1.王女様のご予定は
聖サティリス王国には千年の歴史がある。
王国史によれば、千年の昔、この地に『原初の精霊』が舞い降り、人間に『秘蹟』を授けたのだという。語り手は誇らしげに記す。その『秘蹟』を受けし人間というのが、誰あろう、聖サティリス王国を興し、今日まで続く繁栄へと導いたブランシャール王家の祖なのである。その尊き血脈を連綿と守り継いでいる事実こそが、聖サティリス王国に聖性を備えさせ、精霊教会さえも容易には無視できない宗教的権威を与えている。
王国では精霊を祀る儀式が多くあり、その中で、王族は特別な役割を担う。結果として、個々人が聖人になぞらえられる場合も多く、特に未婚王女は『聖女』などと呼ばれ、ひとつの信仰対象にまでなっている。
当代の未婚王女で、最も高貴なる血筋を誇る者――それこそが、レベッカ・ヴァレリー・ブランシャールである。
その美貌は人智を超え、詩人が歓喜に言葉を失い、画家が絶望に筆を折るような代物なのだが…その悪名もまた、すこぶる名高い。絶妙にかみ合わない会話と、婚約者候補を排除する手段の容赦のなさから、昨今では、聖女どころか魔王呼ばわりもしばしばである。
レベッカは今、その魔王ぶりを遺憾なく発揮し、自室を混沌に帰していた。
「いやですわ!」
「そういわずに、こちらの白いドレスをご覧ください。一見すると無地のようですが、さあほら、ご覧あれ! 光の加減で見事な刺繍が浮き出して…」
「いやだと言っているでしょう!」
叫び、じりじりと後退するレベッカ。
威嚇する王女は、野生に返った捨て猫のようである。
何がどう転んで、どちらが怪我をするか、分かったものではない。ゆえに、容易には手出しができない。白いドレスを掲げながら、侍女の目には虚無が宿る。
レベッカ付きの使用人には、お世話の心得をまとめた極秘ノートが共有されている。それに照らせば、現状は『いやいや気』である。何を提示されてもイヤ、それではと意見を求めてもイヤ、衣食住あらゆる領域、あらゆる細部にわたり、何もかもがイヤイヤイヤ。幼い日には着衣を嫌がり、全裸で走り出した挙句、慌てて扉の前に立ちはだかった警備兵に激突。あなたの服もイヤだから脱げと喚き、屈強な戦士を蒼白にさせた…などなど、数々の伝説がある。
そんな、数多の前科に比べれば、この程度の駄々など可愛いものだ。とはいえ、むやみに身分の高い主人の拒否は、それなりに精神がすり減る。一方、いちいち拒否している方も、いい加減に疲れてくる。結果、侍女は引き際を見誤り、レベッカは苛立ちを爆発させた。
「だから、嫌なのですわ!」
地団太を踏み、ドレスに向かって、カップを振り上げた。
――だが、どきりとして、身を固くする。
脳裏に浮かぶのは、レベッカの唯一の友であるクロエ。クロエが、眉をひそめて首を振っている。そして、親よりも親らしいポー。短い前脚を器用に組んで、お説教の体勢だ。
レベッカは理解した。これはやってはいけないことだ。
その態勢のまま固まったので、王女様の頭に紅茶が降った。満足気に鼻息を荒くするレベッカは、そんなことは気にも留めない。褒めても良くってよ!などと高笑いしているレベッカの周りで、慌てたメイドたちが右往左往する。幸いなことに、紅茶はすっかり冷めていた。
ふと顔を上げるレベッカ。唇をなめ、不思議そうにつぶやく。「甘いですわ」
「過剰なお砂糖をいれてらっしゃいましたからね」
応じたのは、一切動じずに傍観していた、瑠璃色の瞳を持つメイドだった。その淡々とした語調、眉一つ動かさぬ顔付きから、レベッカとの付き合いの長さを感じ取れる。
「砂糖を入れたのはカップでしてよ。誰が空に溶かしましたの?」
「随分と詩的ですが、真顔で言うんだから失笑ですね。――それで、何が気に入らないのです。祭儀で白い衣装を着用するのはいつものことですし、そのお衣装もお気に召すように仕立てさせたつもりですが?」
本来ならば少々華美が過ぎるのだが、祭事方との限界の攻防戦を経て、レベッカの好みに仕上げた逸品だ。歴代の衣装と比べても、なかなかに出来が良い。汚すことを躊躇ったのは、それも一因に違いない。レベッカは、美しいものが好きだ。
レベッカはおとなしく着替えさせられながら、意固地な顔をぷいとそむけている。
清掃が済み、ひと段落ついた頃、俯きながらぼそりと言った。
「青が、良いのですわ」
「ああ、またそれですか」
「青が良いのです!」
「青というのは、昔庭園で会った少年のこと、ですよね?」と、新参のメイドが興味深そうにつぶやく。レベッカは身を乗り出した。
「かわいい人でしたわ。あの人の目、わたくし、とっても好きですの」
瑠璃色のメイドがため息をつく。
「かわいい人って、それはまあ、七、八歳頃のことですものね? どんなゲテモノだって、その時分なら可愛いものでしょうよ。……もっとも、かれこれ十年以上経っていますから、既に過去の夢と化しているでしょうけれど」
「なぜですの?」
「なぜって、人ほど時に対して無防備な存在はありませんからね。…だいたい、あれだけ陛下の手を煩わせて、未だに見つからないのは変ですよ。レベッカ様の記憶が改竄されているのか、相手の見た目が相当変わっているのか、それかもう、彼は精霊か何かだったとか、それくらいしか考えられません」
「精霊なんですの!?」
「それは物のたとえというもので…一度しか会っていないのだから、顔を忘れているのが妥当でしょう」
「忘れたりしませんわ!」
「あの…」と、新参メイドが手を挙げた。目顔で許可され、つばを飲み込む。「レベッカ様は、青の君と結婚するのですよね?」
『青の君』――それは、レベッカの執着する、遠い日の思い出の少年に、メイドたちが奉った呼び名だ。彼女以外の付き人たちも、圧が生じるほどの真剣な眼を向けている。レベッカはきょとんとした。
「結婚? なんでですの?」
「ふぇ!?」
およそ王女の御前に相応しくないとんきょんな声を発した者は、一人二人ではなかった。あっという間にざわめきが満ち、ほとんど恐慌のような空気になる。レベッカは訝し気にいう。
「一生一緒にいたいと思うだけですわ!」
瞬きで静まった。なあんだ、と肩を叩き合う一同。瑠璃色のメイドが咳払いをする。
「ではレベッカ様。陛下の薦める縁談相手をどう思います?」
「吊るしてやりますわ!」
「後遺症の出ない手段を追加で検討しておきます。――では、青の君から結婚を乞われたら、どうしますか?」
レベッカは不思議そうに口をつぐみ、少し考え込んだかと思うと、柳眉をひそめて、高らかに告げた。
「乞うのなら、わたくしからですわ!」
「ほう、理由を伺っても?」
「かわいい人だからですわ!」
あたりが興奮に包まれる中、一人冷静に問うメイド。「で、白い衣装は着て頂けるんですか? それとも関係各所を『ご説得』に向かうべきですか?」
「クロエに会いに行きますわ!」
「どういう話の流れです」
「『ご説得』ですわ、アイビー」
「なるほど。やることは変わりませんね」
「そう。変わりませんわ」
「まずは陛下に会ってきます。ああ、その前に典礼局ですかね。殿下は持病で使い物になりませんと報告してこなくては」
「会いに行くのはクロエですわ!」
瑠璃色を深くするメイド――アイビーは、悠然とした笑みでレベッカをいなし、気負いのない足取りで仕事に向かった。これでもう、望みは叶ったも同然だ。満足気に見送ったレベッカは、足取りも軽くスケッチブックに向かう。そこに描かれるのは、柔い髪に木の葉を絡ませた子供――レベッカの周りに侍る者は、この人物を何十回、何百回と目にしているので、あたかも顔見知りのような気持ちになっている。婚約者だと思い込んでいる者もいる。
言動のせいで認めがたいが、レベッカの目は確かだ。彼女の選ぶもの、作るもの、描き出すものは、どれもこれもまぎれもなく一級品。そして、その彼女自身が、女神もかくやという美の化身である。
そんなレベッカが拘泥するには、平凡すぎる子供である。品のいい、穏やかな容貌で、人に好感は与えはするだろうが…そんな者は、城内にだって掃いて捨てるほどいる。
だというのに、レベッカは、彼に拘る。
レベッカ付きに回された者は、皆彼女の悪名に怯え、震えながらやってくる。だが、しばらくして『青の君』のことを知ると、途端に打ち解けるのだ。それはもう、レベッカが目を丸くするほど、一気にくつろいだ様子になる。時折り頬に手を当ててうっとりしたり、叫んだりする。時にはレベッカすら呆れている。
「もうすぐクロエに会えますわね」
機嫌よくつぶやくレベッカに、メイドたちははっとした。だとすれば、やらねばならぬ仕事が山とある。頷き合い、活気付き、動き出す。レベッカは鼻歌を歌う。筆は、いよいよ調子づいていた。