第十八番歌:弓引きて(四)
四
まったくもって、悔しすぎる。はりきって「サバ味噌定食」と割烹着のおばさんに頼んだものの、売り切れだと言われて撃沈した。列がつっかえっては、より目立つので、あまり売れていなさそうな「玉子丼」にした。小鉢と味噌汁付きで三二〇円也。小鉢は選べるとのことで、ひじきにした。花束よりもひじきをくれる男の人なら、まだ信用できるね。
「二週に一回なら、悪くないかも」
箸を割って、丼をいただく。卵、玉ねぎ、のり、揚げ玉ね、私でも作れるんじゃないか? 味つけは、だしと醤油と砂糖またはみりんをかければ、それっぽくなるでしょ。
「質素な献立だね。若いんだから、もっとがっついていきな」
海老天がお盆に割り込んできた。外での昼に、揚げ物はちょっとしんどいんですけど。
「私のおごりだよ! ここの天ぷらはやみつきになるよ」
ふくよかな嫗が隣に「よいさ!」と座った。さっぱりと整った白髪、いやでも印象に残る玫瑰色のスーツ、貝殻の耳飾りが老いを感じさせない。
「私は、棚無和舟! 『萬葉集』を教えているんさ。あなたが、真淵くんにつかまったふみかちゃんかい」
「は、はあ……」
「ハッハ! 別に取ってむしゃむしゃ食べたりはしないよ。山姥じゃないんだ、海姥とは呼ばれているけれどもさ」
上代ゼミの先生だ。でも、本当にこの人だったかな。わりと若いご婦人だったような。
「ヤングは頭と体をフル活用するんだよ、たらふく食べな。もうすぐ傘寿の私でさえ、海鮮かき揚げ丼とおかずは豚の角煮だよ」
角煮まで乗せようとするのを、寸前でお断りした。隠れ肥満に不安を抱えているんですから。
「祓を宿した手練れが、きよげなるお嬢ちゃんだったとはね。空大はどう? たいそう鄙びているだろう?」
紅をさしてくっきりした唇が、かき揚げをはさんだ。
「さ、騒がしくなくて、学問に専念しやすい場だと思います。まだ行ってないけれど、大きな図書館もあるし」
通って三年目を迎えるはずだった私の、素直な感想を述べた。
「本を……読むのが好きなので、この大学で四年学べる人たちがうらやましいなあって」
「ありがたいよ、空大を誉めてくれる若人がいてくれて。かつて、ふみかちゃんみたいな読書家を教えていたんだよ。名前は忘れたが、懐かしいね……」
ひじきの前に、海老天を食べてみる。軽い! 衣に脂っこさが全然ない。何尾でもいけるよ。海老は弾力があって噛むたびにほどほどの塩気がくる。
「講義、聴いていくかい? 来週始まるんだよ、月曜の午後一時きっかり、『上代文学研究C』」
まあ、空いていたら出席しようかな……いや、早く皆を探さなきゃ。私みたいに学内をさまよっているかもしれない。
「聴講するのやったら、わたしの『中古文学研究C』にしなはれ。『伊勢物語』、『大和物語』、王朝の文学を広く読めますぞ」
棚無先生の向かいに、高貴で光輝なつるつる頭の翁が腰を下ろした。上着は檜皮色の千鳥格子、ネクタイは赤、とかなり主張する取り合わせだ。
「年の割にカロリー高くないかや? 万病のもとですぞ、おぶね先生や」
翁のお昼ご飯は、月見うどんだ。
「おふね、だよ。濁らせるんじゃないよ、土御門くん」
「ふぉっふぉっふぉっ、和歌では『たななしおぶね』と読むのや。『お』は小川の『小』やがな」
豪快に笑い、翁・土御門先生は音立てて扇を広げた。真ん中に大きく水茎で「雅」と書いてある。状況によったら「邪」に見えてくることも。
「研究室にインスタント麺を溜め込んで、よく言うよ。おつゆも残さないんだろう? 塩分摂りすぎだよ、だからおなかが引っ込まないんさ」
「家内の料理に難があるさかい、弁当を持っとらんのや。さ、をサンバルソースかサウザンアイランドソースやと信じて疑わへん」
しすせそ、も壊滅的だろうね。
「懐が狭いんだよ、土御門くん。伴侶のご飯は皿ごと味わいな! 奥様のおもてなしは素晴らしかったよ、たけのことブロッコリーのワーテルゾーイ」
翁は、すすっていたうどんを危うくのどにつめかけた。
「そちの舌は石なのかや!? たけのこを皮むかんと鍋に突き刺しただけですぞ。ブロッコリーかてもはや植林や。煮込んどる痕跡なぞあらへんで」
そもそも、どこの国の料理なんだ? 横文字にはめっぽう弱いもので候。
「ふん、せいぜい胃もたれせえへんやうきばりなされ。『私は天ぷらが好き』の宣伝に出演できますな」
嫌味を言えて満足した土御門先生は、玉子にかじりついた。
「カレーライス、青垣山盛り」
翁と嫗が目を点にした。うどんを召し上がっているのに、どうしてカレーって言葉が出たんだろう。私ってば、おかしいよ。
「……なんて、食堂の献立にあるわけないですよね」
滞った場が、怖い。どうにか戻さなきゃ、無い頭で考える。
「あったんじゃないのかい」
棚無先生が、土御門先生に訊く。
「特盛の上があるっちゅうのは、小耳に挟んだことがありますかな」
雅な扇を畳み、広げ、を繰り返しながら、土御門先生はあごひげをなでる。
「カレーライスかの……わたしにはちと、刺激が強うて注文しませんな。遊びに負けて、やったら話は別や」
「仕事そっちのけで、投扇興や蹴鞠、絵合に源氏香など遊び呆けているんさ」
棚無先生が耳打ちした。
「人を怠けとるやうに言いよって。激務の合間を縫うて息抜きしとるのや。時さんに訊ねてみなされ、わたしの働きぶりを証明してくれますぞ」
味噌汁を召し上がる棚無先生。うん、あれは聞こえないふりだね。便乗して(?)私も。油揚げと甘藍だ、春は柔らかめのが出回るよね。
「して、大和や」
鉢を空けた土御門先生は、上着の胸ポケットに指を差し入れた。正方形の薄い木板を七枚、卓に並べる。
「矢印、銀杏型、楕円、スペード、十字、四角、音符。ESPカードかい?」
棚無先生が匙を曲げるしぐさをした。どちらかといったら、力技なんじゃないの?
「透視をさせるんやないわ。そちの運命の人を占うたる。鑑定料は要らん、ありがたく思うのやな」
「運命の人だって? 土御門くん、たまには粋なはからいをするじゃないか。乙女のツボを心得ているね」
うきうきされているところ、恐れ入りますが、私はあんまり……。生年月日とか星座、画数で未来をのぞこうなんて、怪しくないですか。
「なにも異性とは限りませんぞ。ラッキーパーソンや。ほれ、わたしが合図したら直感でこれやっちゅう札をめくりなされ」
翁は木の札を裏返しかき混ぜて、まとめて切り、並べた。
「選びなされ」
祓で「読み」取っては、占いの意味をなさない。我ながらひねくれている。当て物なんだから、気楽にいこう。よし、
「じゃあ、これで」
「めくってみなはれ」
…………矢印だった。
「土御門くん? どうしたんさ、難破船みたいな顔つきだよ」
「長く世を渡っとって、それを引き当てたのは初めてや……」
なんの変哲もない矢印なんだけれども。
「この札はな、千年前に高麗の占い師が我が家に託した物なのや。微量やが、占い師の呪いが残っとる。行使者の魂が尽きぬ限り解けへん、体はとうに亡びとるんやがな。占い師にとってまずいのか、矢印は取らさへん」
「あんまり良くない札なんですか……?」
「考えようによったら、大凶にも大吉にもなるちゅうこっちゃ。矢は進むばかりや、そちの望む方向にな。そちを引っぱる人物が近いうちに現れるやろ」
望んだ方向に「引く」……手首が締め付けられるように痛んだ。
「大和は、行く末をどないしたいのや? すぐに答えられる質問やなうて、堪忍」
「それは」
悪くしようと思う人はいないでしょ。仲間に会いたい。額田先輩、とこよちゃん、島崎くん、日文の先生たちの記憶を戻したい。
「ふみかちゃん」
棚無先生が、私の両肩に手を置いた。
「潮が速くなりつつあるけれど、焦っては呑まれるよ。あなただけが進める路を、じっくり見極めな。負けないことだよ」
先生のまなざしは、熱かった。私に希望をかけているようだ。
「行ってきます」
「良い船旅を!」「矢印の君に、よろしう」
矢、とくれば弓道だ。国原キャンパスに練習場はあったかな? 厩舎なら、秋津館よりさらに遠くだが。運動部関連の施設は、海原キャンパスに固まっていたんじゃないだろうか。
「弓道部に仲の良い人、いないんだよなあ」
顔が広ければ、苦労しないんだけれどね。うーん、矢印……指し示す、標識……工事現場の誘導するおじさんおばさん、は違うな。
「まったくもって難しい問題だよ……うわっ」
みっともなく尻もちをついてしまった。誰かとぶつかったんだ。あいたた、不注意だったのが悪い。でも、そっちだって……!
「すみませんでした、おけがはありませんか?」
むくれていて、恥ずかしくなった。手を差し伸べてくれた人が、空満図書館の司書だったから。
「せ、誠五さん」
通い詰めている私に、資料の探し方を教えてくれた。日文の卒業生で、最近の講義は何をしているか訊いてきた。本の貸し借りをして感想を語り合ったり、家での出来事を話したりした。蔵書があまりにも多すぎてお父さんの部屋の床が沈んできたんですよね、四番目のお兄さんが拾った植木鉢にきのこが生えたそうでびっくりしたんですよね。
「以前、お会いしましたか。申し訳ございません、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
そっか、誠五さんも私のことを…………。うつむいたまま大きな手を取ろうとしたら、すり抜けた。
「あ、え……」
叫びたい時に限って、声を出せない。私の指が、手のひらが、腕が、肩が、透き通っていた。
「僕は、なぜこのような所でかがんでいるんでしょうか?」
私を起こそうとしてくれたんだよ。ぼうっとしていて当たってきた私なんかを。行かないで、誠五さん! ここにいるの、私は!
も、ろ、さ、を、あ、ら、わ、に、し、た、な、大、和、ふ、み、か。
「あなたは……、校門の……!」
私を捕えようとしてきた、嫌なもの!
こ、れ、で、ご、に、ん、も、の、が、た、り、は、お、し、ま、い、だ。
「皆を消したのは、あなただったんだ…………ひい」
足も、膝も、体中が透けてゆく! 消えたら、どうなるの? 私たちがいたことを、誰の心にも刻まれないまま、無になるの?
さ、ら、ば、ス、ー、パ、ー、ヒ、ロ、イ、ン、ズ!
今までなら、負けてなるものか!! と自分を奮い立たせてきた。どうしてだろう、突然、何もかもが失われて、這い上がろうにも、体が無くて、できない。夕陽ちゃん、唯音先輩、華火ちゃん、萌子ちゃんでさえ敗れたんだ、私が敵うわけ―
【―真幸くあれ!】
穢れなき始まりの色が、おぞましいものを遠ざけた。削れた私の五体が、組み直されていく。
「なんとか、消されずにすんだ……」
【やうやく術が効いたわ。間一髪だった】
手首が白き光にくくられた。孤独の冷たさが、吹き飛ぶ。
「もしかして、あなたが運命の人?」
A・B号棟に「引い」てくれた光に、呼びかける。
【ふふっ、土御門先生の占いね】
伸びた光の先に、銀の弓矢が浮かんでいた。武器にしては小さすぎるそれを基点に、人の形が描かれた。
「このペンダントが、あなたに矢印を引かせたのね。私もあなたも、周りにいつも支えられているのよ」
形は貴き婦人となった。切り揃えられた短髪、白いスーツ、足首に紐が付いた白いハイヒール、どこをとってもこの世のものとは思えないまぶしさだった。
「大和さん、あなたにはまだ残っているはずよ。私が何者なのか」
「!!」
ひが事じゃなかったんだ。日本文学課外研究部隊を発足させた顧問、日本文学国語学科の二回生担任、上代文学の講義とゼミを担当された、われらが司令官!
「正解よ! 私の名前は―」




