5.マティアス・モーリア
あっけないものだった。
炎の魔術が消えた後、残る二人も全力の大技を仕掛けた。それもいなされると、今度は手数による制圧を試みる。だが、どの場合でも同じこと。クロエは避けるそぶりさえ見せなかった。
ただ一度だけ――学者のような魔術師が、一切の気配なく背後に迫ったその時だけは、身を強張らせて飛びのいた。そうしながらも声を張った。それなのに、何も聞こえなかった。結果は劇的だ。宙を飛ぶすべての魔術が静止し――と思う間に飛びあがり、もつれ合い、溶けあった。ついには一つの球体となり、拳大に凝集した。
誰もが息を殺す中、弾け飛び、特大の花火となる。昼でもなお鮮やかな、不可思議の華やぎだ。どこか遠くの歓声が潮騒となって届き、森がざわめいているようだ。当の術者たちも、手をたたいて喜んだ。
そうしてすっかり毒気を抜かれてしまうと、実践は終了し、講評の時間となった。実質、その場に集まる全魔術師に向けた魔術講義である。誰一人無駄口を利かず、真剣な様子で聞き入り、書きとめた。
「それにしても、最後に背後を取ったゼンおじさん、すごかったね。詠唱の効率化はもちろん大事だけれど、どんなに早く発動できたって敵に気が付けないと意味ないからね。私もまだまだだなって思ったよ。ありがとうゼンおじさん。みんな拍手!」
羨望と賞賛と、少々のやっかみ含みの声に満たされ、クロエの講義は終了となった。
その後も、個別の相談を聞いたり、自主練習を見て回ったりと、決して短くはない時が過ぎた。驚いたことに、その間ずっと、レベッカ様もご一緒であった。魔術師たちも、最後には気にしない術を学んでいた。すっかり日も傾いた帰り道、レベッカは満足気に息をついている。
「花火の趣向は悪くなかったですわ!」
「…あれは事故だからね」
「そうですの? なら事故というのは積極的に起こすべきですわね!」
積極性など示さなくても、毎日が事故のような王女様である。クロエは背後に控えるメイドを、哀れそうに見やった。
「…それはおいといて、ツン子さんって魔術のこと何か知ってるの?」
「まったく分かりませんわ!」という高らかな宣言は、いっそ誇らし気でさえある。
「それじゃあ私たちが何を話してるのか、全然わかってなかったんでしょう? それでどうして、そんな充実した顔なの…?」
レベッカは目を伏せて微笑んだ。そうしていると、まるで慈愛の女神が祝福をたれているように見える。
「だって、今日はクロエと外出ができましたわ! …って、べ、別に、あなただから喜んでいるわけじゃありませんのよ!? あなたでなくっても構わないけれど、他に友人がいないだけのことですわ!」
「…大丈夫、聞かなかったことにしておくよ」さすがに可哀そうになるクロエである。「ほら、でもさ、ツン子さんってえらいよね。私の訓練中、平民の魔術師に話しかけてたでしょう。王女様なのに分け隔てしないところってすごいと思うよ」
「まあ、知りませんでしたわ。…そんなことよりクロエに褒められましたわ!」
「うん、そんな気もしてた」
レベッカは怪訝そうに眉をひそめ、ふんとあごを逸らした。
「わたくしを誰だと思っていますの! 光栄ある聖サティリス王国が王女、レベッカ・ヴァレリー・ブランシャール様ですのよ! わたくしから見れば、誰もかれも皆等しくわたくしのしもべですわ。平民だろうが貴族だろうが大差なくってよ」
「うわお、差別主義の極致で平等主義に出会った感じだね」
「そういうことですわ!」自信満々で高笑いをしている。
通じてないだろうなあとぼんやり考えていたクロエだが、ふと何かが気にかかり、訝し気に首を巡らせた。それから、息をひそめて黙り込み――はっと顔を上げた。顔を輝かせて走り始めた。レベッカも戸惑いつつ後を追うが、王女様の衣装は走るためには作られていない。彼女が追いつくと、クロエは初老の男にしがみつき、何事か夢中で言い募っていた。すっかり息の上がったレベッカは、物も言えないし、ほとんど立つこともままならない。
「おや、レベッカ様じゃないですか。こんなところで何をしているんです?」
「お爺さまお爺さま! ツン子さんを連れて来たのはクロエです! ツン子さんは民草を労いに来たらしいのです!」
「おお、そうなのか。連れてくるのは良いが、放り出してはいけないぞ。レベッカ様がすっかりへばってるじゃないか」
「はい、お爺さま!」
「…いや、注意するならお前が助けてやれよ」
と、男の肩の上で嘆息するのは、白い子狐である。
「ポー、いないと思ったらお爺さまのところに抜け駆け…? 嫌い…」
「シンプルに傷つくわ! マティアスに無理やり呼び出されたんだよ!」
「お爺さま、今度からクロエが助けますからね! 困った時にはクロエを呼んでくださいね!」
「そうするとも」
メイドに助け起こされたレベッカが、矜持と根性で優雅に礼をして見せた。
「…マティアスおじ様、お久しぶりですわ」
「おや、復活したのかレベッカ様。今日はクロエと遊んでくれたようで、ありがとうございます。…それじゃあクロエ、今回の旅の話でもしてやろう」
「はい、お爺さま!」
「え、待てよ。お前ら本気で王女様を置いていく気か! さすがに嘘だろ!?」
嘘ではなかった。二人はレベッカのことなど忘れ去ったように、すたすたと歩いて行ってしまった。慌てたポーはレベッカの元に駆け寄り、元気を出せと膝を叩く。「ごめんなお嬢ちゃん、あいつらに悪気はないんだ。常識もないだけで」と言いつつ顔を覗き込み、はたと動きを止めた。王女様は、熟れたな頬を押えて、熱いため息をついておられた。
「こんな扱いを受けるの、生まれて初めてですわ…」
ポーはしばらく、ただ黙って、瞬きをしていた。それからメイドの足元に行くと、ふっと色のない笑みを浮かべた。「城から誰か呼んできてやるよ。ここで待ってな」
「お手間かけます」
「いやいいよ。お互い大変だな…」
ポーはこの日、メイドに妙なシンパシーを抱き、ついでに国の未来を本気で憂えた。
マティアス・モーリア――彼を示す肩書は、あまりにも多い。魔術師協会設立の立役者にして、初代大導師。そのマントに十葉の刺繍を持つ、第一位魔術師。大陸にその名を轟かす魔術師一族モーリア家の前当主であり、前プロエマゴシィ魔法伯。一代限りの名誉騎士爵持ち。あるいはまた、『世直し旅』にまつわる虚々実々の異名も数限りない。
そして、クロエ・モーリアにとっては、最愛のお爺さまである。
協会支部のマティアスに当てられた部屋で、二人は向かい合っていた。
「グーサノイド、ですか。また珍しいところに」
「そうだな。一応は隣国なんだが、爺さまも初めて行った。特に名所名産があるわけでもなし。横切っても大山脈にしか通じない。仮に越えたところで、行きつくのは精霊教会の総本山たる神聖国。爺さまは刺されかねん。…控え目に言って、行く意味がない国だな」
「そんな場所になぜ?」
マティアスはにやりと笑い、クロエの頭を乱暴になでた。「まずは、クロエがどれだけ学んでいるのか見せてくれ。グーサノイドについては何を知ってる?」
クロエは背筋を伸ばして拳を握った。「…300年ほど前までは、聖サティリス王国の北方辺境だった地域です。伝説によれば、かつて山脈より龍が現れ、一帯を荒らしまわったとか。その龍を退治した英雄アスター・バルティルスが、初代国王となったと伝えられています」
「龍殺し…英雄…」とつぶやき、笑いをかみ殺すマティアス。「いや、すまん。続けなさい」
「40年前の大陸戦争の傷跡が、未だに尾を引いていると聞いたことがあります」
「そうだな。爺さまの若い頃はグーサノイド産の上等な装飾品や工芸品が流通していたが、すっかり見かけなくなったな。協会にある10年前の調査報告では、『革命前夜の気配』とまで書かれていた。どんな悲惨な国かと覚悟を決めて向かったんだが…いやどうして、城下は美しい街だったし、爺さまが立ち寄った地方も穏やかなものだったよ」
「そうですか」クロエは魔術とお爺さまにしか興味がなかった。「現国王は…ノア・バルティルスでしたか。随分若くして即位していますよね」
「10年前…11歳の時だな」
「それは本当に、子どもじゃないですか。…前王は病死ですか?」
「ということになっている」
「なっている?」反問するも答えはないので、首を振って続ける。「まあどうでも構いません。それで、お爺さまの目的は?」
「今はまだ話せんな」
「と言いますと?」
「俺は面白いことが好きだ。クロエもそうだろう? だからお前のためだ。――約束しよう。後で絶対に楽しませてやる。爺さまを信じられるか?」
「それはもちろん!」
「そうかそうか、いい子だな」
再び強くなでられる。髪はすっかり乱れたが、クロエは幸せだった。
幼い時から、クロエは祖父を熱愛していた。強くて優しいお爺さま。いつも周囲を焦らせ、怒らせ、それでいて、本人は不敵に笑い、決して動じない。最後には常にやり遂げる。自由に旅をし、無茶をするが、それが最高に面白い。クロエにとって、マティアスはヒーローで、彼が紡ぎ出す全てが胸躍る冒険譚だった。
クロエがねだると、マティアスは旅の出来事を話し始めた。夢中で話し、夢中で聞いた。物語の時間は、夜半を過ぎても終わらなかった。