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クロエ・モーリアの非日常  作者: 千川葵
第二部:序章(聖サティリス王国王城)
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1.王女様のご予定は


 聖サティリス王国には千年の歴史がある。

 王国史によれば、千年の昔、この地に『原初の精霊』が舞い降り、人間に『秘蹟』を授けたのだという。語り手は誇らしげに記す。その『秘蹟』を受けし人間というのが、誰あろう、聖サティリス王国を興し、今日まで続く繁栄へと導いたブランシャール王家の祖なのである。その尊き血脈を連綿と守り継いでいる事実こそが、聖サティリス王国に聖性を備えさせ、精霊教会さえも容易には無視できない宗教的権威を与えている。


 王国では精霊を祀る儀式が多くあり、その中で、王族は特別な役割を担う。結果として、個々人が聖人になぞらえられる場合も多く、特に未婚王女は『聖女』などと呼ばれ、ひとつの信仰対象にまでなっている。


 当代の未婚王女で、最も高貴なる血筋を誇る者――それこそが、レベッカ・ヴァレリー・ブランシャールである。


 その美貌は人智を超え、詩人が歓喜に言葉を失い、画家が絶望に筆を折るような代物なのだが…その悪名もまた、すこぶる名高い。絶妙にかみ合わない会話と、婚約者候補を排除する手段の容赦のなさから、昨今では、聖女どころか魔王呼ばわりもしばしばである。


 レベッカは今、その魔王ぶりを遺憾なく発揮し、自室を混沌に帰していた。


「いやですわ!」

「そういわずに、こちらの白いドレスをご覧ください。一見すると無地のようですが、さあほら、ご覧あれ! 光の加減で見事な刺繍が浮き出して…」

「いやだと言っているでしょう!」


 叫び、じりじりと後退するレベッカ。

 威嚇する王女は、野生に返った捨て猫のようである。

 何がどう転んで、どちらが怪我をするか、分かったものではない。ゆえに、容易には手出しができない。白いドレスを掲げながら、侍女の目には虚無が宿る。


 レベッカ付きの使用人には、お世話の心得をまとめた極秘ノートが共有されている。それに照らせば、現状は『いやいや気』である。何を提示されてもイヤ、それではと意見を求めてもイヤ、衣食住あらゆる領域、あらゆる細部にわたり、何もかもがイヤイヤイヤ。幼い日には着衣を嫌がり、全裸で走り出した挙句、慌てて扉の前に立ちはだかった警備兵に激突。あなたの服もイヤだから脱げと喚き、屈強な戦士を蒼白にさせた…などなど、数々の伝説がある。


 そんな、数多の前科に比べれば、この程度の駄々など可愛いものだ。とはいえ、むやみに身分の高い主人の拒否は、それなりに精神がすり減る。一方、いちいち拒否している方も、いい加減に疲れてくる。結果、侍女は引き際を見誤り、レベッカは苛立ちを爆発させた。


「だから、嫌なのですわ!」


 地団太を踏み、ドレスに向かって、カップを振り上げた。


 ――だが、どきりとして、身を固くする。


 脳裏に浮かぶのは、レベッカの唯一の友であるクロエ。クロエが、眉をひそめて首を振っている。そして、親よりも親らしいポー。短い前脚を器用に組んで、お説教の体勢だ。

 レベッカは理解した。これはやってはいけないことだ。


 その態勢のまま固まったので、王女様の頭に紅茶が降った。満足気に鼻息を荒くするレベッカは、そんなことは気にも留めない。褒めても良くってよ!などと高笑いしているレベッカの周りで、慌てたメイドたちが右往左往する。幸いなことに、紅茶はすっかり冷めていた。


 ふと顔を上げるレベッカ。唇をなめ、不思議そうにつぶやく。「甘いですわ」

「過剰なお砂糖をいれてらっしゃいましたからね」


 応じたのは、一切動じずに傍観していた、瑠璃色の瞳を持つメイドだった。その淡々とした語調、眉一つ動かさぬ顔付きから、レベッカとの付き合いの長さを感じ取れる。


「砂糖を入れたのはカップでしてよ。誰が空に溶かしましたの?」

「随分と詩的ですが、真顔で言うんだから失笑ですね。――それで、何が気に入らないのです。祭儀で白い衣装を着用するのはいつものことですし、そのお衣装もお気に召すように仕立てさせたつもりですが?」


 本来ならば少々華美が過ぎるのだが、祭事方との限界の攻防戦を経て、レベッカの好みに仕上げた逸品だ。歴代の衣装と比べても、なかなかに出来が良い。汚すことを躊躇ったのは、それも一因に違いない。レベッカは、美しいものが好きだ。


 レベッカはおとなしく着替えさせられながら、意固地な顔をぷいとそむけている。

 清掃が済み、ひと段落ついた頃、俯きながらぼそりと言った。


「青が、良いのですわ」

「ああ、またそれですか」

「青が良いのです!」


「青というのは、昔庭園で会った少年のこと、ですよね?」と、新参のメイドが興味深そうにつぶやく。レベッカは身を乗り出した。


「かわいい人でしたわ。あの人の目、わたくし、とっても好きですの」


 瑠璃色のメイドがため息をつく。


「かわいい人って、それはまあ、七、八歳頃のことですものね? どんなゲテモノだって、その時分なら可愛いものでしょうよ。……もっとも、かれこれ十年以上経っていますから、既に過去の夢と化しているでしょうけれど」

「なぜですの?」

「なぜって、人ほど時に対して無防備な存在はありませんからね。…だいたい、あれだけ陛下の手を煩わせて、未だに見つからないのは変ですよ。レベッカ様の記憶が改竄されているのか、相手の見た目が相当変わっているのか、それかもう、彼は精霊か何かだったとか、それくらいしか考えられません」

「精霊なんですの!?」

「それは物のたとえというもので…一度しか会っていないのだから、顔を忘れているのが妥当でしょう」

「忘れたりしませんわ!」


「あの…」と、新参メイドが手を挙げた。目顔で許可され、つばを飲み込む。「レベッカ様は、青の君と結婚するのですよね?」


 『青の君』――それは、レベッカの執着する、遠い日の思い出の少年に、メイドたちが奉った呼び名だ。彼女以外の付き人たちも、圧が生じるほどの真剣な眼を向けている。レベッカはきょとんとした。


「結婚? なんでですの?」

「ふぇ!?」


 およそ王女の御前に相応しくないとんきょんな声を発した者は、一人二人ではなかった。あっという間にざわめきが満ち、ほとんど恐慌のような空気になる。レベッカは訝し気にいう。


「一生一緒にいたいと思うだけですわ!」


 瞬きで静まった。なあんだ、と肩を叩き合う一同。瑠璃色のメイドが咳払いをする。


「ではレベッカ様。陛下の薦める縁談相手をどう思います?」

「吊るしてやりますわ!」

「後遺症の出ない手段を追加で検討しておきます。――では、青の君から結婚を乞われたら、どうしますか?」


 レベッカは不思議そうに口をつぐみ、少し考え込んだかと思うと、柳眉をひそめて、高らかに告げた。


「乞うのなら、わたくしからですわ!」

「ほう、理由を伺っても?」

「かわいい人だからですわ!」


 あたりが興奮に包まれる中、一人冷静に問うメイド。「で、白い衣装は着て頂けるんですか? それとも関係各所を『ご説得』に向かうべきですか?」

「クロエに会いに行きますわ!」

「どういう話の流れです」

「『ご説得』ですわ、アイビー」

「なるほど。やることは変わりませんね」

「そう。変わりませんわ」

「まずは陛下に会ってきます。ああ、その前に典礼局ですかね。殿下は持病で使い物になりませんと報告してこなくては」

「会いに行くのはクロエですわ!」


 瑠璃色を深くするメイド――アイビーは、悠然とした笑みでレベッカをいなし、気負いのない足取りで仕事に向かった。これでもう、望みは叶ったも同然だ。満足気に見送ったレベッカは、足取りも軽くスケッチブックに向かう。そこに描かれるのは、柔い髪に木の葉を絡ませた子供――レベッカの周りに侍る者は、この人物を何十回、何百回と目にしているので、あたかも顔見知りのような気持ちになっている。婚約者だと思い込んでいる者もいる。


 言動のせいで認めがたいが、レベッカの目は確かだ。彼女の選ぶもの、作るもの、描き出すものは、どれもこれもまぎれもなく一級品。そして、その彼女自身が、女神もかくやという美の化身である。

 そんなレベッカが拘泥するには、平凡すぎる子供である。品のいい、穏やかな容貌で、人に好感は与えはするだろうが…そんな者は、城内にだって掃いて捨てるほどいる。


 だというのに、レベッカは、彼に拘る。


 レベッカ付きに回された者は、皆彼女の悪名に怯え、震えながらやってくる。だが、しばらくして『青の君』のことを知ると、途端に打ち解けるのだ。それはもう、レベッカが目を丸くするほど、一気にくつろいだ様子になる。時折り頬に手を当ててうっとりしたり、叫んだりする。時にはレベッカすら呆れている。


「もうすぐクロエに会えますわね」


 機嫌よくつぶやくレベッカに、メイドたちははっとした。だとすれば、やらねばならぬ仕事が山とある。頷き合い、活気付き、動き出す。レベッカは鼻歌を歌う。筆は、いよいよ調子づいていた。




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