笑うが、いやいや、お前は外周を走ったことはないだろうが俺はあるんだぞ。片手で数えるくらいには。
じゃれあう俺たちの横を、十人程の部員たちがザッザッザッとリズミカルな足音をたて、脇目も振らずに追い越していく。
それにしても──
「佐田岡は運動からっきしなのに、よく俺と一緒に野球部に入る気になったよなあ」
「まあなぁ」
夕陽に向かって走る青春映画のような背中をじっと見送っていた佐田岡が、背中を丸めて苦笑する。
そうなのだ。いかにもスポーツ万能そうな恵まれた体格の佐田岡の唯一と言っていい欠点が、運動音痴だということだった。
本人は至って真面目なのに、体育教師からふざけて走ってんじゃねえぞと怒鳴られる可哀想な奴なのだ。
「中学の時は、毎年体育祭の度にファンが激減してたよなあ」
佐田岡の出番に最初はきゃあきゃあ黄色い歓声をあげていた女子が、一歩走るごとにサーッと引いていくのが目に見えるようだった。
俺が思い出し笑いをすると、バツが悪いのか、佐田岡は鼻の頭を掻いて拗ねたように言った。
「せっかく体育祭も部活強制もない高校に入ったのになぁ」
本当に、元々生徒のほとんどは帰宅部か文化部という文武の武を置き去りにした学校なのだから、いくらバスケ部やバレー部の勧誘が激しかったとしてもわざわざ他の運動部に入らずとも良かったのだ。
「別に、俺に付き合って入部することなかったじゃんか」
俺が笑って言うと、
「だってそれじゃ寂しいじゃん」
らしくない、素直な言葉が返ってきた。
思わず隣を見上げるが、佐田岡は照れているのかこちらを見ない。真っ赤な耳は多分太陽のせいだろう。
だから俺も顔を見ずに答えた。
「そうだな。お前と一緒で楽しかった」
そうだ、お前が俺に付き合って入部してくれたおかげで楽しかったよ。佐田岡がヤンキーの先輩との間を取り持ってくれなかったら、ろくに練習もできず、一年と持たずに退部していたと思う。
俺たちはまた歩き出した。
校舎を挟んで正門のちょうど反対側にある小さな第二グラウンドを過ぎると、南校舎と渡り廊下で繋がった北校舎があり、その外側、一番西側にかつて旧部室棟はあった。
そこには夜中忍び込んだ時に見た簡素な物置もなくなって、かわりにコンクリ造りの立派な倉庫が建っていた。
「だいぶ味気無くなってんなあ」
オンボロで、いかにも昭和といった雰囲気の旧部室棟とは正反対の殺風景さに少し気落ちしていると、佐田岡は倉庫と校舎の隙間を覗いてぼそっとつぶやいた。
「あの裏、まだ告白の名所だったりするのかな」
ついに三年間縁のなかった部室棟裏。いまは倉庫裏とでも呼ばれているのだろうか?
森先生の情報では、佐田岡はよくここで目撃されていたそうな。
「なあ、お前高校ん時、全部で何人に告られたの?」
「何人かなぁ、数えてないけど。通算で三十人くらいかな?」
完全なる興味本位で聞いた俺が馬鹿だった。シレッととんでもないことを言いやがって。うちの学校の女子生徒はせいぜい二、三百人だぞ。入れ替わりがあるとはいえ、十人に一人近くが佐田岡に告ってんのか? そりゃ先生もラクダも、モテるのなんのとやっかむはずだ。
別に俺はやっかんではいない。びっくりしただけだ。うん。
それにあの時、佐田岡は先生に大勢からモテても本命でなければ意味がない、というようなことを言っていた。あの時の俺は自分のことで精一杯だったけれど、佐田岡の場違いなほどに真剣な声が印象に残っていて、今でも覚えている。
自分の愛した相手でなければ、男でも女でもどっちでもいい。独り言のように呟いたあの言葉は、佐田岡の本音だったんじゃないか?
それじゃあ、お前の誰にも言えなかった本命は──
「って言っても、断るのも面倒でハイハイ言ってたからなぁ。付き合ったって全然続かなかったし。後半はとりあえずヤリたいだけの、セフレ目的の女子も多かったんじゃないかな」
いや、やっぱり腹立つわ。
「……お前、体育祭がある学校の方が良かったんじゃない?」
厭味半分、本気半分でからかうと、だよなぁと面白そうに笑う。ちぇっ。
「そういや森先生が言ってたけど、あそこ、職員室から丸見えなんだってよ」
三つ目の角を曲がりながら、ふと思い出して何の気なしに言うと、佐田岡はえっと今日一番の大声を出した。
「……マジか。北校舎の西側は西日避けでずっとブラインド降りてるから、見えないと思ってた」動揺を隠せないのか、ソワソワと髪をさわる手が忙しない。「マジでかぁ」
おいおい、お前いったいナニしてたんだよ。
「今先生と付き合ってんだろ、ヤバいじゃん」
「えっ、その、多分、大丈夫……だと思う」
とても大丈夫ではなさそうな顔でおたつく佐田岡が珍しくて、声に出して笑ってしまう。
俺は初告白も初キスも初体験も部室の中だから、職員室からは当然見えないのだ。
という俺の心の声が聞こえたのか、
「お前だって、あの後二回くらい部室でマネージャーとヤったろ」
と佐田岡にツッこまれる。
「バレてたのかよ」
「バレてるよ、場所考えろって忠告したろ」
そんなこと、言われたような気もするが、十七、八の猿の性欲を舐めてもらっては困る。
お返しだとばかりニヤける佐田岡に、俺は参ったと手を挙げた。
ああ。くそ。他愛のない会話が、なんでこんなに楽しいんだろう。
やっぱりお前は俺の一番の親友なんだよ。思い出を共有できる仲間なんだよ。
いっそ全部なかったことにならないかな。
また十八歳の俺と佐田岡に戻れないのかな。
別にお前がゲイでもバイでも、先生と付き合ってたっていいからさ。
梨花と寝たのなんて嘘だったって、嘘でもいいからそう言ってくれないかな。
俺はたしかに佐田岡が憎かった。自分の中の憎しみを確かめるのが、真実を知るのが怖かった。でもその憎しみも恐怖も遥か遠い。
あれほど鮮明だった梨花との日々も、いまではもう薄紙を透かして見たような、セピアカラーの微かな記憶になってしまった。
建物ごと無くなってしまった今ではもう、部室のロッカーひとつ思い出せない。
あの日なぜ梨花が学校に来たがったのか、今ならわかる気がする。こうして薄れかけた思い出を補い合って、ともに笑いあう相手が欲しかったのかもしれない。
……きっと本当は、なにもかもが色褪せる前に、全てにちゃんと決着をつければよかったんだと思う。
もっと喧嘩すればよかったと言った梨花の言葉が、今更心に突き刺さる。
俺は誰かに向き合うことにも、自分を曝け出すことからも怖くて逃げた。その結果が今日の俺なんだろう。
それでも、俺にも、明日は来る。明後日も、その次も。




