第十八番歌:弓引きて(二)
二
額田先輩が、私のことを忘れていた。一回生の頃から、時間割登録や課題の資料選びでお世話になったのに。先輩を責めたくないけれど、ひどい、ひどすぎる。
「もしかして、オープンキャンパスに来てくれていたのかな? それとも、大学案内を読んだ?」
「あ、あの、えーっと、その」
ますます不審がられちゃうよ。適当にごまかせ、大和ふみか!
「大学案内で、お名前を」
やっと先輩が、私に親しみを持ってくださった。
「わあわあ、照れるね。キャンパスライフの紹介で、写真撮られたんだけどさ、飲み会の翌日で写りがいまいちだったんだ。飲み、といっても、濃茶ね。茶道部なの、私」
気さくで、場の緊張を解かせて、誰とでもうまく付き合える。うん、いつもの先輩だ。
「そ、そうなんですか。きれいでしたよ? あ、実際の方がもっときれいです」
「やだやだ、ほめられたわ。君って、面白いよね」
「よく、朴念仁だといわれます」
額田先輩は、人目をはばからず噴き出した。
「君、お笑い芸人になれるよ!」
「はあ……」
「名前、教えてくれる?」
「大和ふみか、です。あっ」
肝心なこと、訊かなきゃ。
「あの、仁科唯音さんをご存知ですか。お友達、ですよね」
唯音、で先輩の顔色が変わった。
「…………ごめんごめん、聞いたことないわ」
冗談きついですよ。四年も一緒にいたんでしょ。身内で悩んでいる唯音先輩に入隊を勧めたのは、他でもない額田先輩だよ。
「ふみかちゃんは、唯音ちゃんを探しているの? 協力したいのはやまやまだけど、オリエンテーション始まるからね……」
腕時計と私を交互に見て、額田先輩が小さく叫んだ。どうやら、ひらめいた様子。
「来て!」
腕を取られ、階段を駆け上らされた。朝に三階は体力削られますって。エレベーター乗りませんか。息が切れる……!
「ぎりぎりに教室へ入って、部外者を連れて、なのですか……………………!」
教壇に漆黒のスーツとひだスカートの教員が、磨かれた革靴を踏み鳴らす。
「反省してます。なので、今回は特別にお願いします、宇治先生」
人当たりの良い笑顔に、宇治先生は教卓へ出席簿を叩きつけた。
「ぬぬぬぬ、額田さんとあろう方が新学期早々、風紀を乱す行いをするとは、私、がっかりしたのですよ!!」
おどける先輩に、四回生たちが「ナイスにぎやかし、額田!」「きみちゃん最高」「もっとやったんせー」と応援していた。
「人気者なんですね」
「クラスではついつい、やらかしキャラになるんだ」
教卓に最も近い席に座り、先輩が隣の椅子を指した。私も参加して構わないのか。
「静かにしてください! オリエンテーションの時間なのですよ!」
宇治先生はののしりを収めるのに骨を折っていた。臙脂色の腕章が輝かしい。教員は常に身につけていないといけないんだって。学部によって布の色が違うらしい。
「出席をとります! 安倍砂子さん!」「はい」「石川一一一さん!」「うす」「鶉衣也有さん!」
あと一年で四回なんだ……。つつがなく卒業できることを祈りたいが、去年をやり直して、日文から外れた私は厳しい状況に置かれていた。今頃、二回のオリエンテーションも……えっと、担任は……なぜか顔がぱっと浮かばない。
「卒業論文のゼミ名簿と、仮題目記入用紙を配ります!」
額田先輩は配付物を受け取るやいなや、歓声をあげた。
「やったやった、上代ゼミだ! 棚無先生のもとで書ける!」
棚無先生? 上代文学を担当されているのは、そんな名前じゃ…………なら、誰なのよ。
「仮題目は、皐月十四日、金曜日、十七時までに提出してください! 各ゼミ教員の署名をいただくことです!」
物覚えはまあまあな私が、サークルを始めた人、顧問、担任、上代文学専門の先生の記憶が抜けているなんて。春の陽気にぼんやりさせられたのだろうか。
「最上級生なのですから、恥じない行動を心がけるのですよ! 卒業論文、就職または進学と忙しくなりますけど、悔いが残らないように全力で取り組んでください!」
騒がしい始まりだったけれど、先生への敬意は欠いていないのか、先輩たちはおとなしく聞いていた。
「最後に質問はありませんか?」
「はい、はーい!」
額田先輩が指先揃えて挙手して、教壇へ上がった。
「皆、終わり際にごめん! この席の大和ふみかちゃんが、仁科唯音ちゃんを探しているんだ。化学科、だった? もし、何か知っていたらふみかちゃんか私に連絡してね!」
女子、男子ともに快く引き受けてくれた。先輩の人柄がうかがえる。私の勝手な想像である「優等生は孤立しがち」を破った二例目だ。
「すみません、呼びかけしていただいて」
「いいのいいの、多ければ多いほど、はかどるからさ。ふみかちゃんの力になりたくて。それと」
額田先輩はほおづえをついて、はにかんだ。
「唯音、の響きが、懐かしく思えてきたんだ。昔、自分の世界だけにいた遊び仲間……イマジナリーフレンドに、そう名付けていたような」
ほっとした。先輩の心に、唯音先輩が完全に消えていなかった。おなかのあたりが、じんわり熱くなった。
「私は研究棟に寄るんだけど、君もどう?」
ついていこうか迷った。でも、
「申し訳ないです、行ってみたい所があるので」
「残念。また今度だね。アドレス交換してオッケー?」
「ど、どうぞ」
赤外線で携帯電話の連絡先を送り合い、廊下で解散した。
広場を抜け、学内の横断歩道を小走りする。そのまま直進したら研究棟だから、右へ折れる。目的の空満高校は、入学式とゴシック体で書かれた立て看板が横にされていた。片付けしかけたら昼休み、だったか。
体育館は、半分扉が空いていて球をついたり、はたいたりする音が響いていた。横長の校舎には「祝! 柔道部二年◯◯さん 全国大会進出」と「野球部 春季選抜予選突破おめでとう」の垂れ幕がかかっている。降ってくる音の雨は、吹奏楽部だろうか。聞き覚えのある邦楽だった。
「いざ行動してみたけれど……」
最年少、高三の隊員・夏祭華火ちゃんは来ているのか。入学式って、在校生も参加するものだったっけ?
「華火ちゃん流なら乾坤一擲、賭けに出よう」
彼女は裏の「古池」に棲む大きな鯉を愛でていた。今日もえさをやっているんじゃないか。姿を確かめられたら充分だ。
「どこにご用があるんですか~?」
ほんわかした声に立ち止まる。すさまじいくせ毛のセーラー服が走ってきた。いや、突進というのが正しいね。
「い、池に。ヌシに会いたいなあって」
「古池ですか? 藻ばっかしで生き物いないですよ」
いとけない顔(私も童顔だけれど、あちらの方が格段にかわいい)に、首が痛くなる。一七〇センチはある唯音先輩と額田先輩よりも高いんだもの。
「現役生に教えてもらったんだけれどね。立派な鯉が泳いでいて、ヌシと呼んでいるんだって。今年で三年生のはず……」
食いついてくれるか?
「三年!? トコもなんだな! ハっ! すみませんなんだな」
敬語、方言、どちらでもいい。あなたに訊ねたいんだ。
「夏祭華火ちゃん、って子なの。足が速かったなあ。学級、一緒だったりする?」
トコちゃんは、懸命にかぶりを振った。
「トコのクラスには、いないです。速いんですか、陸上部に入っでだら即戦力なんだな~。珍しい名前ですよね~!」
「そっか……」
トコちゃん―尼ヶ辻とこよちゃん、あなたは、華火ちゃんを「なっちゃん」って追っかけていたんだよ。
「元気出してくださいなんだな! そだ、トコも古池ついていっでい~ですか?」
「うん」
「おなかすかせでるかな? おからクッキー、エサの代わりになるかな? チョコは、食べらんないだよね。さっきの黒糖パン、残しとぎゃよがったんだな~」
なるほど、華火ちゃんが心を開くわけだ。天然の明るさというか、世間ずれしていないというか。成人しても変わらないでいてね。
古池には、私たちの他に人がいなかった。はるか昔、神社が据えられていたそうだが、祀られていた神はいづこへ移ったんだろうか。研究棟を越えた先の村雲神社は、雲の神だったか。鶏を使いにしている……ああ、シラクモノミコトだ。歴史学の先生が話されていたなあ、空満では、雲と水を信仰していたんだって。大学の地下に広がる遺跡に絵や偶像が発見されたことにより分かったんだとか。
「ヌシさん、現れないですね~。クッキーは食べないだか?」
池の上で、小袋を逆さにするとこよちゃん。振って出てくるのは、粉ばかりだった。
「明日、食パンか麩持っでくるんだな! えびせんは、いげるかな?」
海老で鯛ならぬ、鯉、ね。幼い頃、父方の祖父母とお寺へ参ったらいつも境内の小川で鯉にえさをやっていた。祖父に渡された物は、賞味期限が切れたちくわだった。よく考えたら、共食いじゃありませんか。
「ヌシに会いたいだよ。夏祭さんが目撃したんなら、トコだって見だい! んで、夏祭さんに競争しでもらうんだな。古池に通いつめでるんですよね? トコ、速い人といっぱい友達になって、いっぱい走りだいんだな」
「走るの、大好きなんだね」
とこよちゃんは、んだ! とうなずいた。
「走っでるとイキイキするんです。トコが走れば、世界も走っでるカンジ。動くわげないバス停、ベンチ、家、塀、なんでもびゅ~んっで線を描いてすれ違うんだな。槍投げもイキイキするけど、やっぱし走る方がすんげくトコだなっで思うんです。あんまし語彙多くなぐて、すみません」
「ううん、すごく伝わったよ」
文学とことばを勉強している身から言わせれば、語彙が豊かだとか、修辞が巧みであるとかよりも、心が重要なんだよ。とこよちゃんの気持ちは、私の耳だけじゃなく、胸の奥も震わせた。
「夏祭さんか~、何組にいるんだろ。前栽か平端は知っでるかな? なっちゃんっであだ名、ど~ですか? なんか、ちっちゃかわいいイメージがあるんだな」
「きっと受け入れてくれるよ」
華火ちゃんはね、日本文学課外研究部隊に加わって数週間後に、あなたの話をするんだよ。遊び相手が唯音先輩だけだった、あの子がね。そんなんじゃねえよ、って口をとがらせるけれど、日に日に増えていくんだ。お弁当のおかずをとりかえっこした、体育のリレーで同じチームになってぶっちぎりの勝ちだった、ヌシに干し芋をやったらあぶくがわいて腹筋が痛くなるくらい笑いあった、ってね。
「古池で待ってるんだな、なっちゃん」
春にしては熱い風が、学生服の襟と赤パーカーの紐を浮かせた。