4.来訪あるいは襲撃
「精霊石鉱山のことは諦めたんですか?」
クロエとニコが魔法陣の構築を初めて、約半日。西日が照らし出す部屋には数多の魔法陣が散らばり、この支部が設置されて以来もっとも魔術師支部らしい形相を呈している。
テーブルの中央には、整理整頓された美しい図形が鎮座する。その複雑な形をなぞり、クロエは感嘆の息をつく。信じられないことに、この半日で、想定よりもよほど上等な魔法陣が完成していた。理由は明らかである。ニコは呆れるくらいに優秀だった。
その優等生は、這いつくばって紙切れを片付けている。魔法陣よりも、そこから生まれる商品へと思いを馳せている。鼻歌交じりに問うたのが、先ほどの問いである。クロエは動きを止め、眉をくもらせた。
「…仕方ないじゃん。冬が来るから危ないっていうんだもん。脅してもごめんなさいしか言わないし、宥めてもすいませんしか言わない。本当にがっかり。つまんない。…どうも、真面目に危険みたいだよ。謎の極致的な吹雪とか起こるんだって」
「魔物まで出ますしね」
「え、そうなの?」
「え、知らないんですか?」本気らしいのを確かめ、二度驚く。「街の人が言っていましたよ。山脈のあたりには魔物が出ると。魔力だまりになっているんだなあと思っていたんですが…精霊石鉱山だというなら、まあ何でもありですかね」
当然、報告が必須の案件である。
今まで教えてもらえなかったことに少々むっとしたクロエであるが、それよりも目の前の話題である。
精霊石鉱山の周辺は、特殊な環境が発生しやすい。そして、魔物は魔力だまりに生まれる。確かに因果関係がありそうではあるが…
「ポーはどう思う?」
「おかしくはないな。精霊石っていうのは、現象界に漂う精霊の力が過剰になって、それが凝ったものだ。その凝りが生物の中で生じて、『生命』が壊れるのが、いわゆる『魔物化』ってやつだな。…似たようなものだし、同時に発生することもありえる。…なんだが、その言い方だと常に魔物が出るのか? だとすれば精霊石だけじゃ弱いだろ。それ以外の要因があるかもな」
「当然のように未知の情報を出してきますね…まさか精霊から教授を受けるとは」
意欲も希望もないのに、才能と機会がおびただしいニコである。ポーは胸を張った。
「おう、遠慮せずに崇めるといい」
ニコはお愛想に微笑み、掃除を再開した。クロエは魔法陣鑑賞を続行した。
そこに、唐突に響く声。
「クロエちゃん!!」
窓から飛び込んできたのは、地味な服装をした一人の女性だった。特徴のない顔立ちと、ごく当たり前の主婦のような成りを備えた、四十手前の人物である。あまりに平凡であるからこそ、一連の異様さが際立っている。ニコは書類を抱きつぶし、身を引いた。
「ア、アンナさん? なぜ窓から…」
「ニコ君はアンナと知り合いなの?」
「え、ええ、それはもちろん。『精霊の木箱』を拠点にしている女帝ですよね」
「女帝…?」
「クロエちゃん!」腕を引く。必死である。「行くわよ!」
「ごめん。何が何だかさっぱりわからないんだけど」
「嵐が来るのよ!」
「あらし…?」
クロエは抵抗しなかったが、窓ではなく扉の方へと促した。引きずられながら、硬直しているニコに手を振る。
「よくわかんないけど、嵐の見物に行ってくるよ」
つられて、ぎこちなく振り返すニコ。
瞬きの間に去っていく二人。追いかけるポー。
静まった部屋の中で、天を仰いで苦笑した。
「…今さらですね」
嵐は、想像以上に激しかった。
「ええい、これ以上隠し立てするようなら容赦しませんわよ! 今すぐ連れ来なさい! さもないと、ああしてこうして、ちょちょいのちょい! っで、薔薇の肥料にしてやりますわ!」
「薔薇の肥料ですか…随分と気が利いていますねえ」
「何を感心しているんですの!? なめていますのね! 吊るしますわ! 絶対吊るしてやりますわ!!」
「はっ! す、すいません。違うんです。それは良いご提案だなと思っただけで…僕ではとても思いつかない素敵なお話だったもので…」
「ふん、当然ですわ。わたくしを誰だと思っていますの!」
豪奢なドレスと、それすら及ばぬ華やかな美貌。輝く金髪が揺れ、音を立てて扇子が開かれる。傲慢なまでに自信に満ちた笑みを刷き、彼女は、高らかに宣言する。
「わたくしは、光栄ある聖サティリス王国が王女! レベッカ・ヴァレリー・ブランシャール様でしてよ!」
その劇的で見栄えのする一場に、ノアはぽかんと口を開けて拍手をしている。レベッカは鼻を膨らませた。苦しゅうないですわ、と宣っている。よく見ると、部屋の隅でアランが肩を震わせていた。クロエの視線に気が付くと、同意を求めるように軽く首をかしげる。クロエは天を仰いだ。
ここは、国王ノア・バルティルスの執務室。従弟のアラン・バルティルスともども、仕事中だったのだろう。そこに仁王立ちする見覚えのある迫力美人…状況は分からないが、罪科のありかは明確である。
「ああ…時にツン子さん、誰を探しているの?」
「ノア・バルティルスとかいうやつですわ! その極悪非道で髭もじゃで汗まみれの二目と見られぬような醜男に一言いってやるんですわ!」
「相変わらずだね…」名前以外の情報に、正確性が皆無である。「それで、何を言ってやるの?」
「よくもわたくしのクロエを盗りましたわね! あなたなんて汗男の臭男ですわ! 今すぐクロエを返しなさい! それがいやなら交換でもよくってよ」
「交換…?」
「わたくしがノア・バルティルスになって、ノア・バルティルスがわたくしになるのですわ! そうすればわたくしはクロエと一緒にいられるでしょう?」
「なるほどわからん。いや、これが本物のツン子さんだってことはよくわかった。それで、あなたは今誰と話をしているの?」
「だれって…」と身を翻すだけで燐光が舞うようだ。「クロエですわ!!」
中途半端に身をひねったまま足を踏み出し、見事にすっころんだ。だが、気にした様子もなく飛び起きて、クロエを羽交い絞めにする。クロエは呆れた顔で、されるがままになる。
「久しぶりだね、元気だった?」
「お久しぶりですわ苦しゅうないですわ会いたかったですわ元気ですわよ!!!!」
「うん、そっか。デレ子さんも久しぶり」
「わたくし、ノア・バルティルスにならずに済みましたわ!!」
「あ、うん。そうだね」遠巻きに困っているノアを見やる。「ノア君も良かったね。レベッカ・ヴァレリー・ブランシャール様にならずに済んで」
「そ、それはもう本当に、心から…」
「もうやめてお腹痛い!」アランは床を叩き始めた。
「で、これはどういう状況なの?」
視線を巡らせ、この場にクロエを放り込んだ張本人に行きつく。アンナは入口の横で腕を組み、一仕事終えたと言わんばかりの満足顔だ。非難の眼差しに気が付くと、慌てて姿勢を正した。
「私にも、よくわからないのよ。怪しい馬車が城に乗り込んで行くものだから、念のため確認したらそのお姫様がいたってだけ。ノア様とクロエちゃんの名前以外は意味不明で…とりあえずクロエちゃんを迎えに行ったの」
どうして城の出入りを把握しているのだろうとか、どうやって馬車の中身を知ったのだろうとか、なぜ発言内容を把握しているのだろうとか…気になる点はいろいろとあるが、そんなことは今さらである。いちいち取り合う気にもなれない時、グーサノイドに染まってきたなと感じる。
「すごいンだよ彼女! 完全に不審者なのに『わたくしを誰だと思っていますの!』っテ言われると、兵士たちが慌てて平服しちゃってさ! ノア君のところまで案内さレてきたんだ。これが王族の威厳ってヤツ?」
「どっからどう見ても王女様だもんね」
「ウン。警備担当者には再教育が必要だけどね」
「気の毒な。…で、ツン子さん」
強く揺さぶると、真っ赤になった瞳とかち合う。離してなるものかと、一途に思いつめた、まっすぐな眼差しだった。クロエはかすかに笑んだ。
「これからどうするつもりなの?」
「一緒に帰りますわ!」
「帰らないよ。今の私はこの国の魔術師だし」
「私を捨てるつもりですの!?」
「いや、拾った覚えもないんだけど」
「ならわたくしが残りますわ!」
クロエは訝しく問いかける。「それ、許可もらってるの?」
「お父さまはご存じですわ!」
「あ、もらってるんだ」
アランが咳払いをして、にやにやと笑う。「ノア・バルティルスにはなれませんけれど、それでも構いませんカお姫サマ?」
「まあ、ノア・バルティルスにならなくても良いなんて、あなたは親切ですわね」
予想外の返しに、思わず怯むアラン。突きつけられる扇。「あなたに案内させて差し上げますわ。さあ、わたくしの部屋はどこですの?」
クロエはついに解放された。手を取られそうになったので、近くにあったポーを押し付けた。それはそれで嬉しかったらしく、そっぽを向きつつ撫でている。ポーも居心地が良さそうだ。
レベッカに押されて、アランが部屋を出ていく。救いを求める眼差しに、応える者はない。
ノアはノアで頭を抱えていた。
「クロエさん…」と途方に暮れて言う。「大国の王女様というのは、どうやっておもてなしするのでしょう…?」




