第十七番歌:卯月には障りありけり(大和ふみか)
大和 ふみか
いはばしる 垂水の上の 早蕨の
萌えいづる春に なりにけるかも
(『萬葉集』巻第八・第一四一八番歌)
これは、志貴皇子が詠んだ、春の歌である。訳すると「岩に激しく当たって流れ落ちる滝のほとりに、蕨が芽を生やす春が訪れたのだなあ」だ。春の到来を、聴覚から視覚へと移して描いている。
安達太良まゆみ先生の、卯月第一回目の講義は、どれを取ってもこの和歌を紹介される。私は、おととし一回生の頃と、去年二回生に進級した頃に聞いたことがあった。まゆみ先生いわく、うららかな春、ときたら「いはばしる……」らしい。重なって習った学生がいるかもしれないけれど、文学は一度出会えばすべて理解できるものではないので、初心にかえって学んでほしい、と仰っていた。同じ和歌や文章を目にしても、時を経るとまた異なる印象を受けることもあるから、とも話されていたなあ。私は、先生のお考えに、同感している。何度でも出会い、いくつになっても胸を打たれるのが、文学なんだよ。
相変わらずおぼろげな記憶なんだけれど、二回生の春に受けた「上代文学研究A」で、まゆみ先生がよく分からない行動をとられていた。志貴皇子の和歌を黒板に書き、品詞分解をした後、だったはず。「垂水」の説明だったかな、終わって教卓の角に手をついて、研究棟に面した窓を見上げられたんだ。先生だって、外に目を向ける時がある。桜が満開ね、や、あらー素敵な夕焼け、って、場の雰囲気をなごませるんだよね。でも、その日は違った。窓から、紙ひこうきが入ってきたの。おかしいな、と私は思った。いや、他の人もだったんじゃない? だって、講義をやっていた教室は、二階だよ? 腕力に自信があっても、物理(空気抵抗とか、難しい計算をして距離をのばすんでしょ)に詳しくても、あんなに高くは飛ばせない。研究棟の屋上から、だとしても、風のせいで意のままにはならないし。とにかく不思議な紙ひこうきが、まゆみ先生の元へやって来た。
薄い紫色(気になって図書室で調べたら、藤色だった)の空を航る物に、先生は氷をとろけさせるような温かな笑顔で迎えた。
「ふふっ、春のおたよりが届いたみたいね」
なぜか、この言葉だけは覚えている。決して聞き流してはいけない気がしたからだ。いつか、もしものことがあった場合に、切り抜けられる鍵となりそうだった。
「ちょっとごめんなさいね」
講義を一旦止めて、先生はひこうきを平らに戻した。何か書いてあるそうで、切れ長の目を研ぎ澄ませ、素早く読まれた。
「そう…………そうなのね。ふうん……なるほど」
ゆっくりうなずいて、藤色の紙を三つ折りにされた。まゆみ先生は、教壇を下りて最前列真ん中の席まで、踵を鳴らして歩いてこられた。
「この世には、理屈では解き明かせられない『奇跡』があるのよ。ね、大和さん」
え……? あの、どうして私に。ウインクまでおまけされても、とまどうんですけど。ただただ固まるしかなかった私に、先生は快活な笑い声をたてていた。
安達太良まゆみ先生は、相当変わった人だ。そして、何の因果か、私は先生と浅からぬお付き合いをすることになる。
入学したての時は、ただの担任だった。最初、教室に来られたつるぴか頭のおじいちゃん先生がそうなのだと、半ばがっかりしていたけれど。新入生対象の面接で、日本文学国語学科を選んだ動機を聞かれて「本を読むのが好きだから」なんてありきたりな答えをしたら、まゆみ先生は「私も同じだったのよ」と輝く笑みをくださった。
二回生の秋、参加させられた学科公認サークルの顧問が先生だった。好んで着ることのない学園アイドル風の衣装を押しつけられて、運動場で和歌を叫ばされた。「日本文学の面白さを、広く発信する戦隊」って、なんじゃそりゃ。まあ、隊員が五人集まって、気楽に文学PR活動をしていますけど。
極めつけに、まゆみ先生は「特別な力」を宿して、また、「呪い」なる術を使いこなす「次期神様候補」ときたものだ。
「特別な力」とは、あらゆる物事を「引く」力。たとえば、商店街の福引きで特等を「引き」当てたり、待ち人を「引き」寄せたりできる。望みしだいでは時間を「引き」戻し、気に入らないものや人を「引き」ちぎれる危なっかしい異能だ。先生はしばらく力について自覚が無く、暴走させていた(止めてきたのは、私たち「日本文学課外研究部隊」なんだ)けれども、現在は世のため人のために使うと誓っているよ。
この世では叶えられそうにないことを実現させられる術、「呪い」。まゆみ先生はその中で威力が強い方に位置する「詠唱」を行使されている。和歌を口ずさみ、効果を発揮するんだ。他にも「詠唱」を継いできた一族があったが時代の移り変わりに伴い、不思議に対する信心が薄くなり、生き残った術士の家系は、先生のご実家・安達太良家のみとなった。安達太良家は『萬葉集』を扱っているそうだ。火焔を発し、疾風を走らせ、怒濤を起こす。いっそのこと、授業中居眠りしている人にチョーク投げじゃなくて和歌で成敗すればいいんじゃないか。先生は「いきなり術を行使して、周りを困らせたくないのよ」とのたまっているが。なお、講義では加減しているため、和歌を詠みあげても「詠唱」は発動しないのだとか。
スーパー准教授・安達太良まゆみの先祖は、弓と文学の神・アヅサユミだ。先生が「引く」力を宿すきっかけに関わっており、いろいろ伝説がある。最高位の「呪い」である「祓」で、人の心を枯らす「障り」から空満を守ってきた勇敢な神だったけれど、力を失い現在はほぼご隠居だ。二代目アヅサユミになりうる存在が、先生、なわけです。
アヅサユミに代わって、分割された「祓」を植えられた私たち五人の隊員が、役目を果たさないといけなくなったんだよね……。すさまじく責任が重いけれど、やれるのは私たちしかいないんだ。逃げずに立ち向かうよ。
ねえ、まゆみ先生。藤色の紙ひこうきに、どんな言葉が書いてあったんですか。それから、どんな「奇跡」が起こったのか、教えてほしいよ…………。