第十七番歌:卯月には障りありけり(四)
四
「先日はありがとう、まゆみちゃんが幹事をしてくれたんだって?」
玫瑰色のスーツを召した老婦人が、ティーカップを片手にくつろいでいた。
「先生には大変お世話になりましたもの。せめてものお礼ですわ」
安達太良まゆみが菓子を勧める。
「美味しそうだね」
「宇治先生が焼いてくださったのです。マドレーヌ、棚無先生お好きでしょう」
「心得ているね、できた弟子だよ。貝には目が無いんさ。私の、魂の礎だからね。それにしても、宇治先生は多才だ。ごぼう抜きの足と、器用な手、繊細な舌。天は三物を授けたんだよ」
「おほほほ、後ほど本人に仰ってくださいませ。いみじく喜びますわ」
白いスーツが、窓越しの陽光に照って、まゆみをさらにまぶしくさせた。白と玫瑰の二色が、日本文学国語学科共同研究室に彩りを添える。
「いよいよ、決戦の時だ」
棚無和舟は、マドレーヌを割った。桜の柔らかで貴な香りが春を鼻に知らせる。
「あなた達がここまで懸命に漕いできたことは、よく分かっているよ。気負わず、侮らず、進みな」
「はい」
「ヒロインズを見ていると、なんだか、孫ができたように思えるんさ……。ありえたかもしれない未来だけれど、私の子が大きくなっていれば、実の孫に会えただろうね」
目をぱちくりさせる弟子に、和舟は紅く塗った唇をおもむろに上げた。
「まゆみちゃんには、初めて話すね。私には、娘と息子がいたんだよ」
和舟の旅路は、何十年も過去に遡る。
嫁いで半年だったね、娘がお腹にいることを知ったんさ。主人と狭い家の中、飛び上がって喜んだよ。まだ戌の日のお詣りもしていないのにさ、親になる準備の本、育児書、布団、服と下着、沐浴のたらい、哺乳瓶に粉ミルク、おもちゃ……なにしろ初めてだったんさ、生まれてくるのをとても楽しみに過ごしたよ。
予定日の朝に、娘が産声をあげた。ハッハ! そりゃあ痛かったよ、まゆみちゃんの好きなすいかどころじゃないね、骨盤に漬け物石さ! 痛みの間隔が短くなると、呼吸の方法をも忘れたぐらいだよ。灼熱の責め苦を受けるわ、極寒の責め苦を受けるわ、私は産院で命果てるんじゃないかとね。とにかく、母子共に健やか、栄養花丸のごはんを食べて、乳をやって、退院の日さ。
…………私は、その日、娘とお別れしなければならなくなったんだよ。暗い顔しないでいいんさ、生き別れだから。主人と車に乗って三人で帰るはずが、娘だけ義理の兄夫婦に連れて行かれたんだよ。しっかり抱いて取られまいようにしたさ、でも、産んだ後の体はぼろぼろでね、さらわれてしまった。主人もついていてくれたけれど、兄に負かされたんさ。義理の兄夫婦には、長いこと子どもができなかった。義理の姉さんがおかしくなりかけて、どうにかしなければと考えていた先に、私の出産があったんさ。まさに、渡りに舟だよ。
義理の家族は、私達の訴えを聞き入れてくれなかった。あちらをかわいがっていたからね……。会わせてもらえなかったけれど、元気でやっているようだったから、わずかな希望として毎日を送ったよ。そうだよ、航路を読めたのはこの時期だよ。主人が作ってくれたオオモモノハナガイのイヤリングに、萬葉の歌を込めて、子の旅路を辿る奇跡を起こしたんさ。
娘が一歳を迎えた年、息子が主人と私の元に来た。次こそは、離さない。と、決めたんだけれど……またあの二人に奪われたんだよ。当時はセキュリティなんて無縁だったからさ、退院前に新生児室に先回りされて、さよならだ。
「十月十日共にして、やっと世間に出してやって、いざ巣立つまで苦楽を教えんとしたら、別の海さ。義兄夫婦を千尋の底に沈めてしまいたかったよ」
さらりと言っているが、恨みを飼い慣らすのに相当の時間を要しただろう。まゆみは、素直な思いを申した。
「私には、子どもはおりませんが……想像はできますわ。それにしても、ひどいご親族ですわ。子宝に恵まれないからといって、人の子どもをさらうだなんて。罰が当たりますわよ」
「当たったんさ。家族もろとも」
主人が肉親と縁を切って、数ヶ月後だった。新聞に大きく取りあげられるほどの海難事故に、彼らははかない泡となった。
「さやうなことが…………!」
「娘は三歳、息子は二歳だったよ。学校に通えず、大人になれずに海へ逝ったんさ」
私は、私を呪った。人の航路を読めるくせに、行き先は変えられなかったんだよ。子ども達で舵を切ってもらわなければならなかったんさ。術「旅のやどり」の弱点だ。
「主人と学生がそばにいても、生きがいを失った私は、貝に隠りとこしえに閉じていたいと望んだよ。でもね、当時勤めていた大学の同僚の言葉に、まだ浮かんでいようと決めたんさ」
ご自身を「のろう」ために行使してはなりません。
これからは、後に生きんとする若人を「ことほぐ」ために、行使してください。
「まさか、同僚は……私の父ですか」
「ハッハ! 簡単だったかい! 安達太良先生にはお見通しだったんさ。まゆみちゃんの『射貫く眼』は、先生ゆずりだったんだね」
まゆみの父は、口数少ない人物だった。特に仕事について、あまり話さなかった。師匠と父が昔、一緒に働いていたとは。身近な人どうしが、自分がいない所でつながっている。この世は、驚きにあふれている。
「まゆみちゃん、ヒロインズをよろしく頼んだよ」
司令官は、勇あるまなざしでうなずいた。
「棚無先生も、どうか、お気をつけてくださいませ」
「さっき読ませてもらったが、まゆみちゃん、慎重に考えた結果、その路にしたのかい」
イヤリングにふれて、和舟が問う。
「ええ、安達太良まゆみなりの答えですわ」
「だんだん、安達太良先生に似てきたね」
「父は、独りで闘うことを選びました。私の器ではできかねますわ。私の闘い方は」
みなまで言わずとも、和舟は理解していた。まゆみも、あえて途中で切ったのだ。
「今日よりも明日、明日よりもずっと先。前向いてスマイルだよ、まゆみちゃん」
和舟に背中を叩かれると、身も心も引き締まる。間を乗り越えて、桜舞う校門をくぐろう。
まゆみは、杏仁豆腐をすくいつつ、昼間の出来事を回想していた。
「あ、さくらんぼ、もうないんだ」
「うちのあげるわ、ふみちゃん」
「白い寒天は、豆腐……ですか?」
「姉ちゃん、牛乳寒天だぞっ。見た目が豆腐っぽいから杏仁豆腐なんだよ」
「ゼラチンで固メるケースもありマスよ。家庭デハ、杏仁霜デ香リヅけしマスが、空スタは本格派ノ調理法デスねー」
いつか「学生時代は、何をしましたか」と訊ねられた際、彼女達は日本文学課外研究部隊での活動を語るのだろうか。そうしなくても、頭の片隅に残っていればありがたい。青春の思い出は、後々の財産になる。
「あらー、私ったら。歳をとったものね」
五人は、もう少ししたら社会へ羽ばたき、世界の枠組みを広げてゆくのだ。大成して彼女達が再び会う日に、私も混ぜてもらいたい。立派な姿をこの目に、収めよう。
「あなた達」
ふみか、唯音、華火、夕陽、萌子が揃ってまゆみの方を向いた。
「もうひと言、贈らせてちょうだい。いみじく験あるおまじないよ」
―餞詠・巻第二十・第四三四六番歌、
父母が 頭かきなで 幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつも―
乙女達の頭にそっとふれて、ひとりひとりに「真幸くあれ」と声をかける。この地の政を動かし、楯突く者を射落とした安達太良の呪いに「ことほぎ」の効果を足した、まゆみならではの術であった。
やっと、つかめてきましたわよ。お父様。
「真幸くあれ」
食事の済んだ鉢や皿をも温める言の葉が、まろやかな弥生の風に染みこんでいった。
〈次回予告〉
目を閉じていても、一日は始まる。
悪い夢を見ているような、暗い春。
ひとりが、こんなにも寂しく、つらいだなんて。
―次回、第十八番歌「弓引きて」
まぶしい笑顔に、白い装束。
いつでもあなたは、私たちのそばにいらっしゃった。