第二十番歌:新(あらた)しき日へ(安達太良まゆみ)
安達太良 まゆみ
垂水の歌説く、萬葉学者へ
そちらの桜は、盛りを過ぎた頃でしょうか。散りて枝を現した様も、あはれですね。せわしなくても、頬をなでる風の温もりや冷たさを感じ、袖に留まった花や葉に畏敬を抱いていたいものです。自然の移ろいは、今や不変だとは言いがたくなりました。一日、一日を宝として、積み重ねていかねばなりませんね。
さて、甚だ急なのですが、近いうちに、あなたは危うき目に遭います。その身を失い、魂はかろうじて残っていても、「在る」ことが周りに認められなくなるのです。しかし、気を落としてはいけません。いいえ、あなたはいつからか暗くなることをやめましたね。まだ、続いているようでしたら、おせっかいかもしれませんね。
あなたに、奇跡を託します。あなたが矢を射ってでも守りたい人々を助け、あなたをも助けるでしょう。
真幸くあれ
来し方の春より
教え子の字だった。でも、本当の差出人を私は知っていた。
「ふふっ、春のおたよりが届いたみたいね」
かわいかった。あなたは、他人に興味を持たない、他人と関わりたくない素ぶりをしているけれど、声をかけられると胸の内では万歳するのよね。大和ふみかさん。
春学期始めの講義では、必ずあの歌を取りあげる。父がしてきたから、が大きな理由だ。遺した講義ノート一冊目を開いたら、墨で麗しく和歌が書いてあった。
ただ狭い部屋で座って、黒板と教師に傾注するだけでは、「学ぶ」とはいえない。父は、志貴皇子の歌を通して、季節への喜びを教えたのではないだろうか。文学の専門的知識を叩き込む、単位を与えて卒業させる、そんなことは他の教員でもやってのけられる。父・安達太良弓弦にしか教えられなかったこと、私だからこそ教えられることがあるはずだ。
学生時代を思い返すと、先生が読んだり書いたりした教科書の内容よりも、授業から外れた話の方がするする出てくる。
「小学生の頃、運動会の練習後に足を洗っていると見慣れている足の形が、急に得体の知れない物に思えてぞっとした」
「学校の最寄り駅前の中華料理店に、永年予約席がある。円卓で、どういう客なのか、常連すら分からない。来たところを目撃したのは一度もないが、常にきれいにして、食器を並べてある。いつか店主に訊きたい」
私はもう、いい年だから、先生方の多くは、この世を去られた。それでも、お言葉は私の中で生きている。いつも頭にあるわけではないけれど、ふと浮かびあがってくるのだ。
いつか、教えてきた学生が迷い道にさしかかった時、叫びようのない悲しみにおかれた時、疲れ果てて歩けなくなった時に、私のどうでもいい話が一条の光になれば……ふふっ、欲深いかしらね。ちょっとでも良いの、学生の行く末を彩られたらな、と。
父は、志貴皇子の歌を解説した後、受講生をぞろぞろ連れてお花見に行ったそうだ。講義が十分、酒盛りが八十分。厳格で物言わずな先生が、この回だけは冗談好きなおやっさんに変わったという。主人から聞いた。教壇に立つ父を最前列で見てきたから、真だ。
「あったね。ヤング時代の朝食だろう? カツ丼または海鮮ちらし」
棚無先生が壮快に笑った。仁科唯音さんに肩揉みをさせて、障りに奪われた記憶が戻ったのだ。祓入りのマッサージは、いっそう凝りがほぐれただろう。血行も改善されて、ますます長寿になっていただきたい。
「お母様が作っていらしたのですか?」
「まさか! 真夏に吹雪が来るよ! お隣が蕎麦屋だったんさ。ねぼすけな母に代わって、おかみさんが届けてくれたんだよ。食べ盛りなんだからお代は出世払いだとね」
指先で頭をつついて、先生はウインクされた。歳を重ねても、チャーミングでいらっしゃる。私もそんな風に老いてゆけたら……。
「年月の流れは、速いね。まゆみちゃんが、教える立場になったんだからさ。『上代文学研究』でまゆみちゃん、高橋虫麻呂の長歌・反歌を発表したね。霍公鳥だった」
「お恥ずかしい限りですわ。巻第九・第一七五五番歌、第一七五六番歌。実の両親と祖母の元に産まれ育ち、不自由しなかった。ですが、血のつながりなき霍公鳥に共感を覚えましたの」
鳴き声は、父にも母にも似ず。当に然るべし。子は鶯の巣に産みつけられたのだから。
「自分とかけ離れた境遇に、憧れに近い興味を寄せるんだよ。私も、両親がいる中で、実はみなしごで拾われた子なんじゃないかと想像したさ。まゆみちゃん、それは幸せなことなんだよ。他の存在を思えるのは、心と時間に余裕があるからなんさ。余裕を作ってくれた周りの人達に、感謝しないとね」
私は、胸に両手を当てた。霍公鳥も、決して孤独ではなかった。共にえさを食んだ鶯の子ら、止まった橘、飛んだ夜の雨空、賂を贈るから去らないでと望んだ者…………過ぎた解釈だったか。
「人に添おうとしなかったまゆみちゃんが、すっかり丸くなったものだよ」
「おほほ、鉛筆の芯のごとく尖っておりましたわ」
折れやすい意地を張っていた。いつぶつかられるかおびえながら、キャンパスを肩で風切っていた。詠唱を継いだ私は特別、信心浅く術の「じゅ」の字が分からない人間は格下だと線を引いて。
「私が人を侮っていたんですもの。人に避けられ、侮られるのはもっともですわ」
「姿を映す水面のようなものだよ。好きだと思えば、そちらも好いてくれる。笑って、クラスメイトの輪に加わるようになったのは、土御門くんに宿題を出されてしばらくしてからだったね」
懐かしい、と仰って先生は椅子にかけたまま伸びをされた。
「講義プリントとは違う、『魂の宿題』……ハッハ、勝手に名付けたら本人がすねてしまうかい」
「巻三十一・真木柱で、しこたま突き上げられそうですわね」
私の担任だった土御門隆彬先生は、扇の寄物陳呪を行使する。王朝文学の傑作『源氏物語』に沿った五十四もの術を息をするようにかけていらした。
「『旅のやどり』で、もぐら叩きならぬ柱叩きでもしようか。私に波を起こそうなど、百年早いよ!」
背丈を越す櫂を意のままに振り回すご様子を思い描くと、声を漏らしてしまった。
「…………ところで、まゆみちゃん」
共同研究室に人気がまったく無くなったことを、目だけを動かして確かめ、先生は姿勢を正した。
「あなた、まゆみちゃんじゃないだろう」
先に謝るべきだった。棚無先生を結果的に欺く形をとったのだ。
「私の航路を、辿られましたのね」
対象の生い立ち・実体・次にとる行動などを把握できる寄物陳呪「旅のやどり」。櫂は、舟とゆかりがあり「人や物の航路を辿る奇跡」も実現させられる。先生がそこらの「女傑」とは違う所以がこの術だ。
「冒頭で勘づいたよ。まゆみちゃんを極めた路だ。術者の念がいかに深いか……良く持ち堪えたよ」
「ここにとにかく長く留まる、主に与えられた命ですもの」
仁科さんに席を外してもらって正解だった。彼女には、研究棟全域に祓を張り巡らすよう頼んでおいた。
「ヒロインズには、内緒にしてくださいますか。まだ解けてはなりませんの。際の際まで導く、それが主の望みなのですわ」
「もちろんさ。なんてったって、弟子の願いなんだよ。あなたを創り出した彼女の分もね」
どこにいらしても、先生は大海原のごとき広い懐をお持ちだわ。いみじく貴き師に巡り逢いましたね、わが主よ。
「ヒロインズには、荒波を掻いてもらうよ。障りを退けるには、少し痛みを受けないとならないんさ」
先生は腰を上げられた。二十数年ぶりでも、しゃっきりした身のこなしだ。
「私が、澪標となりますわ」
「頼もしい!」
私も立ち、隣について歩く。ヒロインズの、ヒロインズに結びついた人々の、笑顔を途絶えさせぬため、先を急ごう。
よろしいのですよね、わが主。
ええ、お願いね。私の―餞詠。




