天使のいた庭 -アランとレベッカ-
大陸中の魔術師を統べる超国家組織――魔術師協会。その最高位階は大導師と称される。
元をたどれば、協会は教育機関なのである。精霊界との親和性が高い人間は、あらゆる時代、あらゆる場所に存在してきた。だが、時を経るうちに、その体系的な理解は失われ、力の扱い方を知る者も減ってしまった。中途半端な異能は実際に害であり、力持つ者は、悪魔や忌み子などとして疎まれるようになっていった。
そんな中で、正しい力の用い方を伝道する人物が現れた。彼は、精霊教会による蔑称――「魔術師」を堂々と名乗った。「魔術師」であることに栄誉と価値を生み出した。
この大英傑こそが、協会創設者であり初代大導師であるマティアス・モーリアだ。
突然の出来事だった。
その、神であり、絶対君主であるマティアス・モーリアが、職を辞したのである。
齢は重ねても、その活力は些かも衰えず、カリスマと天賦の技巧は年々済々冴えわたるばかり。
まさしく天変地異だ。彼の君臨は、陽の昇降のごとく、疑う余地のない節理だと、すっかり信じ込まれていたのだから。
ただ一人の引退、などでは済ませられない。協会幹部の激震のみならず、世間一般の耳目をも大いに集めた大事件である。そう、これは大問題だ。
もちろん、そうではあるのだが。
この一事には、それ以上にもの凄い余波があった。マティアス・モーリアの引退を知った聖サティリス王国の国主が、「アイツが辞めるなら俺も」と癇癪を起こし、その言葉を違えることなく、翌年、退位を強硬したのである。
不意打ちを喰らった王太子は、ぴんぴんしている先王に見守られながら、戴冠することと相成った。
第一王女レベッカ・ヴァレリー・ブランシャール、六歳の日の出来事である。
聖サティリス王国は、千年もの歴史を誇り、国祖は『原初の精霊』に仕えた聖者だと言い伝えられている。広い国土といくつもの港を持つ、華やかなりし文化の震源地――そのような大国の新国王誕生となれば、余波は思いも及ばぬほどに遠くこだまする。即位式には、遥か遠方の地の王侯貴族も駆け付け、表では和やかに、裏では熾烈に…音もなき駆け引きが、そこら中で繰り広げられることとなった。
だが、そんな事情は、子供には関係あるまい。
グーサノイドは、聖サティリス王国の北方に位置する小国だ。継承権第三位――アラン・バルティルスは、初めて訪れた隣国の威容に酔いしれていた。王弟である父は、使節代表として多忙を極めていたが、八歳のアランは与り知らぬこと。彼はむしろ、退屈にうんざりしていた。遊び相手はいない。遊び道具もない。何も求められない代わりに、自由になる余地もない。
その一方で、窓の向こうには未知の世界が広がっていた。幾何学を描く庭園には、抗いがたい魅力がある。独りぼっちの子供が、ふらりと誘い出されたとして、どうして責めることができよう。
「ノアさまも、一緒なら良かったのに」
清い空気を吸い込み、アランは独り言ちた。
従弟のノア・バルティルスは、物心ついた頃から始終一緒にいた。まるで実の兄のようだった。
すぐ近くにノアがいない。それどころか、明日も明後日も、会うことができない。そんなことは、生まれて初めてだった。
手を引いてくれるノアがいない。素敵な発見をしても、応えてくれる声がない。
浮上した心は、その為に沈む。虚しさは、足取りを重くした。
アランはノアが大好きだった。優しくて、賢くて、なんだってできるのだ。
無邪気だからこそ一心に、ほとんど心酔するようにして憧れていた。無条件に信じ切り、無意識に頼り切った。
だから、腹が立った。
どうして付いてきてくれなかったのだろう、と。
無茶な苛立ちには、他にも理由があった。
ノアが、アランの願いを、ちっとも聞いてくれなくなったのだ。
以前はもっと、たくさん遊んでくれた。勉強を教えてくれた。アランのことを見てくれた。アランは見ていることができた。なのに今では、ほんのたまにしか、時間を割いてはくれない。
それは、「たみのため」なのだという。
思い出して、腹が立った。アランはわざわざ、道にもなっていない花々の間隙に、身をねじ込んでいく。花は折れ、子どもの柔肌は傷ついた。けれど、アランは気にならない。ある考えに取りつかれて、不安で押しつぶされそうだったからだ。
――つまり、ノアは、アランよりも「たみ」の方が大事なのだ。
どうして、と幼い心が叫ぶ。 ボクはノアさまの従弟で、仲良しで、ボクはノアさまが大好きだ。一番大好き…なのに、他の人の方が大事なの?
どうして、ノアさまの用事について行ってはいけなの? 危ないから。…危ないから? 危ないのなら、どうしてノアさまが行くの? どうして誰も止めないの? アランにだってわかる。ノアは王太子で、アランよりもよほど大切な存在だ。なのにどうして? どうして?
叔父である国王と、最後に会ったのは、もう随分と前のことだった。それだっておかしなことだ。アランは、叔父のことも好きだった。なのに、父は決して会わせようとせず、重たく口を閉ざし、時には悪しざまにさえいう。
この頃では使用人たちにも、元気がない。屋敷全体が、薄暗く感じる。
何かがおかしい。なのに、だれも、なにも、教えてはくれない。
アランは全てに反発した。そうして背を見せれば、相手が譲歩するのだと信じていた。だが、そうはならない。そのことを、認めたくなかった。
アランは強く頭を振る。
それにしても、この聖サティリス王国という国は、なんと美しい国なのだろうか。華々しく、鮮やか。賑やかで、楽しい。
アランは思う。感じたことを、父に聞いてほしかった。どう感じるのか、ノアに聞いてみたかった。そして、ふと、従弟の大人びた微笑を思い出した。
「…ノアさまは、きれいなものは、きれいじゃないものからできるって、いってた」
アランには理解できない。でも、よくわからなくても、賢くて、なんでも知っているノアが言うのだから、きっとそうなのだろうと思った。
ノアへの土産は何が良いだろか。
そこでふと、気が付いた。見通しの効かない生垣の、ただ中にいたのだ。戸惑いながら立ち止まる。急に恐ろしくなった。来た道を振り返る。人工的に計算され尽くした草木が、そっけなく行儀よく立ち並んでいる。自分は余所者だと、喉元に突きつけられる。さっと血の気が引いた。
速足が、駆け足になって、無理やりに突き進んで…それでも、行けども行けども見知らぬ景色で、二度と帰れないんだと思って、視界がにじんだ。
「痛いんですの?」
と幼い声が尋ねた。目の前に、小さな姿がある。慌てて瞼をこすり、絶句した。これほどまでに美しい代物は、かつて目にしたことがなかった。想像したことすら、なかったのだ。これが、現実のはずがあるだろうか。人間だとは思いもつかず、自分に声をかけてきたなどとはさらに信じられず、呆けたままにその姿を見つめた。子どもは痺れを切らし、地団太を踏み始める。
「わたくしのことばを無視するつもりですの? どこが痛いのかさっさというのですわ!」
あ、とこぼれた声が、他人のもののようだ。唾を飲んで、必死に気力を振り絞る。「あの、どこも…どこも痛くはありません」
「なんですって!? そんなはずはありませんわ。あなたは痛いんですのよ!」
妙な断定をされ、腕をつかんで揺さぶられる。強いて言えば、その腕が痛い。くらくらする脳みそに、なけなしの理性をかき集める。何はさておき、目の前の子どもだ。服装や、態度を確かめながら、これはどこかの大貴族のご令嬢だと確信した。グーサノイドは弱小国だ。下手に機嫌を損ねれば、アランだけの問題では済まない。今度は別の意味で震えが走った。
「あ、その…あなたは、どこから来たんですか?」
「どこって、いえですわ」
「家というのは、どちらなのですか?」
「ここに決まっているでしょう」
ここ、つまり、聖サティリスの貴族なのだ。王城にも気軽に出入りするような、力のある貴族家なのだ。彼女からその親に不評が伝われば、即位式の間中、針の筵になりかねない。
穏便に親もとへ帰ってもらわねば、と己を鼓舞する。――いやそもそも、どうして彼女は一人なのだ。
「あの、来た道は、覚えていますか?」
「もちろんですわ! だれにものをきいていますの?」一瞬むきになるが、すぐに矛を収め、手を打った。「ああ、わかりましたわ! あなた、痛いからではなくて、まいごだから泣いていたんですわね!」
どうだと胸を張る子供に、うっと言葉を詰まらせるアラン。年下の女の子を相手に、とても認めがたい事実である。…話をすり替えようと決意する。ノアはこれを、実に上手にやるのだ。真似をしてみよう。
「…あなたの理屈では、痛くないと泣いてはいけないんでしょう?」
「ではあなたは、まいごであるのとはべつで、痛いんですわね」
「こだわりますね…」
試みはあっさり失敗である。だが、そんな些末なことに拘る暇はなかった。
真剣な顔をした子どもが囁く。痛いのはよくないですわ、と。光を飲んだような碧眼に、アランはすっかり気圧されてしまう。その無防備な袖を引き、花壇の陰に押し込んで、彼女は言った。「秘密を教えてさしあげますわ」
年下の女の子だ。その気になれば、振り払うこともできただろう。だがどうして、そんな気になれただろう。幻想のような美しい姿を、拒絶しようなどと思えるだろう。それに、『秘密』とは…なんて魅惑的な響きだろうか。
好奇心で身を乗り出したアランを、どう思ったものか。小さな手がアランの口を塞ぎ、そのまま身を乗り上げて強引に押し倒した。
「まだわたくしが小さいころのことですわ。何番目かの義母さまが、わたくしに毒をもったんですの」
アランが声を上げようとするのを制し、ますます力を込め、ぐっと顔を近づける。
「わたくしは、すごく、すごく、苦しくて、このまましんでしまうのだとおもいましたわ」
柔らかな金色の髪が、アランの頬を撫でる。さらさらと、甘く戯れるように。ふるえて、力が抜けた。その淡いヴェールは、陽光をはらんで輝いていた。春の陽のように柔らかく、蜜のような艶を含んで、切なくなるほどに美しい。信じられないほど非現実的。…ああ。なんて、なんて…。
――そして、彼女の唇は生々しい言葉をはく。
「その義母さまも、毒をもった乳母も、わたくし、だいすきでしたのよ。ふたりも、わたくしのこと、だいすきでしたのよ」零れた髪を、幼い指がすくう。アランは茫然とその様を追う。「…だって、そういっていましたもの。なんども口にしましたもの。それでね…」抱き着くようにして、アランの耳元に迫り、言うのだ。「…これは、だれにもいったことがありませんのよ。お父さまにも、お母さまにも、言いませんのよ。…でも、あなたにはいいますわ。どうしてかしら? あなたなら、いいきがするのですわ」
壮絶なまでに、麗しい微笑み。
アランは喘いで…魅入られる。
「…わたくしね、あのひから、たくさん、たくさんかんがえて…かんがえて…ぜんぶ、ぜんぶが、はんたいなんだって、きがつきましたのよ」
「はんたい…?」と、苦しくこぼす。レベッカはうなずき、ようやく手を離した。
「そう。ぜんぶほんとうだったのなら、きっと、乳母のすきは、わたくしのきらいだったのですわ。ことばが、あべこべですの。…でもことばだけかしら? 気持ちもあべこべかもしれませんわ。でも、それなら結局、おなじことのはずですわ。なら、気持ちと言葉のつながりがあべこべかも?」熱のない、綺麗なばかりの、平坦な音が連なる。「そうしたらだんだん、わからなくなりましたのよ。乳母の『すき』はどちらの好きなの? 義母の『すき』はどうなのです? …わからないのなら、こうしてはなしていて、いったい、なんのいみがありますの? だって、はんたいなんですのよ?」
血の気のない唇が、おかしそうに、笑みを象った。
アランは言葉を失う。今初めて見たように、目の前の幼子を見る。彼女は、悲壮な様子もなく、聞いていますのと、怒った声を出している。それが途方もなく奇妙で、アランの世界までもが反対になってしまいそうで…彼女のことが恐ろしかった。
――きれいなものは、きれいじゃないものからできている。
ノアが柔らかな微笑でささやく。
彼女の、どこか遠く、人ではないような、異様な有り様の正体は。
震えるのがわかった。怪訝な顔をした子どもが、無遠慮にアランの頭をなでる。と、突然に羞恥心がこみ上げた。父や従弟に不平を言い、不満にふてくされ、迷子になって泣いている自分…なんて.…なんて、情けないのだろう。そうしたらまた涙が込み上げて、それが悔しくて、また涙がでた。子どもは呆れた顔をしていた。
「やっぱり痛いんですわ。痛いのをがまんすると、あとからもっと痛くなるんですのよ。おろかですわ。だからいったのですわ。痛いのなら痛いと、はやくいいなさいと」
「すいません…ありがとうございます…」
差し出されたハンカチで顔を覆い、アランは嗚咽した。自分でも、なぜ泣いているのか、明確な理由はわからなかった。それでも涙はとめどなく、そうして泣いて、泣いて…泣きつかれるころには、目が覚めたような心地なった。
傍らの子供の哀れが、心を打った。
アランは自分の恵まれた境遇を知った。
美しく、茫洋として、消え入りそうな存在を、必死にかき抱いた。
「痛いのはあなたの方です! 痛いのもわからないくらいに、痛いんですよ…」すこし迷って、「言葉を信じられなくても、痛みは信じられますか? こうしていたのなら、分かってもらえますか?」抱きしめる腕に、強く力を込める。大切なのだという気持ちを、胸に溢れさせる。声音は、決然と、力を込めて、「ぼくはあなたに感謝をしている。ぼくはあなたのことを、決して裏切りません。ボクの気持ちを全て、そのままに、あなたに捧げます。まじりけなく、そのままに…ぼくはあなたのことが、本当にだいすきです」
子供は始めきょとんと瞬いていたが、息を飲むと、声にならない悲鳴を迸らせた。
呆気に取られている内に、アランは突き飛ばされた。確かめると、真っ赤な顔をした子どもがいた。相変わらず信じられないほどに美しいが、怒りと、戸惑いと、喜びがない交ぜになった顔には、作り物めいたところなど、一片もありはしなかった。
「し、信じてさしあげてもよくってよ!」
返事は息も絶え絶えだ。アランはくすりと笑う。
「ありがたき幸せ、です」
ふざけた調子でいえば、彼女はむっとする。そんな顔すら愛らしく、アランはふふっと声をもらす。不満気な子どもも、誘われるように頬を緩ます。そのまましばらく、二人で笑い転げた。
とりとめのない話をした。離した傍から思い出せなくなるような、くださらない、中身のない会話…でも、楽しくて、大切だったことは忘れない。
しばらくすると、子どものメイドがやってきて、アランを部屋まで案内してくれた。彼女の名前も素性も知らないと気が付くのは、その夜、父に話をしようとした時だった。
少し考え、心の中でつぶやいた。――天使だ、と。
あれほど眩い景色を、二度と目にすることはないだろう。彼女の怒る顔を思い出しながら、そんなことを思う。アランはくすくすと笑った。この話が、ノアへの何よりの土産になるに違いない。
翌日、即位式が挙行された。三日滞在の後、一行は帰国した。
今にも、反対になっていこうとしている世界へと。
これはまだ、アラン・バルティルスが日常を生きていられた頃の、最後にみた、夢の話だ。




