第十七番歌:卯月には障りありけり(二)
二
弥生二十九日、華火が唯音宅へ泊まりに訪れた。褒めるなら「モダン」で「洗練された」居間で、二人はミルクココアを飲んでいた。
「おもてなし、不十分、謝る……です」
「全然気にしてねえよ。叔父さん叔母さんは、東奔西走っ、常に忙しくしてんだろっ」
華火は、お茶受けのクッキーをかじった。戸棚に残されていたなけなしの菓子だったが、従姉妹は贅沢品にありつけたかのように嬉々として手にとってくれた。
「んで、伝志兄ちゃんは、未来の嫁と式場探しついでにデートってか」
「…………」
「あんで姉ちゃんが赤面してんだよ」
指摘されて、唯音がテーブルにたまたま置いてあった学術雑誌で顔を隠す。
「そんなにミズスマシってやつに関心あるのかよ」
「二和陀すみさん……です」
無表情で正されると、何も言い返せなくなる。華火は、まゆみとの掛け合いがなぜか恋しくてしかたなかった。
「二和陀さん、発想が、面白い……」
唯音が、三角柱のカップを持ち上げる。
「ココアは、テディベアの、涙だそう……です」
「おー、おう」
「甘えんぼう、だから、ミルクを、求める、とても、甘い…………」
浮世離れした女性のようだ。歌人をやっているから、思考がぶっ飛んでいるのか。
「うまく付き合えてるんだなっ」
唯音は二回、うなずいた。とても楽しいのだろう。
「……なあ、姉ちゃん。昨日、猪が言ってたやつなんだけど」
クッキーを食べ終えて、華火はおしぼりで指先をきれいにした。
「つまりよ、二度と会えねえってことだよな。母ちゃん、父ちゃん、じいちゃん、おめん一家、およう、庭師のおっちゃんら、昼間いてくれるおばちゃんら、とこよ、ひろこ、あたしが会ってる皆に」
「……ですね」
唯音の瞳が、わずかに揺らいだ。
「あたし、嘘ついちまうな。明日、元気におはようっ! つって入学式臨むかんな、ってよ。呉牛喘月させたくねえんだ。これまで散々、苦労かけたからよ」
「嘘も方便……です」
「……だよなっ」
華火は苦々しげに笑うと、唯音の隣の椅子まで走った。行儀よく座って、従姉妹の肩に頭を預ける。
「……こんな隠し事、あたし、耐えられねえよっ」
「華火さん……」
「打ち明けても、そーしなくても、聞いた側も、あたしもつらくなっちまう。世の中、理不尽スギだっての……!」
目をこすりはじめた華火の髪を、唯音は軽くなでてやった。姉貴分にできる最低限の行いだった。
「…………あたし、後悔しない道を、選びてえよ」
「どうする……ですか?」
華火の肩と足の震えが、止まった。
「たった今、決めた。あたしは」
待ち合わせの時刻より三時間早く、唯音は空満に着いた。自宅にいても、特にすることが無かった。商店街を淡々と歩き、行きつけの喫茶店に寄る。青い物を見て、荒ぶる心を抑えたかったので、バタフライピーの紅茶を注文した。店主に覚えられ、欲しいメニューの字に視線を向けただけで意向を汲み取ってもらえるようになれた。四年通いつめた甲斐があったものだ。
他の客が来ていないうちに、電話をかける。携帯電話を使わず、わざわざ店のダイヤル式を選んで。番号は、もう右の人差し指が自然に回してくれる。
「はいはい、額田です」
「きみえさん、私……です」
「あれあれ、唯音? てっきりマスターから忘れ物の連絡だと思っていたよ。何かあった?」
無二の友達に、惜しみなく胸の内を音にしよう。
ちょっと待っていて。シャツにアイロンかけていた途中だったからさ。着任式の準備? まだまだ! これ? 父のだよ。実家戻ったのをいいことに、母に家事をいっぱいやらされてさ。私の家、共働きでしょう、祖母もお小遣いかせぎに出ているし、姉は子ども生まれたばっかりだし。手が空いている人間は、私だけ、なの。
ごめん、ごめん。終わった。うんうん、もういけるよ。大事な話とは、何かな? まずは当てさせてくれる? チャンスは三回、オッケー? これかな、彼氏ができた! え、え、ハズレ? 恋愛方面にも春が来たのかなと期待していてさ。私? ああー、別れた。卒業式の一週間前に会ったんだけど、就職してそれぞれの人生を歩むから、幕を閉じよう? だって。めちゃ偉そうじゃない? たぶんね、むこうが地元に帰るから現地で女の子ハンティングするんじゃないかなと。でもさ、理由が「はあ?」でしょう。あなたの都合でくっつく離れるを決めないでもらえますか、ですよ。私、グーで顔面汚くしてやった。式? 見かけたけど、暗くなっていたよ。今さら悔やんでいるのかい! ますます価値下がったねー。縁切って正解だった。
資格取った! 違うの? 唯音は資格マニアだったよね。今年は船舶に挑戦するんだ? サークルの皆とクルージング! 私も連れて行ってよ。最後のチャンス! あさっての戦いについては? やったやった、当たった!! この間の寒稽古から少し経ってさ、気になっていたんだよね。うんうん。家にいるよ。あんまり意識しない方が、良さげかな。安心して、誰にも言いふらしていない。だから、気兼ねしないで「障り」をやっつけてね。
………………そう、なん、だ…………。百年、気が遠くなりそうだね。最悪の場合なんだよね? 絶対そうなるわけじゃないね。驚いているよ、驚かない人はいないでしょう。家の人には? 言いづらかったら、二和陀さんにだけでもさ。私には、伝えておきたかったんだ……。嬉しいけど、同じくらい、聞かなければよかったと思う。長い間、会えなくなるんだ、なんでよ、「障り」を恨みたくなるね。「障り」じゃなくて、戦ってくれとお願いしてきた神様に抗議しに行きたいよ。唯音達に負担かけすぎていませんか、とね。神様に力が戻っていたら、ヒロインズが戦わずにすんだわけじゃないか。皆の心が亡くなってしまうのがいやだ、神様に力をもらった以上使うべき時に使わなければならない……もう、もう! 本当、お人好しだね、唯音は! そういうところが素敵だけど、もう少し自分を大事にしてよ。
君達は、似た者同士だね。五人、年も性格も違うのに、困っている人がいたら見過ごせないのがさ。だから、「スーパーヒロイン」になれたんだよね。私も、君達のようだったら、一緒に「障り」をやっつけにいけたのかな……。無理かもね、私じゃ戦力にならないよ。どこかで諦めてしまいそう。うん……私は、学校の先生でいるよ。過ぎたことを求めても、身の丈に合わないだけ。私は、私にやれることを精いっぱいするよ。唯音、負けないでよ。
私は、百年経っても、君の友達だよ。百二十三歳……になるのか。長寿の記録超えられるかもね。お互い年取ったね、と笑い合いたいな。もしかすると、唯音は二十代のままで戻ってくるかもしれない……そうなったら、私を介助してよ。散歩と話し相手、頼むね。耳が遠くなっていたら、ごめんだけど根気よくしゃべりかけてやって……。私が先に朝を迎えられなくなったら、しばらく手をつないでいてくれる? 怖いんだ。もうその時は、何も感じないだろうけど、ひとりで消えてしまうのは、とても寂しいことなんだよ。忘れないでいる、か。唯音は、優しいね。戻ってきて、私が残念なことにお墓に納まっていたら、供養をお願いしようかな。菩提を弔う? いやいや、出家しなくても、たまにお掃除して、花かさつまいもか供えてくれたら御の字だからさ。紫の花にしてもらおうか。さつまいもは、年に二回は紫いもに……わがままだった? 化けてでも待っていたいけど、私は徳が高くないんだ。閻魔様に裁かれるのは確実だし。歌の文句を借りるなら、風として会いにいくよ。
まだそこにいる? 分かった、時間かかるけど向かうよ。家事していたら、パフェ食べたくなってきちゃった。ねえねえ、予祝としてさ、本朝いちご番付ボウルパフェに挑んでみない? もちろん後もお祝いするよ。その時は、唯音の好きな物、全部おごるから。どう、どう?
「マスター、電話代……です」
あらかじめ持参していたポチ袋に、紙幣を入れてカウンターへ突き出した。が、店主は遠慮した。
「なぜ……?」
「根の国において、お客様のお気遣いは不要にございます」
喫茶の名は「nation of root」。現し世での穢れを無にし、生まれ変われる憩い場である。
「紅茶のお代わりは、いかがでせうか」
唯音は数秒沈黙した後、澄んだ声で答えた。
「ください……です」
「百年後だか!?」「百年後、なのですか!?」
「前半ハモんなくてもいーだろが」
華火は拍子抜けして、ソファに深く腰かけた。
地元暮らしの華火は、まゆみと空満大学で落ち合って駅まで行くことになっていた。まゆみの仕事が済むまで、適当に校舎をぶらついていたら、尼ヶ辻とこよと宇治紘子にばったり会い、紘子の個人研究室に招かれていた。
「いいえ、重大なのですよ! 『大いなる障り』の情報は貴重です! ですけどけど、祓うのに百年かかるのですよね? なかなか手強い災いじゃないですか!」
四角い盆を抱えて、紘子があせりぎみにしゃべった。本日のおやつは、紘子が焼いたキウイのカップケーキだ。教壇に立つ時の漆黒のスーツではなく、ラベンダー色のワンピースなのが、新鮮である。
「難攻不落な相手でも、倒さねえと明日は来ねえんだってのっ。お、いただきますっ!」
フォークを握り、華火はてっぺんのキウイをつついた。
「トコもいただきますなんだな! 百年後っで、トコ、孫かひ孫ができてるのかな。できれば、なっちゃんに再会でぎるまで元気でいだいけど」
黄緑のアイシングに目をきらきらさせて、とこよが言った。
「四六時中走ってんだから、健康長寿っ、無病息災に決まってんだろよ。あたし、頭真っ白でしわだらけになるまで激闘繰り広げねえとならねえんだぞっ」
「頭の雪が、降り積もっていても、はなびちゃんはかわいらしいでしょうね!」
「んだ? 『障り』は寒い所へ逃げるんだか?」
本物の雪だと思い込んでいるとこよに、紘子は丁寧に丁寧を重ねた説明をした。
「古典には、オシャレな表現があるんだな~。そいえば、なっちゃんって、日文なんだね。体育学部に受かったんじゃながっだかな?」
「じいちゃんに推薦やらされたんだよ。あたしは文学勉強したかったから、一般入試で日文受けたんだ」
とこよは、鳥の巣のようなくせっ毛をかいた。
「なっちゃんと海原キャンパス通うの楽しみにしでたけど、文学部のなっちゃんもかっこいいんだな! 古典、得意だったもんね」
「他学科の方も、一部の日本文学国語学科専攻科目を受けられますよ! 私の『中世文学研究』は春と秋、火曜日の一時限目に開いていますから、時間割の都合がよろしければぜひ!」
「は~い!」
「なあ、あたしが履修登録するの前提になってねえかっ?」
紘子が、やけに突き出た胸を叩いてみせる。
「採点係の先生から伺いましたけど、国語の記述問題、しっかり書けていたそうですよね! 中世和歌の解釈が、にくらしいほど高得点つけたくなるほどの出来栄えだったと好評でしたよ!」
「マジかよ、減点覚悟で訳したんだけど、合ってたのかっ」
「古典文学のセンスがあるのですよ! 私としましては、中世文学を強くおすすめします!!」
「私利私欲っ、公私混同してねえか……?」
華火は若干、引いた表情をして、二個目のカップケーキをくずした。
「すんげえんだな、逆指名されでるんだな~」
「あのな、とこよ。選手選抜じゃねえんだよっ。まだ講義始まってもねえんだ、卒論のゼミどーなるか分からんし」
紘子が泣きそうになって、こちらを見つめてきた。
「はなびちゃん……私の指導に不満があるのですか……?」
「塞翁之馬っ、生きてたらどーなっか神様仏様はなび様でも予測できねえってこった! おい、てめえもつられてウルウルすんなっ!」
デカい女二人に迫られて、一六〇センチ未満の華火は妬ましそうにうなった。
「だーっ、あたしが学びたい分野は、あたしで決めさせろーっ!!」
とこよは、海原キャンパスで早速トレーニングがあるから、と先に退出した。陸上選手を志す彼女は、日々の練習を怠らないのだ。
「ひろこはよ、情報収集班なんだよな」
「はい、そうです!」
日本文学国語学科の専任教員七名は、「呪い」による騒ぎを対処する「裏の業務」があった。学科主任を筆頭に、あとの六人は「貝おほひ」なる二人組を作って仕事にあたる。「貝おほひ」は、戦闘部門・壱の壇、情報部門・弐の壇、護衛部門・参の壇で構成されていた。
「障りとは、あんまし直接戦ったりはしねえのか」
壱の壇は、まゆみとハゲ御門だったはず。まゆみが華火達と前線に出るため、空いた席は「宝船」だか「小鳥遊の舟」とかいうおばあちゃん教員が埋めるのだとまゆみから聞いていた。
「私は、安達太良先生のご実家で、空満の状況を確かめるのと、障りの分析、伝令係をします!」
「相方は、働いてくれるんだろな?」
紘子は、意志の強そうな眉を上げ下げした。
「真淵先生はですね……自由行動を許されていますから……! 主任命令ですからね、それほど時進先生に信頼されているのですよ! ですけどけど、私が本当にピンチになった際は、颯爽と現れてくださいますよ!?」
「ヘラヘラ仮面のやつ、とっつきにくいんだよな……うさんくさいっつーかよ」
「あんまり先生を、悪く言ってはいけません! 誤解されやすいですけど、人一倍、日本文学国語学科を想っている方なのですよ!」
華火は片手を丸めて、口をふさいだ。三秒数えるのを、うっかり忘れてしまった。
「……ごめん、なさい」
「以後気をつけてくだされば、私は怒りません!」
腕章のへこみをなおして、紘子は笑顔を送った。空満大学の教員がすべからく佩用すべき伝統である。臙脂の地に、金の糸で「文学部日本文学国語学科」と刺繍されていた。
「ひろこは、腕章で炎を出せたなっ」
輪廻腕章、呪いの具として用いる時の名称だ。六道の「奇跡」を実現させる寄物陳呪を行使する。
「炎の術を使う時、どんな心境なんだ? あたしの『祓』、火の属性だけどよ、揺らぎに気を取られちまって、風になるんだよなっ」
「どちらかといいますと、負の感情ですね……」
妙に落ち着きのある調子だったので、華火は背筋が寒くなった。ブラインドを下ろした紘子の横顔に、さらさらな髪がかかっていて、不安をかきたたせる。
「黒焦げ、灰……それではまだ足りません、残りかすまでも焼きつくさなければ、と思うのですよ。地獄道は、最初から上手に行使できたのです。私、正しく生きていない人に、並たいていではない憎悪を抱いていて、地獄や来世ではなくて、現世で制裁を受けていただかないと、改心できないと考えているのですよね。私が持つ『正しさの定規』は、普遍的なものではないのですけど」
「……なんとなく、分かる。こいつ、傍若無人だろっ、てぶっとばしたくなることあるかんな」
先に生きている紘子は、おそらくもっと極悪非道な人間を知っているだろう。完璧な共感は無理だけれど、全く理解できないわけじゃない。
「真淵先生にいつも注意されるのです。『怒りに支配された炎ほど醜いものは無い』。負の感情だけになった時は、威力が最大なのですよ、色もはっきり出ます。ですけどけど、その炎は失敗なのです。私の弱さが映されているのですよね」
髪を耳にかけて、紘子は痛々しく微笑した。
「はなびちゃんの炎は、私のと本質が異なるみたいですから、心配ないですね! 想像した火の先ではなく、末に、目を向けてみるのです! 勘が鋭いはなびちゃんでしたら、ぶっつけ本番でも炎を起こせます!!」
「いけるかな?」
紘子が腰を低くして、華火と目線を合わせる。
「実行するのです! 大勝負に出し惜しみして、いつ使うのですか!?」
臆病な華火がすっこみ、活発な華火が飛び出した。
「だよなっ!!」
二人はがっちり手を握り合った。
「やるだけ人事を尽くして、勝利をつかみ取るのですよ!」
「百年を百秒にして、二度と空満の敷居をまたげねえようにしてやらあっ!」




