第十八番歌:弓引きて(三)
三
ヌシの姿は拝めなかった。華火ちゃんもいれば、口かひげでも見られたかもしれない。
「唯音先輩、華火ちゃんが忘れられているってことは……」
黄色いリボンを結んだ波うつ栗毛と、長くてつややかな黒髪が脳裏をよぎる。学籍番号がごっそり抜けていたんだ、ほぼ間違いないだろう。はずれていてほしいけれども。
「あなたですね。学内に雑音を発生させた張本人は」
背後で声がしたかと首を回そうとすれば、真ん前に来ている。忍者なのか超能力者なのか、はたまた妖怪か。まあ、八十歳越すまで長生きしたら妖怪と認めてあげよう。とにかく怪しい男性は、これでも日文の教師であった。
「真淵先生ですよね」
「はい、いかにも僕は真淵でございますよ。親の仇のようににらみつけられても、困りますねえ。厳密に言うのでしたら、友の仇、でしょうか」
にこにこしないで。一周回って不気味なんですけど。あと、思っていることをばらさないでください。正直、嫌いなんですよ。
「クス、クス。構いませんよ、むしろはっきりと態度に示してくださってありがたいです。言葉と表情が食い違う方はそれなりに興味深いですが、僕としたことが飽きてきまして更なる刺激を求めていたのです。都合良くあなたにお会いできて光栄の至りでございます」
いや、絶対光栄になんか思ってないでしょ。
「私が雑音?」
真淵先生は、笑みを深くした。ワイシャツの襟すぐ下に留めているブローチが蒼く輝く。
「おやおや、意識されていなかったようですねえ。僕が共同業務をしなければならないお方でさえ、察知しておりましたよ。四回生のオリエンテーションにいらしていたのでしょう?」
「そっか、宇治先生か」
「規律を非常に重んじるあのお方が、あなたの出席を許したのです。それなりの理由があって、ですよ。額田さんに免じて、ではございません」
私を監視していたんだね。日文の先生たちには「裏の業務」があるんだった。
「お考えの通りですが、お調べしたところ、術を行使されてはいない模様……。呪いがかかっているのでしょうか」
この世に奇跡を起こす「呪い」を悪用したり暴走させたりする者をつかまえ、二度と行使できないよう封じる。講義と論文の執筆だけじゃないのだ。宗教学科と歴史文化学科と交替していたのだが、それぞれ空満神道本部との連携、大学周辺の遺跡発掘調査で忙しいと主張するので日本文学国語学科がやらざるをえなくなった。
「呪いをかけられる暇はないです。私は夕陽ちゃんたちと戦いにいくんです。あれ? 相手は何だっけ」
「記憶に数か所、穴があるとお見受けします。あいにく、修復は書物の虫食いならできますが」
わざと「夕陽ちゃん」を出したのに、関心を持たなかった。
「夕陽さん、ですか? 似ているお名前の方は存じておりますよ。ご結婚されて、本居に姓が変わりました。彼女も、本居なのですか……宣長と賀茂真淵のような邂逅ではありませんねえ……。血縁関係の方でしたら、皮肉なものです」
本人に聞かせてやりたい。にやにや国語学のえせお兄さん(四十過ぎだって噂があるんだ!)が、夕陽ちゃんをあんまり気にしていなかったのだと。こんなおじさんにお熱を上げてちゃ、破滅へまっしぐらだよ。夕陽ちゃんには真摯な紳士(掛詞をねらったわけではない)がふさわしいんだから。
「他人に無関心なようにみえまして、友情に厚いのですね。意外でしたよ」
「前はそうでしたけれどもね」
真淵先生は、ずっと細めていた目を開けた。はい、はい、私はだまされませんよ。
「女性を虜にする技術は、持ち合わせておりませんからご安心を。色恋に関しまして、近松先生の右に出る方は、到底いないでしょうねえ」
う、やめてよ胃もたれするじゃないか。玉座に腰かけて年齢層、国籍さまざまな美女(醜女をも愛するだろうが)をはべらせている近松先生の図が頭から離れない。
「雑談はここまでにしましょう。主任の時進先生に会っていただきます。拒まれるようでしたら、荒事になりますことをご了承ください」
先生の両手に金糸雀色の光が流れ出している。力づくで要求をのませる気満々ではありませんか。
「抵抗しないので、呪いを解いてください」
「ご理解いただけてたいへん助かります」
光を散らして、先生はズボンの後ろポケットより本を抜いてきた。細長い一冊に「お願い致します」と声をかけると、
「寄物陳呪・『空満神道かぐらことば』、本を【見る】態度」
穏やかな「呪い」行使の文句が聞こえた。風のしわざみたいに頁がめくられ、ちょうど半分のあたりで止まると、紙面に黒々した七三分けのおじいさんが映った。時進先生だ。先生の左には、たくましい体格の精悍な顔をしたおじさん・近松先生、右には、巻き毛を束ねた妖艶なご婦人・森先生が控えていた。
「お疲れ様でした、真淵先生。そして、大和ふみかさん、驚かせてしまい申し訳ございません」
時進先生の老眼鏡と表情が、くもる。
「学内に呪いの気配がしましたので、私達が動かざるをえなかったんです」
「私が行使できるのは、これですが」
「読」の祓を、人差し指の先に渦巻かせた。
「最も威力の高い呪い、祓ですか。私が感じ取ったものとは違います」
額に汗が浮かんできた時進先生を、森先生が介抱する。
「世話をかけます……。それにしても、妙です。大和ふみかさんから生じていたものが、無くなっています」
「他に行使者がいて、こちらのお嬢さんを囮にしたのかね? 卑怯だよ」
近松先生、私に色気を振りまかないでもらえますか。お縄にかかりたいなら別だけれど。
「その場合も考えられます」
「時進先生、こちらの方を別室へ案内致しますか?」
疑わしいから、動き回らせないようにしたいっていうの? 真淵先生。
「しばらくは様子を見ます。壱の壇の報告を待ちますので」
華火ちゃんが言った通り、壱から参までの組で行動しているんだ。
「大和ふみかさん、私からひとつお願いです。次に真淵先生が来られるまで、学内に留まっていてください。何かあれば、I号棟へ。書架に納めてある本でしたらどれでも構いません、一冊開いて私を呼んでください」
「分かりました」
本を介して通信する、本を【見る】態度か。時進先生らしい呪いだね。日頃、枕や鈍器になる辞典または事典を持ち歩いているもの。
「時進先生のおかげで命拾いしましたね」
余計なひと言はいらないよ、真淵先生。どうして学生受けするんだろうか。しゃべりすぎる馬鹿丁寧なニタニタおじさんだよ? 必修科目じゃなかったら受講の登録しないね。
「日文にいらしたのですか? まったく覚えがございませんが。そらみつ やまと、文学部に入るべくして入られたようなお名前ですねえ」
きたよ、名前いじり。萌子ちゃんがそれされて、迷惑していたんですよ。
「お訊ねしますが、あなたは何者なのです? あなたの世界と僕の世界とに、異なる点がいくつかみられます。祓は空間を渡れるのでしょうか?」
「わ、私に訊かれても」
最近使いこなせるようになったばかりだし。陣堂女子大学で教師を務めているなゆみさんに鍛えられたんだ。名字は、忘れた。教えられていないのかもしれない。なゆみさん、で特訓に支障は出なかったから。
「後ほど伺いますから、校舎めぐりでもされてはいかがです? 暇を持て余していらっしゃるでしょうし。星の瞬く空や、さざなみかすかな岸辺はございませんが。これは笑い所ですよ」
そよぐ葉の裏はあるとして、月はまだ見えていないものなあ。西国の民謡だよね、『世界の歌アルバム』を年末年始に読んでいて助かった。
「適当に歩いてみます」
「どうぞ、ごゆっくり」
本を閉じて、真淵先生はブローチを二、三回つつき一瞬にして消えた。
せっかくだから、あんまり行かない所を訪ねよう。理学部関連の教室や、座席が段になっているいかにも大学っぽい講義室があるC号棟を過ぎて、第一体育館に下りる。二番目に建てられたのだが、こちらの方が大きくて行事と講義にしょっちゅう開けるので「第一」に昇格した。旧体育館、つまり第二体育館は部活動にときどき使われている。
第一体育館前の広場を、学生たちがぞろぞろ通っていた。財布を片手に、ジャージなどのくずした格好で皆同じ方向へ歩いている。スーツも数名いた。たぶん寮で暮らす新入生だね。
「秋津館…………あ」
もう昼ごはん時か。こうも目まぐるしいと、時間が経つのがあっという間だ。私、朝食べてきたよね? 起きたらいきなり校門だった。登校までの支度をいちいち意識してやらないよ。
「とりあえず、食堂寄るか」
普段は購買部で三百円以内におさえてすましてきたが、たまには贅沢しちゃおう。奨学金を返すためだけにアルバイトを頑張っているわけじゃない。
秋津館のそばで、青年がスケッチブックを両手に放心していた。
「あの、大丈夫?」
新品のスーツを着た彼は、頼りなさそうに頭を上げた。
「すみませんであります。あと少ししましたら退去するでありますから……」
「マキシマムザハートを描いたの?」
青年の頬が、じわじわ紅潮した。
「ハートだと分かってくださって、恐縮であります」
「とてもうまいよ。必殺技のポーズでしょ。天恵聖物の麗しのカムパネルラとか、今にも光りだしそう」
趣味の範囲を超えている。新人賞に挑んでみてはいかがだろう。
「小生はイラストレーター志望では無いでありますよ。ただ永遠のヒロインを描きたい、それだけであります」
「美術学科に入ったのかと思っていたよ」
青年は全身を以て否定した。
「とんでもないであります! 小生、日本文学国語学科であります。伝教師を目指しながら文章表現を磨きたく、空満を選んだのであります」
うん、萌子ちゃんがいろいろ教えてくれたよ。大教会の子息で、ラジオ劇を聞き取って文字に起こして三年目、なんだよね。
「永遠のヒロイン、素敵だね。ハートのどういうところが好きなの?」
「強いて申すなら、いかなる敵に対してもまっすぐに、本気で、手抜きせず愛を与えるところであります」
青年は眼鏡のレンズを上着の裾で掃除した。それからスケッチブックのヒロインに触れる。
「架空の人物であるのだと、解っているのでありますが、心の片隅では欲しているのであります。どうぞ一笑に付してくださいであります」
「いつか、現れるよ」
「え?」
限りある命を持つ大学生だけれど、あなたの「永遠のヒロイン」は近くにいるよ。アニメ「絶対天使 ☆ マキシマムザハート」の話題で盛り上がるんだ。萌子ちゃんをよろしくね、島崎戒くん。




