7.誘拐犯との邂逅
クロエ・モーリアは、奇妙な子供だった。
魔術の才を抜きにしても、平凡からはほど遠かった。父を困惑させたのは、森閑と鎮まりかえる瞳であり、母を震え上がらせたのは、忽然と姿を消す不可思議な現象だった。目を離した束の間、ほんの瞬きの隙、腕の中にいてさえも。――突如として、音もなく、消え失せる。そしてまた突然に、変わらぬ様子でそこにいる。
そんなことが、5歳の夏まで続いたという。おそらく、その最後の日だ。夢うつつで、会話を聞いた。幼いクロエはくたくたで、どうやらベッドにいるらしい。嗚咽は母のものらしく、慰める父は憔悴している。
「とても耐えられません。今度という今度は…」わななき、途切れ、苦労して絞り出す声。「3日ですよ。3日も、いなくなったままなんて…そんなの。とても…あんまりです…」
「父上、もうお手上げです。出来限りのことをしたつもりです。これ以上、どんな手を打てば…」
それがまったくつまらなくて、クロエは呆れ果てていた。不思議でもあった。何をそれほど騒ぐのだろう。どうしてそれほど騒ぐのだろう。
――いや実に面白い!
場違いな溌剌。楽し気な笑い声。きらめきが、さっと意識を満たす。心象の色を、一変させた。上下左右、質量すらない広がりのただ中で、ふいにそこが、深い水底と知れた。両親は怒っている。クロエは求めた。
「そう心配するなよ。大丈夫だ。問題ない。というか、こいつにとっての問題なんて、起きようがないだろう。もし問題があるとすれば、それは、俺たちが思うような幸福を、こいつに教えてやって、その機会を与えてやれるかってことだな」
鼓動する白い光があった。クロエは手を伸ばす。眩いハレーションに取り巻かれる。いっとき、完全な空白が生まれる。
「俺が連れてるやつのこと、知ってんだろう? 手を貸してくれるらしいぜ。だから安心しろよ。それに…ほら見ろ。クロエだって、もう起きてんじゃねえか。…ん?」
ほとんど狂乱の体の両親と、落ち着き払いされるがままのクロエ。その小さな腕の中には、真っ白な子狐がおり、窒息しかけて泡を吹いていた。
すっかり忘れていた。忘れたことさえ忘れていた。
あの時と同じように、深くたゆたい、波間の光を見上げて、そんなことを思う。ただしそれは、すべてを塗り込める苛烈な輝きではない。もっと静謐で、狂おしくて、冷たいものだ。吐息が震えた。鼓動は胸にある。あれは、とても――。
「きれいだ」
聞きなれない声。そういえば誘拐されていたな、と思い出す。状況を把握すべく、そのまま耳を傾けた。
「…あ、いえ。そうではありません! アラン、あなたは一体、なんということを…」押し殺した声音は、絶望に潤んでいた。「かくなる上は、精霊様のお慈悲に縋る他ありません!」
錯乱気味に続く祝詞。その見事なことに、意表を突かれた。聖職者の祝詞、魔術師の詠唱、どちらも同じ、精霊言語だ。クロエはおおいに興味をひかれ、薄目を開けて覗き見た。聖水を振り乱す、若い男性がいた。そっと目を閉じた。
「でもノア君、きれいだって言ったじゃン。ほら、連れてきテ良かったデでしょう?」
「はあ…うう、そういうことではないんですよ…」
「じゃアどういうコト?」
「どういうって、人を誘拐したらいけませんって、習わなかったのですか…」
「そんナ常識、わザわざ教わるもんじゃナイでしょう」
「…では、あなたがしたことはなんですか」
「だから精霊様のオボシメシだよ、ねエ?」
迷いなく問いかけられたので、クロエはばちりと両目を開けた。「それ、同意した覚えはないんだけど」
「そうダっけ? まア細かいことはいいよ。どんナ名前で呼んだって、起きたことハ一緒だし?」
「そうだけど、あんたが言うの?」
「いいじゃン、言っても」
二人はしばし見つめ合った。クロエは重々しく頷く。「許す」
「聞いタ? 彼女、ノア君よりよっぽド物分かりがいいよ」とにやにやしているのは、間違いなく、クロエを連れて来た張本人だ。少々やせてはいるが、上背があり、背筋はしなやかで、身のこなしに張りがある。女王の膝に寝そべり、怪しく笑う猫のようだ。
相対する人物は、潔いくらいに頼り甲斐がない。怯えた顔をして、身をすくませ、後ずさる。見事な三拍子をそろえた上で、味方の影に収まろうとしている。
だが、クロエの注意を引いたのは、別のことだった。クロエはとっさに、この二人のことを、おぞましいほどに似ている、と、そう思ったのだ。どうしてそんなことを考えたものか。二人は全く違っていた。似ているところなど、ただの一つもなかった。――いや。
揺れる、紫色の瞳があった。魅入られそうに澄んでいた。けぶるほどに濃密だ。二対の瞳が、闇に浮く獣の双眸のように、強烈な印象を与えた。堪えきれず、震える。息を飲む。
「この度のご無礼、本当に申し訳ございませんでした…!」
唐突な土下座により、幻想は砕けた。
その衝撃に、茫然とする。
クロエが長いこと黙っていると、見かねたらしい咳払いが聞こえた。「えェと。ごめんネ。こんナでもうちの王様だからさ、あんまリ長いこと床トお友達にさせとくわけには…アア、そうだ。挨拶がまダだったね! こちらノ蛙の眷属はノア・バルティルス。我がグーサノイドの国王陛下にアラセラレマス。21歳、独身、婚約者なし。なかなか優良物件だト思うな! ボクは従弟のアラン・バルティルス。よろシくね!」
さすがのクロエも、事態を受け止めきれなかった。ベッドの上で姿勢を正し、首をかしげたまま応じる。
「お目にかかれて大変光栄です…? 私はクロエ・モーリア。魔術師協会、聖サティリス王国支部所属。第五位高位魔術師で『特異者』。こっちはポーだよ」
子狐は足元に丸くなっていた。よろしく、と前足を上げる。驚かないところを見ると、クロエが眠っている間に、顔合わせを済ませたようだ。
アランは口笛を吹く。「クロエ・モーリア! これハとんだビッグネーム!」
「あれ、もしかして、私が王女様じゃないって分かってたの?」
「うん。だっテ、サティリスのレベッカ王女サマって言えば、あれでしょう。ラーティア公をヒンムイテ叩き出したっテいう大魔王!」ノアが小さく悲鳴を上げた。「まアあいつは叩き出されて当然のヤツだけど、どう見てモ君とは別人でしょう」
「まって、まってください!」と、よろよろ立ち上がる。「聖サティリスのブランシャール王家と言えば、原初の精霊に仕えた聖者の末裔でしょう? だとすれば、王女様は聖女様なのでしょう? 聖女様が魔王だなんて…そんなこと…とても信じられない!」そう言い、ぽろぽろと泣き出してしまった。
「よしよしノア君。でもほラ、ここニいるのがサティリスのお姫様じゃなくて良かったでしょう? 安心しタ?」
「で、でも。それなら、あのティアラはなんなのです? あんな島一つ変えそうな代物を、無造作に…」
「その聖女様が監修した仮装グッズだよ」
ノアは目をまん丸にした。「か、仮装…? え、…仮装? い、いや、そうだとしても、使っている宝石類はすべて本物ではありませんか。大きさも輝きもカットも一級品。特にあの中央の精霊石は…あれだけでも国宝級ですよ…? 仮装とは一体…」
「そう言われると、改めて引いちゃうね」全員、ティアラを遠巻きにしていた。「あんな精霊石、本当にどこで見つけたんだろうね」
「とすると、あなたは本当にレベッカ王女ではないのですね!」
「うん。だからクロエ・モーリアだって」
ノアは再び膝をつき、胸の前で手を結んだ。「精霊様、感謝いたします!」
「この人なに。精霊教会の人なの?」
「だかラうちの王様だって」
「王様…」
クロエとアランは、本職裸足の厳粛さで祈るノアを眺めた。
「ちょっト変わり種だけどね!」
「アラン君は懐が深いね!」
「それほドでも!」
いや増す騒々しさを、哀しい嘆息が貫いた。人間たちがはたと口をつぐむと、ここまで黙っていたポーが、妙に気怠くつぶやいた。「腹減った」
ひと息置いて、クロエのお腹も同意を示した。蒼白になった国王陛下は、平身低頭し、悔い改め、飛び出していく。終末の動顛、驚異の素早さであった。
クロエはベッドの端で足をぶらぶらさせていた。ぶらぶらさせながら聞いて、ぶらぶらさせながら見送った。いなくなると、急にしんとした。ぶらぶらも止まった。それから、思わず吹き出した。肩を震わせ、顔をそむけた。ポーの耳が揺れる。それから、前足の間でこっそりと笑った。